第2部:深宇宙への旅路 第7章:星々の海へ
アルゴスは、月面ヘファイストス・ステーションの発進ゲートを滑るように通過し、静かに、しかし力強く漆黒の宇宙へとその巨体を進めた。眼下には、故郷である青い惑星、地球が徐々に小さくなっていく。その美しさと儚さが、クルーたちの胸を締め付けた。数分後、アルゴスは地球周回軌道を離脱し、太陽系外縁部へと向かうための加速フェーズに入った。
ブリッジのメインスクリーンには、船外カメラからの映像がリアルタイムで映し出されている。太陽の光を浴びて銀色に輝く船体の一部と、その背景に広がる無限の星々。それは、人類のちっぽけさと、同時にその飽くなき探求心の象徴のようだった。
「全システム、加速フェーズ異常なし。船体構造、応力限界内」サム・ジョーンズが、機関コンソールから力強く報告した。彼の目は、複雑な計器類を絶えず監視し、アルゴスの鼓動を確かめている。
「ナビゲーションシステム、目標座標セクター・ノクターン、Xオブジェクトに向けて最終コース確認。ワープジャンプポイントまで、あと15分」ハナ・タナカが、冷静な声で続く。
「リアム博士、Xオブジェクトに関する最新の観測データに変化は?」アリアは、隣の科学ステーションに座るリアムに問いかけた。
リアムは、額に装着したニューロインターフェースを通じて送られてくる膨大なデータを睨みながら答えた。「現時点では、大きな変化は見られません、艦長。依然として不規則なエネルギー放出と、予測不能な時空の揺らぎが観測されています。まるで…生きているかのようです。あるいは、非常に気まぐれな神の寝息とでも言いましょうか」
「詩的な表現はいいけれど、突入時にはもっと具体的な予測をお願いするわ」アリアは軽く釘を刺したが、リアムの言葉がXオブジェクトの不気味さを的確に表していることも理解していた。
エヴァ・ローゼンバーグ医師は、ブリッジの後方にある医療ステーションで、クルーたちのバイタルデータを監視していた。「皆さん、心拍数、血圧ともに若干高めですが、許容範囲内です。ワープジャンプ前の精神的な高揚でしょう。深呼吸を心がけてください」
そして、ブリッジの中央、艦長席に座るアリアの脳内インプラントに、イリスの声が直接響いた。
「アリア、ワープジャンプシーケンスの最終確認が完了しました。オリオンV型ワープドライブ、全コンポーネント正常。ワープフィールドの生成と安定化は、理論上99.9999%の確率で成功します。ただし、これは通常の星間空間における数値です」
「分かっているわ、イリス。その『ただし』の先が、私たちの仕事なのよ」アリアは心の中で応じた。
15分後、アルゴスは太陽系の重力井戸を完全に離脱し、最初のワープジャンプポイントに到達した。ここから先は、人類が日常的に航行している宙域を大きく外れることになる。
「全クルー、ワープジャンプに備えよ」アリアの号令がブリッジに響いた。「イリス、カウントダウン」
「了解。ワープジャンプシーケンス開始。Tマイナス10秒。9、8…」
メインスクリーンに映る星々が、ゆっくりと歪み始める。船体が微かに振動し、ワープコアの低いうなりが船内に響き渡った。
「…3、2、1…ワープフィールド展開! ジャンプ!」
強烈なGがクルーたちをシートに押し付けた。窓の外の景色は一瞬にして虹色の光の奔流へと変わり、次の瞬間、アルゴスは全く異なる星空の中にいた。最初のワープジャンプは成功した。目的地であるセクター・ノクターンまでは、このワープジャンプを数回繰り返す必要がある。それは、数ヶ月に及ぶ孤独な旅の始まりだった。
最初の数週間は、比較的平穏に過ぎた。クルーたちは、アルゴスという新たな環境に順応し、それぞれの持ち場で日々の業務をこなし始めた。アリアは艦長として、船全体の指揮を執り、定期的なミーティングでクルーたちと情報を共有し、意思決定を行った。リアム博士は、Xオブジェクトから微弱ながらも届く様々な波長の放射線を分析し、その内部構造やエネルギー源に関する新たな仮説を構築しようと試みていた。ハナは、イリスと共にアルゴスの全システムを24時間体制で監視し、わずかな異常も見逃さないよう神経を尖らせていた。サムは機関部の点検とメンテナンスに余念がなく、時折、タイタンロボットを伴って船外に出ては、宇宙空間の過酷な環境に晒される船体の微細な損傷をチェックした。エヴァ医師は、クルーたちの健康管理はもちろん、閉鎖空間でのストレスを軽減するためのカウンセリングやレクリエーション活動を企画した。
イリスは、この航海において、単なるサポートAI以上の役割を果たしていた。彼女は膨大な天文データをリアルタイムで解析し、最適な航路を計算し、船内環境を常に快適な状態に保った。また、クルー一人一人の個性や能力を深く理解し、それぞれに合わせた情報提供や助言を行った。アリアとの間では、技術的な議論だけでなく、時には生命の定義や宇宙の終焉といった哲学的なテーマで、深夜まで対話が交わされることもあった。
「イリス、あなたは私たち人間が、なぜこんな危険を冒してまで未知の領域に踏み込もうとするのか、本当に理解できる?」ある夜、アリアは自室で、イリスのホログラムアバターに向かって問いかけた。そのアバターは、アリアがかつて飼っていた猫の姿を模していた。イリスが、アリアの潜在的なストレスを軽減するために選択した姿だった。
「論理的な観点からは、非効率的かつ高リスクな行動です」猫の姿をしたイリスは、しなやかな尾を揺らしながら答えた。「しかし、あなたたちの歴史を学ぶにつれ、その『非合理性』こそが、進化と発見の原動力であったことを理解しつつあります。もし人類が常に合理的な判断だけを下していたら、おそらく今もアフリカのサバンナで狩猟採集生活を続けていたでしょう。あるいは、それ以前に絶滅していたかもしれません」
「皮肉屋ね」アリアは苦笑した。
「事実を述べているだけです。そして、アリア、あなた自身もまた、その『非合理性』の強い体現者の一人です。そうでなければ、今頃、地球で平穏な余生を送っていたはずですから」
イリスの言葉は、アリアの胸の奥深くに突き刺さった。彼女は、平穏な生活を捨ててまで、なぜこの船に乗っているのか。失った仲間たちへの贖罪か、それとも、ただ単に、宇宙の深淵が彼女を呼び寄せているだけなのか。答えは、まだ見つからなかった。
航海は、常に平穏というわけではなかった。ある時は、未確認の小規模な重力異常帯に遭遇し、船体が激しく揺さぶられ、一時的にワープドライブが不安定になった。またある時は、太陽系外から飛来したと思われる高エネルギー宇宙線の直撃を受け、一部の外部センサーが損傷し、サムとタイタンたちが危険な船外活動を強いられたこともあった。これらの小さな危機は、クルーたちの結束力を試す試練となり、彼らはその度に、互いの能力を信頼し、協力し合うことで乗り越えていった。
そして、数ヶ月が経過し、アルゴスは目的地であるセクター・ノクターン、Xオブジェクトが潜む宙域へと、徐々にその姿を現し始めていた。それは、星々の光さえも疎らな、深淵と呼ぶにふさわしい暗黒の領域だった。クルーたちの心に、新たな緊張感が走り始めていた。人類の誰もが到達したことのない、未知との遭遇が、間もなく始まろうとしていた。
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