第43話 旅の朝

 朝靄がまだ地面を淡く覆っている。昨夜の焚き火の残りから、かすかに白い煙が立ちのぼっていた。草葉に落ちた露が、わずかな朝の光を弾いている。鳥たちのさえずりが、どこか遠くから響いていた。


 私はそっと手をかざし、小さく呟く。


「――ファイア」


 焚き火に魔法で火を灯すと、ぱちりと乾いた音がして、橙色の炎が薪に宿った。


「うう~……寒い……」


 リドが鍋に水を汲んで来た。肩をすくめながら、それを焚き火の上に慎重に置く。寝癖のままの髪が、朝の湿気で少し跳ねていた。


「朝ご飯は目玉焼き? それとも――」


 その言葉に反応したのか、テントの入り口がもぞりと動き、中からジヤードがひょこっと顔を出した。まだ髪は乱れていて、眠たげな目をしている。


「……ポーチドエッグはどうですか?」


 思いがけない提案に、私とリドは顔を見合わせ頷いた。


「それ、いいかも」


 コト、と鍋の中で水が揺れる音がした。


「顔、洗ってきます」

 

 ジヤードは、眠そうに欠伸を噛み殺しながら立ち上がり、朝露を踏みながら河原の方へと歩いていく。私もまだ、顔を洗っていない。ひとつ息ついて、その後を追った。

 静かな朝だった。薄明の空に、雲の色がほんのりと変わっていく。


 河原に着くと、ジヤードはすでに岩のそばにしゃがみ、冷たい清流に手を差し入れていた。私もその隣に腰を下ろす。水は指先がびりりと痺れるほどに冷たい。けれど、その感触が、眠気をすっと連れていく。


 ぱしゃり、と顔を洗う音。ジヤードの方を見ると、彼の尻尾がぴんと張っていた。


「冷たい?」と訊くと、彼は少し苦笑して、なにか答える代わりに、小さく息を漏らした。


「昨日は、よく眠れた? ……最後まで起きてたけど。気、使ってない? 火の番とか」


 私が問いかけると、ジヤードは手を膝に置いて、しばらく水面を見つめてから答えた。


「いえ――気は使ってませんよ。むしろ、こういうの初めてなので。楽しいです」


 その言葉には、照れと、どこか新鮮な驚きが混じっていた。

 彼の尻尾が、ゆっくりと左右に揺れている。緩やかなその動きが、彼の心の弛緩を物語っているようだった。


「妹も、一緒だったらな、とは――思いますが……」


 ふいに、ジヤードの視線が空へと逸れる。目を細めて、どこか遠くを見つめるその横顔は、どこか寂しげだった。伏し目がちに垂れた睫毛が影を落とし、朝靄の中で、かすかに濡れた光を帯びている。


 私は、そっと口を開いた。


「妹さんって……いつ頃……」


 聞いていいことだっただろうか。昨日、彼は「思い出せるように、話している」と言っていたけれど、それでも、いま目の前で見ている表情が、心を迷わせる。


「ごめんなさい。答えなくても、大丈夫」


 私が言い添えると、ジヤードは小さく首を振った。


「――半年ほど前です」


 私は思わず目を見開いた。


 半年前――それは、魔界の門が開いた時期と、重なる。


 まさか、あの事件が原因なら、それは……私がこの世界に転移してこなければ、起こらなかったかもしれない出来事だ。

 もし、彼の妹さんの死が、その余波によるものだとしたら――それは、私のせいかもしれない。


「それって――」


 声が自然と震えた。けれど、言い終わる前に、ジヤードが自分の腕を抱きしめるようにして身を縮めた。

 ぶるっと、彼の肩が小さく震える。その震えは、尻尾にまで波及し、ふわりとした毛並みが逆立つ。


「失礼――冷えますね。早く戻りましょう」


 ジヤードは静かに立ち上がり、私を見ようとはせず、早足で河原を離れようとする。その背中に、私は声をかけることもできなかった。


 胸の奥に、小さな棘のような罪悪感が刺さったまま、私はその場に立ち尽くしていた。


 ◇


 野営地へ戻ると、ジヤードは腕まくりをして、鍋の前に座っていた。

 朝靄の残る空気の中で、焚き火の炎がぱちりと音を立てる。


 鍋に湯が沸くと、腕まくりをして、私がアイテムボックスから出しておいた調味料の中からお酢をとり、鍋にひとたらし。くるくると鍋の湯をかき混ぜて渦をつくり、その中心に、お玉に割り入れた卵をそっと滑り込ませる。ひとつ、またひとつ――丁寧に、四人分。


 真剣なまなざしと、静かな手つき。尻尾が湯気にくすぐられたのか、少しだけ揺れていた。卵をすくい上げると、今度はその鍋に、昨日の残りの野菜とソーセージを加え、トマトペーストとスパイスで味を調える。


 一方、リドは鉄のフライパンを火にかけ、ベーコンをじゅうっと焼き始めていた。脂のはねる音が、朝の静けさに心地よく響く。

 私はというと、焚き火の脇でパンを切り分けていた。


 美味しそうな匂いが、野営地に漂い始めた頃、ルガンが起きてきた。


「悪ぃ……。寝すぎた」


 寝ぼけた声とともに、ルガンがテントの奥からのそりと起きてきた。まだ夢の中にいるような顔をしている。


「いいよいいよ。今日くらい」


 私は笑ってそう言った。町での出来事――あの傷は、きっとまだ癒えていないのだろう。


「俺、いびきかいてなかったか? 眠れたかジヤード」


 寝起きの声でルガンが問うと、鍋のそばにいたジヤードがふわりと微笑んだ。


「ええ。いつになくぐっすり。安心して眠れました」


「それはよかった。たまにこいつらに怒られるんだ。隣の部屋まで歯ぎしりが聞こえるだの、寝返りで地震かと思っただの……」


「私は心配して言っているんだ。ルガン」


 リドがベーコンを焼く手を止めた。その声には、ほんの少しだけ苛立ちが混じっているようだ。


「お前――お袋みたいだな」


「おふ――!? 私はお前の母親ではない!」


 手にしていた木べらを握りしめるリド。ルガンはおどけたように肩をすくめた。


「そんなんわかってるよ。――みてぇだなって言ったんだろ」


 火の上でスープがことことと湯気を立てる中、二人のやり取りは、まるで痴話げんかにも見えた。


 私はふふ、と小さく笑って、炙っていたパンをひっくり返す。


「いつものことだから。二人はほっといて先に食べちゃおう」


 切り口にバターを塗ったパンは、じゅう、と小さく音を立てながら、香ばしく焼き上がっていく。淡く立ちのぼる香りに、お腹がくぅと鳴った。


 ジヤードが苦笑する。その尻尾もゆっくりと揺れている。


 焼き上がったパンに、リドが焼いてくれたカリカリのベーコンを乗せる。その上に、ジヤードが丁寧に仕上げたポーチドエッグをそっとのせ、仕上げに特製のソースをたっぷりとかけた。香草を砕いたスパイスをひとふり。


 私は一口、ガブリと頬張る。甘酸っぱいソースと、とろりと溢れ出す黄身のまろやかさが、口いっぱいに広がった。焼き立てのパンの香ばしさと、ベーコンの塩味が絶妙に絡み合い、思わず笑みがこぼれる。


 ジヤードも隣で、静かに同じように一口。ふっと目を細めるその表情に、どこかほっとする気配がにじんでいた。


 さっきの河原での話――それは、もう少し、胸の内にしまっておこう。

 この穏やかな朝が、少しでも長く続いてほしいと、そう思ったから。

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