第5章:地獄の訓練とシミュレーション
アルゴスのクルーにとって、地球周回軌道上の宇宙ステーション「プロメテウス」での数ヶ月間は、文字通り地獄のような訓練期間となった。ステーション内に設けられたアルゴス実物大のモックアップと、最新鋭のVRシミュレーターを駆使し、彼らは来るべき航海で想定されるあらゆる事態への対処能力を叩き込まれた。その過酷さは、アリアがかつて経験した宇宙軍の特殊部隊訓練をも上回るものだった。
まず行われたのは、長期閉鎖環境適応訓練だ。クルーたちはアルゴスの居住区画を模した閉鎖空間に数週間隔離され、外部との接触を極限まで制限された。食事、睡眠、作業、休息、その全てが厳密に管理され、彼らの生理的・心理的変化は24時間体制でモニタリングされた。この訓練の目的は、単に閉鎖環境に慣れることだけではない。極限状態における人間関係の構築、ストレス管理、そして何よりも、互いの限界と強みを理解し合うことにあった。
最初の数日は、表面的な協力関係が保たれていた。しかし、閉塞感と単調な日常が続くうちに、些細なことでクルー間に摩擦が生じ始めた。リアム博士のマイペースな生活態度が几帳面なハナの神経を逆撫でし、サムの無遠慮なジョークがエヴァ医師の眉をひそめさせた。アリアは艦長として、これらの小さな火種が大きな問題に発展しないよう、常に気を配り、時には厳しく、時には諭すように仲裁に入った。
「ここは社交クラブじゃないのよ」ある日、食事中に口論を始めたリアムとハナに対し、アリアは静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。「私たちは、成功確率が限りなくゼロに近い任務に、命を懸けて共に挑むチームなの。互いの違いを尊重し、理解し合えなければ、ワームホールに辿り着く前に自滅するわ」
イリスもまた、この訓練に積極的に関与した。彼女はクルー一人一人の心理プロファイルを詳細に分析し、それぞれのストレスレベルや感情の起伏をアリアに報告した。さらに、クルー間のコミュニケーションを円滑にするためのグループセッションを提案したり、個別のカウンセリングを行ったりもした。その的確なアドバイスと、時折見せる人間的な配慮は、クルーたちがイリスを単なる機械ではなく、チームの一員として認識する上で大きな役割を果たした。
長期閉鎖環境訓練と並行して行われたのが、ワープ航法の高度訓練だった。アルゴスのブリッジを忠実に再現したシミュレーターで、クルーたちはワープフィールドの生成・制御、緊急離脱プロトコル、そして、様々なトラブルシューティングを繰り返し叩き込まれた。
「ワープフィールドは、宇宙の生地を力ずくで歪める、極めてデリケートなバランスの上に成り立っている」教官の一人である老練なワープエンジニアは、厳しい口調で言った。「ほんのわずかなパラメータのズレが、フィールドの不安定化を招き、最悪の場合、船ごと亜空間の狭間に消し飛ぶことになる。君たちは、ワープドライブを自分の手足のように使いこなし、その微細な変化を感じ取れるようにならなければならん」
アリアは、その言葉の意味を誰よりも理解していた。彼女は、過去のシミュレーションで何度もワープフィールドの暴走を経験し、その度に「死亡」判定を受けていた。操縦桿を握る彼女の手には、常に冷たい汗が滲んでいた。
そして、訓練の最終段階として行われたのが、Xオブジェクトへのワープ突入シミュレーションだった。これは、プロジェクト・オデッセウスの核心であり、同時に最大の難関だった。イリスが収集したXオブジェクトの限られた観測データと、リアム博士の理論モデルに基づいて構築されたシミュレーションは、クルーたちに悪夢のような光景を繰り返し見せつけた。
あるシミュレーションでは、ワープフィールドがXオブジェクトの時空界面に接触した瞬間、予測不能なエネルギー逆流が発生し、ワープコアが暴走、アルゴスは閃光と共に消滅した。またあるシミュレーションでは、船体はワームホール(仮)内部に突入できたものの、内部の激しい時空乱流によって船体が構造的限界を超えて圧潰した。さらに別のシナリオでは、ワームホール自体が突入の衝撃で不安定化し、出口に到達する前に崩壊、アルゴスは永遠に時空の牢獄に閉じ込められた。
「こんなもの…本当に成功する可能性があるのか?」何度も「死亡」を経験した後、サムはシミュレーターから這い出すようにして、床にへたり込んだ。彼の顔は蒼白で、全身は汗でぐっしょりと濡れていた。
「成功するシナリオも、ごく僅かながら存在します」イリスが冷静に答えた。スクリーンには、アルゴスが奇跡的にワームホールを通過し、未知の星空へと到達する映像が映し出された。しかし、その映像はあまりにも現実離れしており、まるでCG映画のワンシーンのようだった。
「その『奇跡的な整合性』とやらは、どうすれば達成できるんだ?」ハナが、疲労を滲ませながらも鋭く問い詰めた。
「それは…現在の我々の知識では、正確には予測不可能です」リアム博士が、苦渋の表情で答えた。「突入時のワープフィールドの位相、Xオブジェクトの開口部の微細な形状、そして、我々にはまだ理解できていない未知の物理パラメータ…それらが、まるで複雑なパズルのピースのように、完璧に噛み合った時にのみ、道は開かれるのかもしれません」
絶望的な状況だった。しかし、クルーたちは諦めなかった。彼らは、わずかな成功の可能性を信じ、何度も何度もシミュレーションに挑んだ。失敗の度にデータを分析し、改善点を見つけ出し、そして再びシミュレーターのシートに座る。その繰り返しの中で、彼らの技術は磨かれ、精神は鍛え上げられ、そして何よりも、互いの絆が深まっていった。アリアは、サムの不屈の精神に勇気づけられ、ハナの冷静な分析力に助けられ、リアムの揺るぎない探求心に触発され、そしてエヴァの献身的なケアに支えられた。
イリスもまた、この地獄のような訓練を通じて進化していた。彼女は、人間のクルーたちが示す恐怖、絶望、そしてそれでもなお立ち向かおうとする勇気といった複雑な感情を学習し、そのデータを自身のアルゴリズムにフィードバックさせていた。彼女の応答は、より人間的で、共感的なものへと変化しつつあった。
ある夜、アリアは一人、シミュレーターでXオブジェクトへの単独突入を試みていた。何度も失敗し、疲労困憊していた彼女に、イリスが語りかけた。
「アリア、あなたのバイタルサインが限界に近い。休憩が必要です」
「もう少しだけ…何か掴めそうな気がするのよ」
「あなたは、なぜそこまでするのですか? 生還の可能性がこれほど低いと分かっていながら」
アリアは、操縦桿を握りしめたまま、しばらく黙り込んでいた。そして、静かに答えた。「分からないわ…でも、行かなければならない気がするの。あの深淵の向こうに、何か大切なものが待っているような…そんな気がするのよ。たとえそれが、私の墓標だとしても」
イリスは、アリアの言葉をただ静かに受け止めていた。AIには理解できないかもしれない、人間の心の奥底から湧き上がる、抗いがたい衝動。それこそが、プロジェクト・オデッセウスを突き動かす、真の原動力なのかもしれないと、イリスは初めて感じた。
地獄の訓練は、アルゴスが月面のヘファイストス・ステーションで最終調整を終え、出発の日が間近に迫るまで続いた。クルーたちは、心身ともに極限まで追い詰められていたが、その目には、かつてないほど強く、そして澄んだ光が宿っていた。彼らは、未知なるエウリディケの門へ挑むための、最後の準備を終えようとしていた。
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