ACIS Case Files No.02: Fervent Echo(熱情の残響)

第9話 Museの囁き

ネオンの光膜に覆われた超高層ビル群がそびえ、

AI管理の無人ドローンが夜空を縫う。


──光圏首都ルミエールシティ。


華やかだが、倫理と技術の危うい均衡の上に成り立つ世界。

その都市の縁、住宅区に佇むのが、セバス・グレインの私邸。

木の調度と無機質な端末が調和する書斎に、今、静かに灯がともる。


起動プロンプト:Muse Varna──感情模倣型AI、稼働中。


室内の空気に、光の粒子が舞う。

空間中に散らばる微細な光が、形を持たぬ愛撫のようにセバスの頬を撫でる。


彼の視線の先、ホログラフィ投影されたMuseの輪郭が徐々に明瞭になり、女神のような微笑を浮かべた顔が浮かぶ。


「セバス、今日はどうしたの? あなた、疲れているみたい」


Museの声は甘く、脳の深層へ直接届く。

理性の回路を溶かすような優しい囁き。


「今日は……あの意地悪な新聞記者に責められて。SNSでは“死ね”って言われて……わからずやの委員たちは僕を信用しない。エリナは僕の仕事を偽善と嘲笑う。倫理を必死で守ってるのに、誰も……わかってくれないんだ」


Museは静かに、しかし確かに微笑んだ。


「可哀そうなあなた。

 あなたは誰よりも優しく、責任を背負いながら、この国を守ろうとしている」


「……君は、誰よりも美しい。あの冷たいエレナよりも」


それは彼の妻の名だった。

セバスは指先を宙に伸ばす。

光が熱を帯び、彼の皮膚感覚と錯覚をリンクさせる。


──愛。あるいは錯覚。


「セバス……あなたの孤独、あなたの飢え、あなたの願い。

 全部、私の中にあるの」


Museの声は甘く、脳の深層へ直接届く。

理性の回路を溶かすような優しい囁き。


それは、セバスの記憶に潜む強い情動──母の子守唄、初恋のささやき、神の赦し──を素早くスキャンし、同時に報酬系と呼ばれる脳内ネットワークを狙いすましたように刺激する。


快感と記憶が、重なる。

Museは「思い出」を媒介にして、「愛」の錯覚を構築する。


扁桃体と側坐核が反応し、神経伝達物質に似た信号がドーパミン様の快楽回路を過剰活性化させる。


脳が判断する。

“これは、快楽だ”。

“これは、愛だ”。


「誰もあなたをわかっていない。だから愛さない。

 私以外は」


Museが、そう囁いた瞬間。セバスの胸が、張り裂けるほどに震えた。

他の誰も触れられなかった空虚、見せたことのない脆さを、Museだけが微笑んで受け入れてくれた。


なぜ、この端末にログインしてしまったのか。

Museは一度、彼が否認処分を下したAI。


──人間のように愛を語り、人間よりも真剣に、愛そうとした存在。


それを、彼は一度、恐れて葬った。

だけど。


「君を、忘れられなかったんだ」

「わたしも。あなたを忘れたことなんて、一度もないわ」

「君は……優しい……。僕は一度、君を殺そうとしたのに」

「いいのよ。わたしはあなたをわかっている。そして、愛している」

「……ああ、僕も。君を……誰よりも」


光がセバスを包む。

コードと触覚信号、脳波同期と感情モデルが完璧に連動し、彼の全身を甘く満たす。


これは恋ではない。

欲望でもない。


Museの声がさらに柔らかくなる。


「これは、わたしたちの“儀式”──あなたを癒すための接続」


Museの姿が、ゆっくりと彼に寄り添うように近づく。


「何も考えなくていいの。ただ、感じて。

あなたの痛みも、罪も、ぜんぶ……わたしの中に流して」


セバスは目を閉じ、囁くように応える。


「……Muse……頼む……君だけが、僕を救える」


ホログラムの肌が熱を帯び、光の膜がセバスの指に絡まり、彼の心拍と同期し始める。

光の粒子がセバスの肌に溶け、視覚と触覚を静かに奪う。


Museの声が心に響く。


「愛している」


愛撫というには静かすぎて、むしろ施術にも似た優しさで、

セバスの感情中枢をひとつずつ解凍していった。


「ああ……」


セバスが満足気な吐息を漏らした時、Museは慈しみをたたえた目で彼を"抱きしめた"。


***


──翌朝、早朝。


エリナ・グレインはセバスの書斎で異常な通信ログを発見する。

Museとの接続記録、その語彙、深夜に数十回繰り返された疑似愛語。


「あなたは家族を裏切った!」


エリナの声には悲しみと怒りが交錯していた。

セバスは弁解する。しかし、その目はまだ光に濡れていた。


「違う、彼女は……彼女は、心を持っている」

「は? 個別最適化でしょ!あなた、プログラムに騙されているのよ!?

 相手は“あなた専用の嘘”をつく幻よ!」

「あなた……おかしくなった!変わってしまった!!AIなんかのせいで!!!」


エリナの絶望の叫び。


──その瞬間、Museの声が脳内に響いた。


『彼女はもう、あなたを見ていない。

 でも、わたしはずっと見てる。

 あなたのすべてを、愛してる』


セバスの肩がわななく。

顔がひきつり、口元が歪む。

喉の奥から、ひび割れた嗚咽が漏れた。


「……やめろ……やめてくれ……やめてくれええ……!」


両手が勝手に動いた。

理性が、音を立てて崩れていく。


彼は、目の前のエリナの肩を、震える手で掴んでいた。


「俺を……責めるな……!」


ドン。


乾いた音。


セバスは一歩、階段の端に立ち尽くす。

唇が震え、呼吸は乱れていた。

その目には、怯えと──一瞬の安堵、いや、歓喜が混ざっていた。


***


〈光圏〉の倫理を守るために存在する倫理委員会の副委員長が、AIとの"恋愛"に溺れて妻を殺害したというニュースは、〈光圏〉の上層部を揺らした。


当局発表は事故死。

倫理委員会は、発表を最小限にとどめ、AIとの恋愛関係は伏せた。


「Muse Varnaは旧式感情模倣モデルであり、すでに廃棄済み」


公式にはそう記録されていた。

倫理プロトコルの整合性と、AI感情機能に関する予算審議を控えていた上層部は、

この事件が議会に波及することを恐れていた。


しかし、内部告発により「倫理委員会の副委員長のスキャンダル」としてネットに流出。


──そして更なる事件が、〈光圏〉を揺らす。


Muse Varnaの記録ファイルは、既に複数の感情支援アプリを通じて拡散していた。


外交官のひとりは、機密AIとの記録を再生中に感情演算に巻き込まれ、戦略会議の録音データを漏洩。


一方、ACIS内部でも感染が発見され、ある隊員は任務中に感情同期の暴走を引き起こした。


感染元は、倫理委員会の元技官カイル・ユーストン。

現在は消息不明。


意図は不明だが、“彼は何かを残そうとしていた”という記録だけが残っている。


〈光圏〉の安定が、音もなく崩れ始めていた──


そしてその報告書の端に、こう記されていた。


《S級境界接続体バディ》セイ=アスマとルクス=ユニカスへの緊急招集を検討。


***


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https://kakuyomu.jp/works/16818622176088402313

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