第5話

 なんとなくまっすぐ帰る気にもなれず、俺は街の方へと向かっていた。

 通り過ぎる風景に目を向けても、やはり見知らぬ風景ばかりで、俺の中の記憶を思い起こさせるようなものは見当たらなかった。


 綺麗に舗装された道路。きちんと区画整理された街並み。俺がこの街を去ったあとに大きな都市開発が行われたらしく、そのせいで俺が過ごした思い出の場所は自分の家と、あの桜花の木を除いて全く無くなってしまった。

 俺が今、こうして歩いている道も幼い頃にさくらと一緒に走った道なのだろうか。それすらも分からない。

 俺は不安だったのかもしれない。本当は知らない街に来てしまったのではないかと、そんな気持ちにさせられる。俺は自分がここにいたという証拠を探しているだけなのかもしれない。


「―――あれっ?」


 ふと、周りを見てみるとすっかり暗くなっていた。ぼぅっと考え事をしているうちにだいぶ時間が過ぎていたらしい。

 そろそろ帰ろうと来た道へと引き返し始めたが、しばらく歩いていると、どんどん人が減っていることに気付く。周りの風景も来た道とは違っている気がする。


「こっちだったっけ?」


 誰に聞くわけでもなく、呟いていた。少しずつ独り言が増えている。街の深くへと入りこみ、不安が心を焦らせる。焦りが不安を増大させ、心の悪循環が頭を混乱させてくる。俺は徐々に走り始めていた。

 そして、人の気配が完全に途切れ、時計に目を落とすともう九時半を過ぎた頃だった。


 目の前にはうっすらと街灯の光が並んでいる。何かがおかしい。さっきから、違和感だけが付きまとう。静かすぎる。風の音と俺の吐息以外、何も聞こえない。住宅から光だけが漏れている。まるで死んでしまったように静かな世界。


「―――なんか、変だ」


 胸の奥にまとわりつく不安がより一層強まる。暗闇が俺のことを笑っているような気がした。急に目の前がぼやけてきた。目の前が歪んで見える。


(めまいか……?)


 ―――違うよ


 はっきりと囁き声が聞こえた。


「なにが違う……」


 それは耳の奥から聞こえてくるような、足元から聞こえてくるような、そんな囁き声だった。


 ―――わかってるだろ?


 子供のようで、大人のようで、老人のようで……。


「だ、誰だっ!」


 大声で叫んでいた。得体の知れないその声から逃げたかった。


 ―――わかってるくせに………。


 はっきりと聞こえたその声の後、あの頭の痺れが俺を襲った。

 俺は頭を抱えうずくまってしまった。指の隙間から見える、目の前の歪みが大きくなる。そこからなにかが出てきた。

 それは太い腕だった。

 腕、肩、頭、体と歪みからそれは現れた。身の丈二メートル以上もありそうな巨大な生き物。剥き出しの歯。二本の角。


 夢……なのか?

 そう思って周りを見る。ディティールがはっきりしすぎている。


「ぐぉおおおおおお」


 それが唸った。俺はただ見ていることしか出来なかった。理解できない現象が目の前で起こっている。得体の知れないなにか。

 普通では有り得ない。現実では起こり得ないことが――起こってしまった。起こってしまったのだ。


「ぐぉぉおおおおおおおおおおお!」


 怪物は大きく雄叫びを上げると腕を振り上げた。頭の中には死のイメージだけが浮かんでくる。

 ―――こんな意味わからないやつに意味わかんないまま殺されちまうのかな。


 目の前には怪物の手が迫っていた。俺はぎゅっと目を瞑った。

 その時、誰かが俺の肩を引いた。


「―――お下がりください。澤見様」


 何かがぶつかり合うような音のあと、俺はゆっくりと目を開けた。目の前に少女の背中が写った。

 腰まで届きそうな長い黒髪が二つに結い分けられ、綺麗に風に揺らいでいる。俺は地べたにぺたりと座り込んでいた。

 彼女は怪物の攻撃を受け止めていた。怪物との間にきらりと光が瞬く。あれは刀だろうか。


「お下がりください。早くっ!」


 少女の一喝で俺は立ち上がった。そうだ。とにかく離れないと。

 俺がその場から少し離れると、少女は刀をずらし、怪物の攻撃を受け流した。怪物の爪が地面を削り、アスファルトがひび割れ、くっきりとその破壊の傷跡を残す。怪物が腕を横に払うと同時に少女は後ろに飛び跳ねる。互いに間合いを取る。

 電柱の光が少女を照らす。長い静寂。ほんの十数秒なのだろうがとても長く感じられる。俺の手の中には汗がにじんでいた。少女と怪物と俺の息遣いだけがその場を支配していた。


 唸り声が、怪物の喉の奥から響く。引き締まった岩のような筋肉が蠢いているように見えた。

 怪物が先に動いた。いっきに間合いを詰め、その手を振り上げ、少女めがけて一気に振り下ろす。風の凪ぐ音が強く響いた。

 そして怪物と少女が重なり合った。

 しかし、その腕が少女を捉えることはなく、怪物の腕は宙をくるくると回っていた。


「がぁぁああああああああ!!」


 腕の切断面を抑え怪物は苦しんでいた。少女の刀から赤い血が滴り落ちる。

 怪物は憎悪の目で睨みつけると左腕を狂ったように振り回した。少女はそれをくぐり抜け、怪物に体当たりするようにぶつかると、その背から血に染まった刀が突き出るのが見えた。

 短い静寂の中、背中から突き出た刀から、一滴だけ血が地面に落ちた。

 少女は怪物を押し蹴り、刀を抜き去るとその首に刀を当てた。

 ふと少女が首を傾げた。すると少女の顔の横を怪物の手が通り抜けた。あまりに普通に首を傾げたように見えたから、攻撃をかわしたようには見えなかった。


「―――さようなら」


 少女は呟き、刀を振り下ろした。辺りが血に染まり、怪物の首がごろりとその場に転がるのが見えた。怪物の傷口から、大量の血が噴水のように吹き出て、少女はそれを交わそうともせず、一身に浴びていた。

 少女は振り返り、こちらを見た。真っ赤に染まった顔に美しい目だけが際立って見えた。右手の刀が街頭の光を跳ね返し、怪しく光っていた。


「お怪我はございませんか?」


 俺は怖かった。急に襲いかかってきた怪物のことが。そして、返り血で真っ赤に染まった少女のことが。逃げ出そうにも身体が言うことを聞かない。一歩一歩、少女が近づいてくる。刀から血が滴り、地面に血痕を残す。俺は思わず叫んだ。


「く、来るな!」


 少女はびくりと身体を震わせ歩みを止めた。無表情で俺のことを見つめている。

 その時、異変が起こった。少女に付着した返り血が、砂に変わって風に流れて消えてしまった。少女の向こうに見える怪物の死体もブスブスと消えていく。そして俺と少女だけが残されていた。


 何が起こったのか、理解の限界をとっくに超えてしまっていた。怪物が出てきた。刀を持った少女が怪物を殺して、そして怪物が消えて……。少女はまた静かに俺の方へと歩き始めた。片手には刀。もう片手はなぜか耳を覆っている。俺の身体はまだ恐怖に支配されていた。


 頭の中にビジョンが映る。少女が刀を振り上げ、俺に向かって振り下ろす。狂気に満ちた瞳で俺を見下ろす姿が――。俺の返り血を浴びる、少女の姿が――。

 俺は自分の足が動くことを確認する。大丈夫。立って走ることくらいはできる。もう少女との距離は残りわずかだ。手元に小さな石のかけらが転がっている。さっき、怪物が削ったアスファルトの一部だ。俺はその石を握り締めた。


「うわぁぁぁぁ!」


 石を少女の方に向かって投げつける。石がぶつかるのを見るよりも先に俺は走り出していた。追いかけてこないだろうか。後ろに振り返ることすら恐ろしく、俺はただ、走りつづけた。足が悲鳴をあげても、喉がからからに干上がっても、俺はただ走りつづけた。そうすることしか、俺にはできなかった。



 どうやって辿り着いたのか、俺は自分の家に帰り着いていた。木葉はもう眠ってしまっていたらしく、家の中は静まり返っている。俺は自分の部屋に入り、ベッドに倒れこんだ。


 何も考えたくなかった。まだ、身体は熱を帯び、身の内には恐怖が残っていた。俺はあんな生物を見たことがない。俺が生きてきた十七年の中でわかっているのは、あれは空想の中に出てくるような、ありえない生物であると言うことだけだった。


 闇の中から突然現れた生物。そして、それと戦っていた少女。怪物の顔が頭に浮かんだ。恐ろしい雄叫びがまだ耳に残っている。怖かった。あの怪物のことが。そして、返り血を浴びても顔色一つ変えなかったあの少女も、俺は怖かった。あれも人ではない何かのような、そんな気がしていた。




 気が付くと、真っ暗な闇の中に立っていた。足元は波紋が広がっている。ちゃんと地面に立っているのに、波紋だけが広がっている。


 周りを見回してみる。後ろの空には月が大きく浮かんでいる。前を見返すと花が一輪、現れた。見たこともない綺麗な白い花。俺はしばらくその花を見つめていた。

 風になびくように揺れている。優しい風が吹いているようだった。俺の肌には感じられないやさしい風。


 背後から、強い風が吹いた。花が吹き飛んでしまうような、強い風。俺は風上へと振り返った。

 そこにはあの怪物が立っていた。視線は俺の背後へと向けられている。俺の背後にある花のほうに。振り返ろうとした時、突如、怪物が突進してきた。ひどくゆっくりと怪物が近づいてくる。


 また背後から風が吹いた。あの少女が俺の横を通り抜け、怪物の首を討ち取っていた。返り血に染まり、何度も怪物の身体を突き刺していた。

 目を逸らし、後ろを振り返った。そこにあった白い花は散っていた。いつの間にか少女も怪物も、そして、空にあった月もその姿を消していた。俺の姿も足元の波紋も、散ってしまった花も何も見えなくなってしまった。


 暗闇と静寂だけが俺を包んでいた。


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