第9章:最初の試練
アルゴスが太陽系を離れてから約4ヶ月が経過した頃、最初の本格的な試練が彼らを襲った。それは、事前の航路スキャンでは検出できなかった、微小なブラックホールが密集する暗黒星団の辺縁部を航行中のことだった。
「艦長! 前方に予期せぬ高密度重力源を多数検知! コース上に散在しています!」ブリッジにハナの鋭い声が響いた。メインスクリーンには、通常空間では視認できないはずの、しかし周囲の星の光を歪めることでその存在を辛うじて示す、多数の小さな重力異常点がマッピングされていた。
「マイクロブラックホール…だと?」リアム博士が科学ステーションから身を乗り出した。「こんな規模のクラスターは理論上、ありえないはずだが…!」
「理論は後にして、博士!」アリアは即座に指示を飛ばした。「イリス、回避コースを再計算! サム、船体への影響を最小限に抑えるため、慣性ダンパー最大出力! 全クルー、衝撃に備えよ!」
「回避コース、計算完了。しかし、艦長、いくつかのマイクロブラックホールの重力井戸が複雑に干渉しあっており、完全に安全なルートは存在しません。最もリスクの低いコースを選択しても、船体にかなりの負荷がかかることが予想されます」イリスの警告は、アリアの脳内インプラントに直接届いた。
「やるしかないわ。ハナ、回避コース入力! サム、状況を逐次報告!」
アルゴスは、まるで小惑星帯を縫って進む戦闘機のように、巧みに船体を傾けながら、見えざる重力の罠の間を突き進み始めた。しかし、マイクロブラックホールの重力は、その小ささにもかかわらず極めて強力で、船体は断続的に激しい揺れに見舞われた。ブリッジでは、アラート音が鳴り響き、クルーたちはシートに体を固定しながら、必死にそれぞれの任務をこなしていた。
「船体中央部、フレームに応力集中! 限界値の70%!」サムの声が緊張にこわばる。
「ワープフィールド・ジェネレーターに軽微な出力低下! おそらく重力干渉です!」ハナも続く。
「このままでは危険だ…」リアム博士が呻いた。「マイクロブラックホール同士が接近しすぎている。連鎖的な潮汐効果で、空間そのものが引き裂かれかねない…!」
アリアは、操縦桿を握りしめ、額に汗を滲ませながら、イリスが提示する最適航路を必死に維持していた。彼女の脳裏には、かつて木星軌道で経験した、制御不能に陥った船の恐怖が蘇りそうになる。だが、それを意志の力でねじ伏せた。
「イリス、このクラスターを抜けるまで、あとどれくらい?」
「現在の速度とコースを維持できれば、約15分です。しかし、前方の重力場はさらに複雑化しています。予測不能な重力波が発生する可能性も…」
イリスの言葉が終わるか終わらないかのうちに、船体を巨大な手で掴んで揺さぶるような、これまでとは比較にならないほどの激しい衝撃がアルゴスを襲った。
「ぐわっ!」サムが呻き声を上げた。「第3エンジンナセル、被弾…いや、違う! 強力な重力パルスだ! 外装パネルの一部が剥離した模様!」
「右舷の補助スラスター、応答なし! メインスラスターだけで姿勢を維持しています!」ハナの悲鳴に近い声。
メインスクリーンには、船外カメラが捉えた衝撃の瞬間がリプレイされていた。アルゴスの右舷から、目には見えない何かが船体を掠め、その部分の装甲が紙のようにめくれ上がるのが見えた。それは、マイクロブラックホール同士の接近によって発生した、局所的な時空の断裂だったのかもしれない。
「まずい…このままでは船体が持たない!」アリアは歯を食いしばった。「イリス、何か手は!? ワープジャンプでここから離脱できないの!?」
「現在の重力場では、ワープフィールドの安定した生成は不可能です、アリア。下手をすれば、フィールドが崩壊し、船体が圧壊します」
絶望的な状況だった。その時、リアム博士が叫んだ。
「待ってください、艦長! あの重力パルスのパターン…周期性があるかもしれません! もし、パルスの合間を縫って進むことができれば…!」
「周期性ですって?」
「ええ、オルフェウス3号機がXオブジェクト周辺で観測した時空の揺らぎと、どこか似ているんです! あれも、一見ランダムに見えて、その実、高次元の干渉パターンが作り出す、一種の『リズム』があった…!」
アリアは一瞬ためらった。それはあまりにも博打に近い賭けだ。しかし、このまま進んでもジリ貧になるのは目に見えている。
「イリス、リアム博士の仮説に基づいて、重力パルスの周期を予測し、回避ルートを再計算できる?」
「…計算を開始します。誤差は大きいですが、短期的予測は可能です。ただし、艦長、これは極めて危険な操艦を要求します。あなたの反射神経と判断力だけが頼りです」
「やってやるわ」アリアは決然と言った。「ハナ、サム、私を信じて。リアム博士、パルスの兆候を捉えたらすぐに知らせて!」
新たな航路が表示され、それはまるで、怒り狂う巨人のパンチを紙一重でかわし続けるような、信じられないほどタイトなものだった。アリアは全神経を集中させ、スラスターを微妙にコントロールしながら、アルゴスを踊らせるように操った。
「次、来ます! 3秒後、右前方!」リアム博士が叫ぶ。
アリアはコンマ数秒のタイミングで船体を左に急旋回させ、襲い来る見えない衝撃波を回避した。船内には、回避しきれなかった衝撃の余波で、再び激しい揺れが走る。
「よし、次だ!」
それは、死と隣り合わせのダンスだった。アリアの額からは玉のような汗が流れ落ち、操縦桿を握る手は白くなっていた。ブリッジの他のクルーたちも、息を殺してアリアの神業のような操艦を見守っていた。
数分が永遠のように感じられた後、イリスが静かに告げた。
「…重力異常帯、通過しました。船体への負荷、危険レベルを脱しました」
ブリッジは、しばし完全な沈黙に包まれた。そして、誰からともなく、安堵のため息と、それを打ち消すような荒い呼吸が漏れ始めた。
「…やった…やったぞ…!」サムが、かすれた声で言った。
アリアは、操縦桿を握ったまま、深く息を吐き出した。全身の力が抜け、指が震えているのが自分でも分かった。
「イリス、船体の損傷状況を報告して」
「右舷補助スラスター大破。外装パネル数カ所に亀裂及び剥離。第3エンジンナセル、出力70%に低下。その他、船体フレーム各所に微細なストレスを確認。しかし、気密性及び主要構造に致命的な損傷はありません。航行継続は可能です」
「不幸中の幸い、というべきかしらね」アリアは自嘲気味に言った。「サム、ハナ、タイタンを使って船外修理を。急いで。エヴァ、皆のメディカルチェックをお願い。リアム博士…あなたの仮説が私たちを救ったわ。ありがとう」
リアム博士は、興奮と疲労で顔を紅潮させながら、アリアに力なく微笑み返した。
この最初の試練は、アルゴスのクルーたちに、これから先の旅がいかに過酷なものになるかを改めて思い知らせるものだった。しかし同時に、彼らは、互いの能力を信頼し、極限状態でも決して諦めないことの重要性を再確認した。そしてアリアは、自分の中に、まだ艦長としての、そして宇宙飛行士としての炎が消えずに残っていることを確信した。
アルゴスは、傷つきながらも、再び深宇宙の暗闇へとその針路を定めた。Xオブジェクトは、まだ遥か彼方だ。しかし、彼らの心は、この試練を乗り越えたことで、以前よりもわずかに強くなっていた。
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