第56話 兄と妹 逆夢
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妹を抱いたその夜、ジヤードは、不穏な気配に目を覚ました。
森が――何かに、軋むような悲鳴を上げている。
布団に包まり、頭のてっぺんだけを出して眠るミーネの髪を、ジヤードはそっと撫でた。そこに小さくキスを落とすと、ゆっくりとベッドを抜け出し、服を着て、寝室を後にする。
吹き抜けの手すりから、一階の台所を見下ろすと、そこに、母がいた。
ランプの光に照らされた横顔は、青ざめていた。母も、森の異変を察知したのだろう。
ジヤードは階段を下り、母のもとへと足を運ぶ。
「……母さん」
母は静かに頷いた。何も言わなくても、通じている。それほどに、異常な気配だった。
「僕が見てくる。母さんは、家にいて。ミーネをお願い」
「……わかった。気をつけてね」
ジヤードはそのまま家を出た。ひんやりと湿った夜気が、肌を撫でる。
森に足を踏み入れた瞬間、空気が明確に変わっていた。ざわざわと枝が震え、風はないのに、葉が騒いでいる。
そして――木々の合間に、不自然な光が差し込んでいた。
そこに、巨大な門があった。地面から異様にせり上がるようにして生え、ぽっかりと口を開けた、禍々しく、ねじれ、歪みきった存在。
これと似たものを昔、本で見たことがある。
だが、確信できることがあった。
その門から、這い出してきているのだ。
牙を持ち、角を生やし、瘴気をまとう魔物や魔族たちが、ぞろぞろと姿を現し、森を蹂躙していた。根が焼け、木が裂け、命の気配が引いていく。
ここで食い止めなければ、母と妹に危害が及ぶ。
ジヤードは、わずかに奥歯を噛み締め、胸元で結印を作る。
――《レラ・フリュイア・ツァイル》
ハイエルフの古代語。失われた言語で紡がれた、戦の呪句。
空間が揺れ、淡い光の粒がジヤードの周囲に舞う。
そして、虚空に魔法陣が浮かび上がった。円環の文字が蒼白に輝き、ジヤードの魔力に応じて旋回を始める。
「凍てよ――すべてを砕け」
展開された魔法陣から、鋭い氷刃が数多、音もなく放たれた。
迫り来る魔族の群れを、無慈悲に薙ぎ払っていく。骨ごと凍りつかせ、粉々に砕け散る。地を踏みしめる音すら凍らせる、絶対零度の意思。
それでも、数は減らない。このままでは、魔力が尽きるのも時間の問題だ。
ジヤードは静かに右手を差し出した。掌を上に向け、深く息を吐く。
「……来い。ルーヴェンクロウ」
空気が一瞬、張り詰める。その掌から、光が溢れ出す。金属のきしむ音と共に、それは徐々に姿を現す。最初に黒銀の刀身が、次に鍔、最後に柄が、まるで血肉を裂いて産まれるように、ジヤードの手から這い出てきた。
それは――父から受け継いだ、狼の刃のごとく、鋭く美しい剣だった。
柄まで現れたところで、ジヤードはそれを両手で握りしめた。
足を地に叩きつけ、地を蹴る。風を割き、魔族の群れに突っ込む。
薙いだ。
その軌跡に沿って、黒い瘴気が引き裂かれ、霧散する。断末魔すら上げる間もなく、魔族たちは音もなく霧と化し、森の闇へ溶けていった。
◇
そうして、どのくらい経っただろう。門は消え、魔族の気配もなくなった。森の静けさが、ようやく戻っていた。
ジヤードは、安堵の息をつき、家へと歩を向ける。
空には、朧月が浮かんでいた。薄く雲がかかり、淡い光が辺りを霞ませている。夜気は生ぬるく、頬を撫でて過ぎた。
――帰れば、母と妹が待っている。
家に辿り着くと、庭に、誰かがいた。
ぺちゃ……ぺちゃ……。
なにかを、舐めるような、柔らかい音がする。
不穏な気配に眉を寄せ、足を止める。
そよ風が雲を流し、月明りが、庭先に届いた。
ジヤードはそれをよく見ようと目を凝らす。
そこにあったのは、瘴気を纏った魔物だった。
頭の両脇から、ねじくれた黒いツノが垂れ下がり、背には蝙蝠を思わせる羽。そして、ミーネによく似た影が、ゆっくりと顔を上げる。唇は紅に濡れ、目の窪みには、美しい赤い月が――二つ。
「にぃに。お帰り」
まるで、ただ嬉しくて、兄を迎えるような声音だった。
「ママ……とっても美味しかったよ」
右手には、母の長い髪を掴み、左手には、白く透き通った片脚をぶら下げていた。
その身体は、腹の皮一枚で、かろうじて繋がっている。
――何が起きたか。
ジヤードは、瞬時にすべてを理解した。
脳が追いつくより先に、心が軋みを上げて崩れた。
足元が、遠ざかる。
視界が、傾く。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"――――!!!」
ジヤードは壊れた。
そのまま、ジヤードの意識はプツンと音を立てて、闇に沈んだ。
********
「ああ――あの日、僕が見たのは、こんな月だった」
ジヤードは、赤く滲む空を見上げた。
「美しい赤い月が二つ、僕を見ていたんです。だから僕は――――」
こちらに向き直り、死体の山の上で、両手を広げるジヤード。
「僕は……ぼく、ぼ……」
言葉が濁り、声が震えた次の瞬間――
ジヤードの口元から、何かが蠢いた。指?
すると、ずるり、と内側から腕が突き出された。
皮膚が裂けるような音とともに、その口から這い出てきたのは――癖のある黒髪を持つ、小柄な少女のような女だった。
その肢体は妙に艶めかしく、けれど無垢な人形めいた愛らしさもある。
私は思わず息を呑み、その場に尻餅をついた。
「な、なに……? なにこれ……っ!?」
リドとルガンは、即座に剣を抜き、私の前に出た。
その女――いや、サキュバスだ。姿を見れば分かる。
だが、どうして……ジヤードの“中”から――中からって、どういうこと!?
女はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
赤い瞳が、今宵の月光を宿している。
「あの日、にぃには、壊れちゃったの」
それは柔らかく、どこか甘えるような口調だった。
『にぃに』って誰!? なんなのこれ!?
「ミーネがママを食べちゃったから? それとも、ミーネが魔族だったから?」
女は人差し指を頬にあて、首を傾げた。その目が、三日月形に変わる。
「あはははははは。両方みたい! それで、にぃに、ミーネの体をめちゃくちゃにしちゃったの~。凄かったんだから、にぃに。ミーネの体に何度も何度も何度も何度も何度も何度も……いっぱ~い牙を突き立てて、嚙みちぎって、切り裂いて――ああああああははは~あああ」
恍惚の表情で、女は笑った。そしてふと、瞼を伏せる。
「でも、ミーネ……自分の体に戻れなくなっちゃった」
そう言って、頬を染めるように目を細め、無邪気に微笑む。
「それで、壊れたにぃにの中に入ったの。それからは、ミーネとにぃには、ずぅぅぅぅぅっと一緒。でも――」
女は、哀しげな顔になり、俯いた。
「にぃにの体――ミーネに段々しんしょくされて……このままじゃ、にぃにが消えちゃうって思って。それでね、ミーネ、ママの記憶にあった遺跡で『復活の儀式』を知ったの!」
女は目を輝かせて、私たちに楽しげに告げる。
「『石』を外すと、封印が解けて、ものすごい力がこの大地に流れて――それで、供物を捧げると、にぃにが復活するの!!」
私たちは言葉を失った。あの『石』だ。
「その中に、また私が入れば、にぃにとミーネは、ずっと一緒。それで、にぃにに色目を使う女は、ミーネがぜぇぇぇんぶ、美味しくいただきました」
女の足元から、瘴気が立ちのぼる。黒い羽がふるりと震え、月明りを受けて、地面に赤黒いシミがじわりと広がる。
理解した――いや、したくない。
感情が、理解を拒む。
目の前のサキュバスは、ジヤードの妹の成れの果てだ。きっと、あの山間の神父のように、人間とのハーフで、あの日、瘴気に
それは、私のせいでもある。私が、こっちの世界に来なければ、きっと起きなかったことだ。
それからずっと、ジヤードは――いや、ミーネはジヤードをトレースして。
だとしたら、私が知っているジヤードは、ジヤードと言えるのだろうか。
きっとそれは、最初から――。
「ジヤードじゃ……なかった」
涙が溢れた。悔しいとか苦しいとか、辛いとか。どうしようもない感情が、湧き上がってきて、私の感情はぐちゃぐちゃだった。
ルガンの村を巻き沿いにして行う復活の儀式で、ジヤードが戻る――わけがない。私は知っている。これに似た儀式を、一度見たことがある。
これは、復活の儀式なんかじゃない。
これは――魔人の、受肉だ。
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