第1部:プロジェクト・オデッセウス 第1章:召集

アリアを乗せた重力装甲車は、東京メガフロートの喧騒を抜け、地下深くに広がる統合宇宙軍総司令部へと滑るように吸い込まれていった。車窓から見えるのは、機能美と威圧感を兼ね備えた軍事施設の無機質な風景ばかりだ。アリアはシートに深く身を沈め、これから待ち受けるであろう事態に思考を巡らせていた。カーライル提督が、一介の退役軍人に過ぎない自分に何の用があるというのか。レッドリーフ作戦の失敗に関する再調査か、それとも、何か別の、彼女の想像もつかないような任務への勧誘か。

司令部の最深部、カーライル提督の執務室は、広大でありながら華美な装飾は一切なく、彼の厳格な人柄をそのまま映し出しているかのようだった。壁一面を覆う巨大なホログラフィック・ディスプレイには、セクター・ノクターンの星図と、その中央に不気味な存在感を放つXオブジェクトのCGが立体的に映し出されていた。

ヴィンセント・カーライル提督は、年の頃五十代半ば、鍛え上げられた体躯に寸分の隙もなく軍服を着こなし、鋭い鷲のような眼光でアリアを見据えた。その佇まいは、長年、人類の宇宙における安全保障をその双肩に担ってきた者の重みを感じさせた。

「アリアドネ・コヴァルスキー元大尉だな。よく来てくれた」提督の声は低く、部屋の空気を震わせた。「座りたまえ」

アリアは促されるままに来客用の硬い椅子に腰を下ろした。イリスは小型の随行ユニットとして彼女の傍らに控え、その単眼レンズで室内の状況を記録・分析している。

「本日はお忙しい中、恐縮です、提督。ですが、このような場に私が呼ばれた理由が皆目見当もつきません」アリアは率直に切り出した。

「君の経歴は全て目を通させてもらった。レッドリーフ作戦のことは…残念だった。だが、あの状況下で君が示した冷静さと操船技術は、報告書を読む限り、賞賛に値する」

アリアは提督の言葉に表情を変えなかった。「結果として、多くの部下を死なせました。賞賛など受けられるものではありません」

「結果が全てではないこともある、元大尉。特に、我々がこれから挑もうとしている領域においてはな」提督はそう言うと、手元のコンソールを操作し、XオブジェクトのCGをさらに拡大させた。「これについて、何か聞いているかね?」

「Xオブジェクト…メディアではワームホールの可能性が囁かれている、例の天体ですね」

「その通り。そして、我々統合宇宙軍は、その可能性が単なる憶測ではないと判断するに至った。専門家チームによる数ヶ月にわたる極秘調査の結果、Xオブジェクトは、既知のいかなる自然現象とも異なる、極めて特異な時空構造体であることがほぼ確実となった。平たく言えば、ワームホール、あるいはそれに類する『何か』である可能性が、極めて高い」

アリアは息を飲んだ。軍の最高機密に属する情報を、なぜ自分のような外部の人間に?

「驚くのも無理はない。だが、話はこれからだ」提督は続けた。「我々は、このXオブジェクトに対し、有人探査船を派遣することを決定した。目的は、その正体の完全な解明、そして、もしそれが安全に通過可能なワームホールであるならば…その先にある未知の宇宙空間への到達だ。この計画のコードネームは『プロジェクト・オデッセウス』」

アリアの心臓が大きく脈打った。有人探査、ワームホール通過。それは、子供の頃に夢見たSFの世界そのものであり、同時に、想像を絶する危険を伴う自殺行為にも等しい。

「なぜ…私なのですか?」

「プロジェクト・オデッセウスには、最高の技術と、最悪の事態にも対応できる強靭な精神力、そして何よりも、未知への恐怖を乗り越える勇気を持った人材が必要だ。君は、その全てを兼ね備えていると私は判断した。レッドリーフ作戦での経験は、君に深い傷を残したかもしれん。だが、それは同時に、極限状態での生存能力と、仲間を失う痛みを知る者だけが持つことのできる、他者への共感力を君に与えたはずだ」

提督の言葉は、アリアの心の奥底に眠っていた何かを揺さぶった。宇宙への憧れ、未知への探求心、そして、仲間たちのために何かを成し遂げたいという、かつて抱いていた熱い想い。それらが、トラウマという厚い氷の下で、微かに脈動を始めた。

「イリス、この計画の概要を聞いて、あなたの初期分析は?」アリアは、冷静さを保つために、あえてイリスに問いかけた。

「提督、許可をいただけますか?」イリスが、アリアの傍らで発言許可を求めた。

「構わん。君の意見も聞こう、AI」

「ありがとうございます。プロジェクト・オデッセウスの概要、特にXオブジェクトの現時点での観測データとワープ航法による接近・突入という計画内容に基づけば、成功確率は…算出不可能です。より正確に言えば、成功を定義するためのパラメータが不足しており、失敗の要因となる未知数が多すぎます。ワープフィールドとXオブジェクトの時空界面における相互作用、ワームホール(仮)内部の物理環境、その安定性、通過にかかる時間、出口の有無と場所、全てが憶測の域を出ません。現時点では、極めて投機的かつ高リスクな試みであると結論付けざるを得ません」イリスの分析は、いつものように冷徹かつ客観的だった。

「AIの言う通りだ」提督は頷いた。「これは、計算ずくの作戦ではない。人類の未来を賭けた、壮大な跳躍だ。失敗すれば、参加者は確実に命を落とすだろう。そして、その跳躍の先頭に立つ艦長として、私は君を指名したい、アリアドネ・コヴァルスキー元大尉」

提督の目が、真っ直ぐにアリアを射抜いた。その瞳の奥には、冷徹な軍人としての顔だけでなく、人類の未来を憂い、そこに一縷の望みを託そうとする、指導者の苦悩と決意が滲んでいた。

アリアは、しばらくの間、沈黙していた。窓の外には、地球の青い光が大理石の床に反射している。彼女は目を閉じ、深呼吸をした。レッドリーフの炎と煙、仲間たちの最後の叫び、そして、自分だけが生き残ったという罪悪感。それらが脳裏をよぎる。しかし、同時に、幼い頃、父親に肩車されて見上げた満天の星空、宇宙飛行士になることを夢見た純粋な憧れも蘇ってきた。

「提督」アリアはゆっくりと目を開けた。「もし私がこの任務を引き受けたとして、どのような権限と資源が与えられるのですか? そして、クルーの選定は?」

その言葉は、事実上の受諾を意味していた。提督の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

「君には、プロジェクト・オデッセウスの探査船『アルゴス』の艦長として、作戦遂行に関する全権限を与える。クルーの選定についても、君の意見を最大限尊重しよう。必要なものは全て用意する。最高の船、最高の頭脳、最高の技術。そして…」提督は一度言葉を切り、アリアの目を見据えた。「最高の覚悟もだ」

アリアは、静かに頷いた。「覚悟は…できています」

その瞬間、彼女の中で何かが変わった。過去の亡霊は消え去りはしないだろう。だが、未来へと踏み出すための、新たな一歩が確かに刻まれたのだ。深淵がどれほど暗く、危険に満ちていようとも、そこに一筋の光があると信じて。

イリスの単眼レンズが、アリアと提督を交互に見つめていた。AIの論理では理解しきれない人間の「跳躍」が、今まさに始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る