第8章:船という名の小宇宙
アルゴスは、全長200メートルを超える巨大な船体を持ちながら、その内部に暮らす人間はわずか5名。そして、彼らをサポートするAIイリスと10体のタイタンロボット。数ヶ月に及ぶ深宇宙航行において、この船は彼らにとって唯一の世界であり、生活の場であり、そして時には、息詰まるような閉鎖空間でもあった。
船内の生活は、厳格なスケジュールと、個々の自由な時間が組み合わされて構成されていた。午前6時、船内時刻に設定された人工太陽光が居住区画を照らし、一日の始まりを告げる。クルーたちは、それぞれの個室で目覚め、身支度を整え、食堂兼レクリエーションルームへと向かう。食事は、主に船内で水耕栽培される野菜や藻類をベースにした合成食だが、エヴァ医師の監修のもと、栄養バランスと味には最大限の配慮がなされていた。時折、サムが持ち込んだスパイスや、リアムが故郷から持ってきた乾燥ハーブが料理に加えられ、単調になりがちな食卓に変化をもたらした。
食事の時間は、クルーたちが任務を離れてリラックスできる貴重なひとときだった。サムの豪快な冗談が場を和ませ、リアムの宇宙物理学に関する難解だが興味深い話が知的好奇心を刺激し、ハナの冷静な分析が時折議論の火種となり、そしてエヴァがそれらを穏やかにまとめ上げる。アリアは、そんなクルーたちのやり取りを、艦長として、そして一人の仲間として見守っていた。
「なあ、博士」ある日の朝食時、サムがリアムに話しかけた。「あんたが言うワームホールってのは、結局のところ、宇宙の抜け道みたいなもんなんだろ? そいつを通り抜けたら、本当に一瞬で銀河の反対側とかに行けちまうのか?」
リアムは、合成コーヒーのカップを置き、熱心に説明を始めた。「ええ、理論上はそうです、サム。一般相対性理論が許容する解の一つとして、時空の異なる二点を結ぶトンネル、アインシュタイン・ローゼン橋の存在が示唆されています。もしXオブジェクトがその一種であり、かつ安定していれば…」
「安定していれば、ね」ハナが横から口を挟んだ。「その『安定性』を保証するエキゾチックマターとやらは、未だに発見されていない仮説上の物質でしょう? まるで、幽霊の存在を証明するために、別の幽霊を持ち出すようなものだわ」
「手厳しいな、ハナ君」リアムは苦笑した。「しかし、科学の歴史は、常に大胆な仮説とその検証の繰り返しだ。かつては太陽が地球の周りを回っていると信じられていた時代もあったのだから」
「その大胆な仮説の検証のために、私たちの命がチップとして賭けられていることもお忘れなく」アリアが静かに会話に加わった。「議論は結構。でも、常に最悪の事態を想定し、備えることを怠らないように」
ブリッジは、緊張感と知的興奮が交錯する空間だった。アリアとハナが主に運用を担当し、リアムは専用の科学ステーションでXオブジェクトの観測データと格闘していた。イリスは、ブリッジ全体の情報を統合し、アリアの意思決定をサポートする。時折、大きな発見や懸念事項が報告されると、クルー全員がブリッジに集まり、侃々諤々の議論が交わされた。
研究ラボでは、リアムとエヴァが協力して、Xオブジェクトから放出される微弱な粒子や放射線の分析を行っていた。リアムが物理学的な側面から、エヴァが生物学的・化学的な側面からアプローチすることで、多角的な知見を得ようという試みだった。タイタンの一体が、研究助手の役割を黙々とこなしていた。
機関部と船体各所のメンテナンスハッチは、サムの聖域だった。彼は、まるで自分の体の一部であるかのようにアルゴスの構造を熟知しており、タイタンたちと共に、常に船の状態を最高のコンディションに保つべく努力を続けていた。彼の作業着はいつもオイルと汗の匂いがした。
クルーたちの個室は、それぞれの個性が反映された空間だった。アリアの部屋は、質素で機能的だったが、壁には一枚だけ、故郷の地球の青い海の風景写真が飾られていた。リアムの部屋は、雑然とした書物とデータパッドに埋め尽くされ、まるで小さな宇宙物理学の図書館のようだった。ハナの部屋は、最新のガジェットと自作の小型ロボットが整然と並び、彼女の技術への情熱を示していた。サムの部屋には、家族の写真と、彼が愛する古典的なロックバンドのポスターが飾られていた。エヴァの部屋には、小さな観葉植物が置かれ、彼女の穏やかで優しい人柄を反映していた。
長期航行における精神衛生の維持は、エヴァ医師の重要な任務の一つだった。彼女は、定期的なカウンセリングに加え、クルーたちがリラックスできるような様々なレクリエーションを企画した。VRシアターでの映画鑑賞会、古典的なボードゲーム大会、あるいは、無重力トレーニングルームでのエクササイズ。特に好評だったのは、サムが持ち込んだ年代物のギターと、エヴァの澄んだ歌声による即席のコンサートだった。その時ばかりは、クルーたちは任務の重圧を忘れ、心からの笑顔を見せた。
イリスもまた、この閉鎖された小宇宙における重要な構成員だった。彼女は、クルーたちの会話パターン、行動様式、さらには無意識の癖まで学習し、それぞれに最適化されたコミュニケーションを試みた。ある時はユーモラスなジョークで場を和ませ、ある時は深遠な哲学的問いかけで知的好奇心を刺激し、またある時は、クルーが一人で抱え込んでいる悩みにそっと寄り添った。
「イリス、あなたはまるで、私たち全員の母親のようだわ」あるカウンセリングの際、エヴァがイリスに言った。
「母親という概念は、生物学的な繁殖と養育に関わるものであり、私のような情報生命体には直接的には適用できません。しかし、もしそれが、対象の安全と幸福を願い、その成長を支援する存在を指すのであれば、その役割を果たすことにやぶさかではありません」イリスは、猫のアバターの姿で、優雅に答えた。
しかし、この小さな宇宙にも、時折、不協和音が響くことがあった。任務へのプレッシャー、終わりの見えない航海への不安、そして、それぞれが抱える過去のトラウマ。それらが複雑に絡み合い、クルーの誰かが感情を爆発させたり、あるいは逆に内に閉じこもってしまったりすることもあった。そんな時、アリアは艦長として、そしてエヴァは医師として、イリスはAIとして、それぞれの立場から問題解決のために尽力した。それは、人間とAIが互いの限界を補い合いながら、困難な状況を乗り越えようとする、アルゴスならではの光景だった。
船という名の小宇宙は、様々な個性と感情を乗せて、深宇宙の暗黒の中を突き進んでいく。その先にあるXオブジェクトは、彼らにとって希望の門となるのか、それとも絶望の深淵となるのか。答えを知る者は、まだ誰もいなかった。彼らはただ、一歩ずつ、一光日ずつ、運命の場所へと近づいていくだけだった。
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