第56話 兄と妹 逆夢

 ********


 妹を抱いたその夜、ジヤードは、不穏な気配に目を覚ました。

 森が――何かに、軋むような悲鳴を上げている。


 布団に包まり、頭のてっぺんだけを出して眠るミーネの髪を、ジヤードはそっと撫でた。そこに小さくキスを落とすと、ゆっくりとベッドを抜け出し、服を着て、寝室を後にする。


 吹き抜けの手すりから、一階の台所を見下ろすと、そこに、母がいた。

 ランプの光に照らされた横顔は、青ざめていた。母も、森の異変を察知したのだろう。


 ジヤードは階段を下り、母のもとへと足を運ぶ。


「……母さん」


 母は静かに頷いた。何も言わなくても、通じている。それほどに、異常な気配だった。


「僕が見てくる。母さんは、家にいて。ミーネをお願い」


「……わかった。気をつけてね」


 ジヤードはそのまま家を出た。ひんやりと湿った夜気が、肌を撫でる。

 

 森に足を踏み入れた瞬間、空気が明確に変わっていた。ざわざわと枝が震え、風はないのに、葉が騒いでいる。


 そして――木々の合間に、不自然な光が差し込んでいた。


 そこに、巨大な門があった。地面から異様にせり上がるようにして生え、ぽっかりと口を開けた、禍々しく、ねじれ、歪みきった存在。


 これと似たものを昔、本で見たことがある。魔界へ繋がる門アビスゲートだ。けれど、実際に見たことはない。あれが本当に、なのか?

 だが、確信できることがあった。


 その門から、這い出してきているのだ。

 牙を持ち、角を生やし、瘴気をまとう魔物や魔族たちが、ぞろぞろと姿を現し、森を蹂躙していた。根が焼け、木が裂け、命の気配が引いていく。


 ここで食い止めなければ、母と妹に危害が及ぶ。


 ジヤードは、わずかに奥歯を噛み締め、胸元で


 ――《レラ・フリュイア・ツァイル》

 ハイエルフの古代語。失われた言語で紡がれた、


 空間が揺れ、淡い光の粒がジヤードの周囲に舞う。

 そして、虚空に。円環の文字が蒼白に輝き、ジヤードの魔力に応じて旋回を始める。


「凍てよ――すべてを砕け」


 展開された魔法陣から、鋭い氷刃が数多、音もなく放たれた。

 迫り来る魔族の群れを、無慈悲に薙ぎ払っていく。骨ごと凍りつかせ、粉々に砕け散る。地を踏みしめる音すら凍らせる、絶対零度の意思。


 それでも、数は減らない。このままでは、魔力が尽きるのも時間の問題だ。

 ジヤードは静かに右手を差し出した。掌を上に向け、深く息を吐く。


「……来い。ルーヴェンクロウ」


 空気が一瞬、張り詰める。その掌から、光が溢れ出す。金属のきしむ音と共に、それは徐々に姿を現す。最初に黒銀の刀身が、次に鍔、最後に柄が、まるで血肉を裂いて産まれるように、ジヤードの手から這い出てきた。


 それは――父から受け継いだ、狼の刃のごとく、鋭く美しい剣だった。


 柄まで現れたところで、ジヤードはそれを両手で握りしめた。

 足を地に叩きつけ、地を蹴る。風を割き、魔族の群れに突っ込む。


 薙いだ。

 その軌跡に沿って、黒い瘴気が引き裂かれ、霧散する。断末魔すら上げる間もなく、魔族たちは音もなく霧と化し、森の闇へ溶けていった。


 ◇


 そうして、どのくらい経っただろう。門は消え、魔族の気配もなくなった。森の静けさが、ようやく戻っていた。

 ジヤードは、安堵の息をつき、家へと歩を向ける。


 空には、朧月が浮かんでいた。薄く雲がかかり、淡い光が辺りを霞ませている。夜気は生ぬるく、頬を撫でて過ぎた。


 ――帰れば、母と妹が待っている。


 家に辿り着くと、庭に、誰かがいた。

 ぺちゃ……ぺちゃ……。

 なにかを、舐めるような、柔らかい音がする。


 不穏な気配に眉を寄せ、足を止める。

 そよ風が雲を流し、月明りが、庭先に届いた。


 ジヤードはをよく見ようと目を凝らす。


 そこにあったのは、瘴気を纏った魔物だった。

 頭の両脇から、ねじくれた黒いツノが垂れ下がり、背には蝙蝠を思わせる羽。そして、が、ゆっくりと顔を上げる。唇は紅に濡れ、目の窪みには、が――二つ。


 「にぃに。お帰り」


 まるで、ただ嬉しくて、兄を迎えるような声音だった。


 「ママ……とっても美味しかったよ」


 右手には、母の長い髪を掴み、左手には、白く透き通った片脚をぶら下げていた。

 その身体は、腹の皮一枚で、かろうじて繋がっている。


 ――何が起きたか。


 ジヤードは、瞬時にすべてを理解した。

 脳が追いつくより先に、心が軋みを上げて崩れた。


 足元が、遠ざかる。

 視界が、傾く。


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"――――!!!」


 ジヤードは壊れた。

 そのまま、ジヤードの意識はプツンと音を立てて、闇に沈んだ。


 ********


「ああ――あの日、僕が見たのは、こんな月だった」


 ジヤードは、赤く滲む空を見上げた。


「美しい赤い月が二つ、僕を見ていたんです。だから僕は――――」


 こちらに向き直り、死体の山の上で、両手を広げるジヤード。


「僕は……ぼく、ぼ……」


 言葉が濁り、声が震えた次の瞬間――


 ジヤードの口元から、何かが蠢いた。指?

 すると、ずるり、と内側から腕が突き出された。


 皮膚が裂けるような音とともに、その口から這い出てきたのは――癖のある黒髪を持つ、小柄な少女のような女だった。

 その肢体は妙に艶めかしく、けれど無垢な人形めいた愛らしさもある。


 私は思わず息を呑み、その場に尻餅をついた。


「な、なに……? なにこれ……っ!?」


 リドとルガンは、即座に剣を抜き、私の前に出た。


 その女――いや、サキュバスだ。姿を見れば分かる。

 だが、どうして……ジヤードの“中”から――中からって、どういうこと!?


 女はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。

 赤い瞳が、今宵の月光を宿している。


「あの日、にぃには、壊れちゃったの」


 それは柔らかく、どこか甘えるような口調だった。


『にぃに』って誰!? なんなのこれ!?


「ミーネがママを食べちゃったから? それとも、ミーネが魔族だったから?」


 女は人差し指を頬にあて、首を傾げた。その目が、三日月形に変わる。


「あはははははは。両方みたい! それで、にぃに、ミーネの体をめちゃくちゃにしちゃったの~。凄かったんだから、にぃに。ミーネの体に何度も何度も何度も何度も何度も何度も……いっぱ~い牙を突き立てて、嚙みちぎって、切り裂いて――ああああああははは~あああ」


 恍惚の表情で、女は笑った。そしてふと、瞼を伏せる。


「でも、ミーネ……自分の体に戻れなくなっちゃった」


 そう言って、頬を染めるように目を細め、無邪気に微笑む。


「それで、壊れたにぃにの中に入ったの。それからは、ミーネとにぃには、ずぅぅぅぅぅっと一緒。でも――」


 女は、哀しげな顔になり、俯いた。


「にぃにの体――ミーネに段々しんしょくされて……このままじゃ、にぃにが消えちゃうって思って。それでね、ミーネ、ママの記憶にあった遺跡で『復活の儀式』を知ったの!」


 女は目を輝かせて、私たちに楽しげに告げる。


「『石』を外すと、封印が解けて、ものすごい力がこの大地に流れて――それで、供物を捧げると、にぃにが復活するの!!」


 私たちは言葉を失った。あの『石』だ。


「その中に、また私が入れば、にぃにとミーネは、ずっと一緒。それで、にぃにに色目を使う女は、ミーネがぜぇぇぇんぶ、美味しくいただきました」


 女の足元から、瘴気が立ちのぼる。黒い羽がふるりと震え、月明りを受けて、地面に赤黒いシミがじわりと広がる。


 理解した――いや、したくない。

 感情が、理解を拒む。


 目の前のサキュバスは、ジヤードの妹の成れの果てだ。きっと、あの山間の神父のように、人間とのハーフで、あの日、瘴気にさらされ、正気を失い母親を食べ、狂ったジヤードが、彼女を――。


 それは、私のせいでもある。私が、こっちの世界に来なければ、きっと起きなかったことだ。


 それからずっと、ジヤードは――いや、ミーネはジヤードをトレースして。

 だとしたら、私が知っているジヤードは、ジヤードと言えるのだろうか。

 きっとそれは、最初から――。


「ジヤードじゃ……なかった」


 涙が溢れた。悔しいとか苦しいとか、辛いとか。どうしようもない感情が、湧き上がってきて、私の感情はぐちゃぐちゃだった。


 ルガンの村を巻き沿いにして行う復活の儀式で、ジヤードが戻る――わけがない。私は知っている。これに似た儀式を、一度見たことがある。


 これは、復活の儀式なんかじゃない。

 これは――だ。

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