第6話



「起きろー!」


 怒声と共に、俺の身体に強い衝撃が走る。目を覚ますと木葉が俺の腹に英和辞典を落としていた。朝だ。


「早く起きないと遅刻するよ」


 不自然なほどの笑顔を浮かべた木葉が優しい声でそう言った。間違いなく怒っている。


「おはよう」

「げっ……兄ちゃんその格好なに?」


 木葉に言われて、自分の姿を見た。俺は制服を着たままだった。昨日、帰ってからそのまま眠りについたらしい。やはりあの出来事は夢ではなかった。

重くなった空気を察したのか木葉が明るい声で俺を食卓まで引っ張っていった。


「昨日、遅くなった理由は聞かないから。でも、遅くなるなら今度からは、携帯に連絡入れてね。あたし、結構遅くまで起きてたんだからね」

「―――悪い」


 俺は一言そう言って、自分の部屋を出た。

朝食を食べてから、軽くシャワーを浴び、支度を整え、家を出るとさくらが待っていた。


「あ、春くんおはよう」

「おはよう、さくら」

「なんか元気ないね。なにかあったの?」


 俺は心配そうに覗きこんでくるさくらから目を逸らした。あんな出来事を相談する気にはなれない。しかしこれ以上心配かけるわけにもいかず、俺はとりあえず微笑みを返し、とにかく気を入れ替えようと軽い深呼吸を静かにした。


「兄ちゃん! 忘れ物だよ」


 どたばたと玄関から木葉が飛び出てくる。片手には布に包まれた箱を持っている。


「騒がしいな。もっとおしとやかにできないのか?」


 俺は心臓の下に残る心のしこりを無視するように、わざと木葉に軽口を叩いて見せた。

そんな俺達のやり取りを見て、さくらはクスクス笑っている。大丈夫、いつもの朝だ。


「なによ。ほらそんなことよりも、はい。これ、お弁当」


 ポンッと俺の胸元に箱を突き出した。


「えっ、おまえが作ったのか?」

「うん。そうだよ。昨日、誰かさんが帰ってこなかったから、作るのやめようかと思ったけどね」

「すまん。サンキュな」


 俺は木葉に礼を言ってから弁当箱を受け取り、自分の鞄に入れた。


「じゃ、いこっか」


 俺達三人は、取り留めのない話をしながらゆっくりと学校に向かった。暖かい陽光が辺りを包み、優しい風が頬を撫でた。


 このいつも通りの風景も現実だった。そして、昨夜の出来事もまた現実だった。今はそんなことを考えずに、ただ、変わりない日常に身を任せていたかった。

 学校に着いて、教室に行くと、俺はクラスメイトの集団の中に入っていった。さくらも自分の友達のところに紛れ込んで行った。


 さくらは教室の中ではあまり俺と話そうとはしなかった。この十年の間にさくらはさくらの人生を、俺は俺の人生を歩んできた。あまりに長い間離れていた俺達は昔のようにずっと一緒にいられるというわけにはいかなかった。

 担任教師が入ってくると共に皆、それぞれの席へと足を向けた。出席をとる姿をぼぅっと眺める。名前、返事。名前、返事。一定のリズムで、それを繰り返す。そして、それが途切れた。


「霧島桃花とうか。―――霧島いないの?……っていうかあいつの場合は遅刻か」


 ため息を一つこぼし、出席簿に記入しようとした、その時、教室の後ろの扉が開いた。


「すいません。遅れました」


 女生徒だった。透き通るような声で、そう静かに言うと、自分の席についた。


「はいはい。霧島は出席……っと。つぎ小島。」

「あいつ……」


 見覚えのある顔に俺の体はまた恐怖に包まれた。

間違いない。あいつは昨夜、怪物と戦っていたあの少女だ。何で、あいつがこんなところに。


 彼女が――霧島桃花がチラリとこちらに振り向いた。視線がぶつかり合い、俺は視線を逸らし、机に突っ伏した。

 彼女は俺のことを覚えている。ひどく冷たい目をしていた。あの返り血に染まった姿が目に浮かぶ。俺は身震いして、机にしがみついた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る