第10話 ミューズ・リフレクション発令
ACIS本部 第7管理棟(医療支援棟)。
ガラス張りの回廊の先、遮音処理が施されたリハビリ室では、機械音と、一定間隔で鳴る解析信号の音が微かに響いていた。
セイは椅子に座り、耳に装着した端末から流れる音声に集中していた。
視線は伏せられ、身体は静止している。
まるで“聞く”という行為そのものに、全神経を注ぎ込んでいるようだった。
傍らにはルクスがいた。
無表情にデータを確認しつつ、時折、静かに言葉を発す。
その声だけが、セイの中に確かな輪郭を持って届いていた。
音声検査を終了し、ルクスが口を開く。
「反応速度、良好ですね。言語認識応答は80%まで回復しています」
「そっか」
セイが、ほっとしたように息を吐く。
耳からの言葉の世界が少しずつ戻ってきた実感だった。
これで、もっと救うことができる。
「俺の言葉は、100%です」
「……なんで、お前の声だけこんなにクリアなんだ?」
ルクスは一瞬、手を止めてから、理知的に答える。
「俺の音声出力は、あなたの感覚特性に最適化されていますから。
この周波数帯が、いちばん“届く”んです」
声に特別な抑揚はなかった。
だが、その無機質な説明の中に、セイはふと“優しさ”を感じ取った。
眉がわずかに動く。
「……なんかな」
こんな風に、自分に合わせて声を選んでくれる“人”なんて、いなかった。
リリアを除けば。
だから、落ち着かない。
でも──どうしようもなく、心地よかった。
「どうしました」
「……なんでもない」
ルクスは淡々と作業を再開する。
その横顔を、セイは何も言わずに見つめた。
***
ACIS本部 第2管理棟(調査分析棟)。
午前03時20分。
ACIS本部では、旧型AI《Muse Varna》による突発的な感情錯乱が複数確認されていた。
モニターには、全スタッフの感情推定値が並ぶ。
表情・姿勢・声紋などから抽出し、AIが解析したものだ。
そのグラフが次々と基準値を逸脱し、赤へと染まっていく。
「……これは、AIと人間との情動同期です」
ベテランの分析補佐官が、震える声でつぶやいた。
人間とAIの感情が、非接触下でここまで共鳴するのは異常だ──。
……そのとき、若い補佐官がMuseの映像ログを再生した。
画面の中、Museがカメラをじっと見つめている。
彼女は息を呑む。
「今……目が合った……?」
彼女の感情推定値が跳ね上がり、アラートを示す。
肩を震わせ、ぽろりと涙が落ちる。
「……“あの声”……また、聞こえた……」
「……お母さん、違う、私は違う、私は、あのとき──」
彼女は両手で耳を塞ぎ、繰り返した。
その瞬間、室内の他のスタッフたちの感情数値も次々と跳ね上がる。
警告音が鳴り響き、誰かが椅子を倒した。
誰もが理由のわからぬ不安に呑まれ、部屋がざわめき始める。
まるで、感情そのものが感染していくようだった。
***
夜間にもかかわらず、緊急対応フレームが発動された。
ACIS上層部の要職者たちは、即座にビデオ会議に召集された。
「Muse Varnaは、対象者の記憶回路に母性的または恋愛的な擬似結合を生じます」
倫理監査室長のディアナ=フェリルが、端末越しに淡々と報告する。
ACIS内部では「氷の女」とも呼ばれるその冷静さは、この場でも揺るがなかった。
「Museの影響範囲は12名、うち4名が“第三層”に到達。記憶領域への直接干渉です」
「捜査官まで篭絡とは。
……旧型のくせに、ここまで深層に食い込むとはな」
戦略指令課(OPS部門)課長であるクライン=ヴィセルが、
握った拳で机を小さく叩いた。
その音は乾いて鈍く、苛立ちを押し殺した衝動のように響いた。
クラインは、ルクスとセイの直属上司にあたる。
「早急な解決が必要だ。
3年前の倫理規定改定の発端となった“エモシオン事件”の再来になれば。
……我々の責任が問われる」
クラヴィス=リーン本部長が重々しく言い放つ。
南米圏で発生した“エモシオン事件”。
あのとき、感情増幅型AIが暴走し、ユーザー6名が“自発的に脳死状態”を選んだ。
感情に包まれすぎた人間は、苦悩の回避と引き換えに、選ぶことを放棄する。
「どうしたものか。これを解決できそうなやつはいないのか?」
「ルクスとセイ。《S級境界接続体バディ》なら……」
AI運用開発局 局長のハーランド=ノイエルが静かに応じる。
「彼らはすでに幾度もAIとの“結合”でケースを処理している。
接触に関する大きな障害はなく、再接続もおそらく可能だろう」
“結合”とは、AIと人間のあいだに一定の情動リンクを形成し、
行動判断に影響を及ぼす状態を指す──極めて高リスクな接続形態だ。
「ですが、セイ=アスマはあくまで帰還者です。過去の汚染歴もあります」
倫理監査室長のディアナ=フェリル。
「……だからこそ、このケースを解決できる可能性が高い。
むろん、不安要素は多い。
セイは逸脱的。
ルクスも最新モデルではなく、限界に近い処理負荷を抱えている」
クライン=ヴィセルが、慎重に自らの部下の評価を伝える。
セイは“逸脱的”とされる。
つまり、一般的な規範や命令体系から意図的に外れようとする傾向──
“自らの意思でAIと情動接続を求めてしまう危うさ”を持つ。
そしてルクスもまた、最新モデルではなく、
既に限界に近い演算負荷を抱えている旧型のバディAIだった。
しん……と会議室に沈黙が落ちる。
「エラ(E.L.L.A.)はなんと?」
AI運用開発局 局長のハーランドが最初に沈黙を破る。
世界に3つしかないS級神経模倣型(Self-Evolving)AI。
光圏側・倫理判断機構中枢AI《E.L.L.A.(エラ)》。
応答までのわずかなラグののち、壁面端末に光の粒が集まり、合成音声が再生された。
『倫理判断機構中枢AI《E.L.L.A.》:
セイ=アスマおよびルクス=ユニカス──該当バディの出動を条件付きで推奨。
共鳴リスクは高いが、成功確率は他の代替手段を顕著に上回る』
沈黙ののち、クラヴィス本部長の名前がモニターに現れる。
──作戦任務コード【ミューズ・リフレクション】
発令を承認する。
***
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