アルゴスの航跡:エウリディケの門

めろいす(Meroisu)

プロローグ:星海の呼び声

西暦2371年。人類の文明は、その揺籃の地である太陽系を半ば踏み出し、力強い幼年期を迎えていた。近隣の恒星系には小規模ながらも恒久的なコロニーが築かれ、星々の間を繋ぐ定期航路も開設されていた。アルクビエール型ワープ航法の発展が、かつては夢物語であった恒星間旅行を現実のものとしたのだ。しかし、宇宙はあまりにも広大だった。人類がその手中に収めた空間は、銀河系という巨大な円盤に描かれた、ごく小さな点と線に過ぎない。ワープ航法をもってしても、銀河系の中心部や、ましてや隣のアンドロメダ銀河への到達は、数世代を要する途方もない旅路であり、事実上不可能とされていた。人類の知識は指数関数的に増大し、技術は日進月歩で進化を続けていたが、宇宙のスケールという絶対的な壁は、依然として挑戦者たちの前に高くそびえ立っていた。

そんな時代、オリオン腕の外縁部、既知の星図にもほとんど記載のない未踏宙域「セクター・ノクターン」において、一つの異常が観測された。最初は、新型の深宇宙望遠鏡「クロノス・アイ」が捉えた微弱な重力レンズ効果の揺らぎに過ぎなかった。だが、AIによるデータ解析が進むにつれ、それが既知のいかなる天体現象とも合致しない、特異なパターンを示していることが明らかになる。追加観測が命じられ、複数の天文台がセクター・ノクターンの一点にそのセンサーを向けた。

集積されたデータは、科学界に衝撃と困惑をもたらした。それは、空間そのものが極端に歪み、まるで宇宙の生地に開いた巨大な傷、あるいは渦のようだった。一部のメディアはセンセーショナルに「宇宙の幽霊」と報じ、オカルトめいた憶測すら飛び交った。しかし、宇宙物理学者たちは、より冷静に、そしてより深刻にその正体を探り始めた。後に「Xオブジェクト」と仮称されることになるその現象は、一部の急進的な理論家たちが囁く、あるSF的な概念を想起させた――ワームホール。時空の異なる二点を結ぶ、禁断の近道。

アリアドネ・“アリア”・コヴァルスキーは、その日も薄暗い退役軍人支援センターの一室で、過去の戦闘シミュレーションのログを無感動に眺めていた。肩にかかる黒髪は無造作に束ねられ、深い藍色の瞳には、かつての輝きとは異なる、諦観にも似た静けさが宿っていた。七年前、木星軌道上での貨物船拿捕作戦「レッドリーフ」の失敗。海賊の奇襲を受け、彼女の率いた強襲艇は被弾、多くの仲間が宇宙の藻屑と消え、アリア自身も右脚に生涯癒えぬ傷と、心に深いトラウマを負った。軍を除隊後、彼女は英雄として、そして悲劇の生存者として世間の注目を浴びたが、それも時間と共に風化し、今では過去の亡霊のように静かに暮らしていた。

「またそのログですか、アリア。七年前の悪夢を反芻して、何か新しい発見でも?」

部屋の隅に置かれた自律型サポートAIユニットから、合成音声が響いた。アリアが「イリス」と名付けたこのAIは、軍から支給された旧型ではあったが、彼女の数少ない話し相手であり、生活の雑事をこなし、そして時折、辛辣なジョークで彼女の心を軽くする存在だった。その円筒形のボディの上部にある単眼レンズが、心配そうにアリアを捉えている。

「ただの習慣よ、イリス。それに、あの日の自分の判断が正しかったのか、今でも考える」アリアはため息をつき、コンソールを閉じた。「今日は調子がいい。少し外の空気を吸ってくる」

「推奨しません。大気汚染レベルは依然として高く、あなたの肺には良くありません。それよりも、最新の宇宙物理学の論文でも読みますか? Xオブジェクトに関する興味深い考察が発表されましたよ」

「Xオブジェクト…またそれ? どうせ、ありもしないワームホールの話でしょう」アリアは興味なさそうに言った。メディアが面白おかしく書き立てるその話題は、彼女にとって現実逃避の産物にしか思えなかった。

「可能性は否定できません。既知の物理法則では説明できない現象が観測されているのは事実です。もしそれが本当に…」

イリスの言葉を遮るように、部屋のドアが静かにノックされた。アリアが訝しげにドアを開けると、そこには宇宙軍の制服に身を包んだ二人の将校が、硬い表情で立っていた。その胸には、統合宇宙軍最高司令部の徽章が輝いていた。

「アリアドネ・コヴァルスキー元大尉ですね?」年長の将校が、抑揚のない声で言った。「ヴィンセント・カーライル提督が、至急お会いしたいと。ご同行願います」

アリアの背筋に、久しく感じたことのない緊張が走った。カーライル提督。宇宙軍の最高指揮官であり、彼女が現役だった頃には雲の上の存在だった人物。なぜ、今になって自分に? イリスの単眼レンズが、不安げに明滅するのを感じながら、アリアは無言で頷いた。

彼女の静かで平凡な日常は、この瞬間、終わりを告げようとしていた。宇宙の深淵が、再び彼女を呼んでいた。その呼び声は、破滅への誘いか、それとも、彼女自身もまだ気づいていない、魂の再生への微かな希望の旋律なのか。答えは、星々の彼方にしか存在しなかった。

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