第30話 崩壊

「詩織――!!」


 声が響く。ラビンの声だ。

 無事、図書館に帰ってこられたのだ――!


「ほら、魔力回復のポーションだ! 早く飲め!」


 メイド服を着た黒猫――ラビンが、すばやく駆け寄ってきて、震える私の手に小瓶を押しつける。小瓶の中に、深い青の液体が揺れていた。一気にそれを飲み干す。


「ラビン……どうしよう……」


 涙が滲んで、声が震える。


「アルが……私のせいで、アルが……!」


「わかっている!!」


 ラビンが、凛とした声で言い切った。


「閣下の結界が消えた。もうじきここも崩れる」


 その言葉に、私は思わず天井を仰ぎ見た。


 ――そこは、静かに、音もなく崩れ始めていた。


 そこにあったはずの構造が、夢の名残のように形を失い、ほんの少しの光と記憶を残して、ほろほろと、無数の光の粒となって宙に舞っていた。壁の飾灯も、ひとつ、またひとつと、明滅しながら粉雪のように消えていく。


 天井や壁の外側には、何もない。暗闇だけが漂っていた。


「閣下の邸に行けるか?」


「大丈夫。掴まって」


 次の瞬間、彼の姿はすっと変わる。ラビンはヒト型に変身し、アルを背負った。

 ラビンの手が私の肩に触れる。私は、力なくだらんと垂れたアルの手を、祈るようにぎゅっと握った。


 UI画面から、をタップする。

 図書館の壁が崩れ落ちる直前、あらゆる本と記憶が無に還る寸前――

 私たちは光に包まれた。


 ◇


 玄関ホールに足を踏み入れると、控えていた侍従が急ぎ足で歩み寄り、私たちを、アルの寝室へと案内する。

 途中、別の侍従が駆け足で、別の部屋へと向かっていったのが見えた。


 ほどなくして、ラビンがアルを背負ったまま寝室へ入り、そっと彼をベッドに寝かせた。


 すると、扉の向こうから足音が聞こえた。

 現れたのは、見目麗しい長髪のテオ伯爵と、アルに似た面影のイゾルデ・ノクティフィア侯爵夫人だった。


 お二人とも、エルセリオ領やグラウバッハ領に起きた異変を察知し、すでにアルの邸に駆けつけていたらしい。


 そして、死んだようにベッドの上に横たわるアルの姿を目にした瞬間――


「――アルヴァン」


 イゾルデ侯爵夫人の声が震える。

 その瞳に浮かんだのは、深い驚愕と、抑えきれぬ悲しみ。


 テオもまた言葉を失い、青ざめた顔のまま、拳をぎゅっと握り締めていた。


執事長コルベールに、ある程度、話は聞いていたが……。アルの身に、いったい何があったのだ?」


 静かな問いかけに、私は唇を噛みながら頷き、途切れがちな声で、これまでの出来事を話した。


 グラウバッハ侯爵に囚われたこと。アルの心臓のこと。ナラタルクとして、侯爵を封印したこと――


「ごめんなさい。私が、グラウバッハ卿を――」


 言いかけたその言葉を、テオが軽く首を振って遮った。


「それは仕方のないことだ。……それよりも、詩織。きみは、自分が思っている以上に、自分が魅力的なことを、ちゃんと理解したほうがいい」


「えっ……?」


「そんな姿で……きみが僕のそばにいるとアルが知ったら。僕はアルに――殺される」


「はっ――!!」


 朝、誘拐された格好のままだ。アルと朝まで過ごして、服を探して、薄い上掛けを体に巻きつけたそのまま。

 元居た世界で、ローマ人が着ていた服装ですと言って誤魔化せないだろうか。

 いや、やめておこう。既に顔が熱い。


「す、すぐに着替えてきますっ!」


 私は、慌てて部屋を飛び出しかけ――でも、すぐに振り返った。


「その……アルは、大丈夫なんですよね?」


「……わからない。こんなのは初めてだ。おそらく、仮死状態なのだと思う。だが――アルはしぶといよ。きみを残したまま、そう簡単に死ぬものか」


 テオの声は静かだったが、その奥にある焦燥は、ひしひしと伝わってきた。

 私は思わず、胸の前で手を握り締める。


「ダリエン卿が持ち去ったという心臓を取り戻せれば、アルヴァンはきっと元に戻るはずだわ。けれど探すにも、どこに心臓を持って行ったのか……」


 アルの手を握りしめるイゾルデ侯爵夫人が、低く呟いた。


 ********


 数時間前――魔界。


 ダリエンは、魔界に存在する十二の国の一つ――ゾル王国の王の間にいた。


 王の間とは名ばかりで、そこはほとんど宴の広間と化していた。魔族たちが巨大な酒樽を抱え、獣のように吠え、杯を交わしては笑い声を上げている。

 人に似た魔物、獣の頭を持つ魔物――その姿はまちまちだが、共通しているのは赤い瞳。それは、魔界に生きる魔族の証。


 その広間には、酒と肉と魔力と瘴気が入り混じった、毒々しくも淫靡な空気が漂っていた。


「いや、ここは……コホッ、コホッ……」


 ダリエンは咳き込み、眉をひそめた。


「瘴気が……胸焼けを起こしそうですな」


 正面――数段高くなった玉座の間に、その男はいた。

 名を、ザン=ナビエル。ゾル王国を統べる魔王だ。

 その身体は、竜人のダリエンよりもさらに一回り以上大きく、膂力りょりょくと魔力の両方を感じさせる風格をしている。


 赤い虹彩は深い夜のように光を湛え、その瞳孔は丸く、口には牙もない。柔和な顔立ちは、むしろ竜人よりも人間に近い。だが、それは明らかに“人間”ではない。

 全身には、呪いのような黒い文様が刻まれていた。それは筋肉の隆起に沿って絡みつき、生きているかのように微かに蠢いている。


 うなじまで伸びた無造作な髪は、外側が漆黒、内側は紫で、光を受けると陰と彩のあわいに揺れた。


 右手には、朱塗りの大きな杯。

 その中には、澄んだ液体が波紋を描いていた。


 玉座の代わりに据えられた長椅子にもたれかかり、褐色の肌をした魔族の女たちを両脇に何人もはべらせている。

 彼女たちの肌は、夜のように滑らかで、所々に鱗や魔紋が浮かぶ。


 透けるような布で身体を包み、ザン=ナビエルの耳元で妖艶な笑みを浮かべながら、その首筋に唇を這わせたり、筋肉で盛り上がった胸元を撫でたりしていた。


 彼女たちは決して、ザン=ナビエルの命令を受けて動いているのではない。

 その場にいるすべての魔族が理解していた。

 ――彼に選ばれたことが、何よりの歓喜であり、恐悦なのだと。


 ザン=ナビエルは、彼女たちの愛撫にも微笑一つ浮かべず、杯を持った右手をわずかに掲げた。どこか飄々とした態度のその姿は、威圧まで纏っていた。


 女の一人がぴたりと動きを止め、恭しく膝をついて、手にした酒瓶を彼の杯へと傾ける。


 ダリエンはふと、玉座の斜め奥――半ば影に沈む一角に、鉄格子の牢があるのを見つけた。その中には、まだあどけなさの残る少年少女が三人、異国の服を着たまま、膝を抱えて縮こまっていた。


 ザン=ナビエルはダリエンの視線に気付いて、奥を一瞥する。


「ああ、異世界人らしい。勇者候補とかいう肩書きで、わざわざ俺を討ちに来たんだ。気高くも愚かしい話だろう?」


 そう言って、にたにたと笑みを浮かべた。


 ダリエンは小さく眉を寄せたが、すぐにわざとらしく笑みを作って、手にしていた包みを開いた。中には、黒褐色の魔法の鎖で封印された、アルの心臓があった。


「――で、これがその、の心臓という訳か」


 ザン=ナビエルは興味なさげに、それを受け取る。軽く指を動かし、封印を解くとそれは、体を無くしてなお脈動し、鈍く金色に光を放っていた。


「どうです? お美しいでしょう? 美術品としても価値があるかと……」


「あ~ん」


 ダリエンが言い終わらないうちに、ザン=ナビエルは口を大きく開け、アルの心臓をそのまま口にした。

 そして――ぐっ、と顎を動かし、ごくりと嚥下した。心臓はそのままの大きさで、喉を下りていく。


 胃に収まった頃に、ザン=ナビエルは、大きなげっぷを一つ吐いた。顔をしかめる。


「ああ~。不味くはないが、美味くもないな」


 ダリエンは呆気に取られ、ぽかんと口を開いた。


「吞み込ん……。――あ、いや。それで、魔界の門アビス・ゲートの件ですが……」


 冷静さを装ってか、表情を戻し、ダリエンは手もみをしながら尋ねた。


「あ? なんだそれ。知らねぇな。なあ、お前、知ってるか?」


 傍にいた獣頭の副官が、酒の瓶を口にしながら、片手を上げて答える。


「いえ、知らないっすね」


 ザン=ナビエルは、ゆっくりとダリエンへと視線を戻した。

 目が笑っていない。


「――だってよ」


 次の瞬間。

 ズバァッッ――!!


 ダリエンの首が、胴から離れた。

 噴き出した血飛沫が、ザン=ナビエルの頬を掠める。そして、頬に付いたその血を、指先で掬ってペロリと舐めた。


「――竜人の血は、濃くて美味えな」


 傍にいた魔族たちが、歓声とも嘲笑ともつかぬ声を上げる。

 牢の中の少年少女が、青ざめた顔でぶるぶると震えながら、恐怖に目を見開いていた。


 そのとき――バァンと音を立てて、王の間の扉が開き、息を切らした一人の魔族が乱入してきた。


「た、大変だ兄貴! 地上の門が繋がった! 地上に行けるんだよ!」


 歓楽のざわめきの中、興奮気味に叫ぶ。


「はあ!? 知ってんだよそんなことは!」


 玉座に胡座をかいていたザン=ナビエルが、杯を振り上げた拍子に澄んだ酒が床へ飛び散る。


「それとなぁ、何度言わせんだクソガキ。兄貴じゃねぇ、魔王様だっつってんだろうが」


「ご、ごめんなさい魔王様……っ! でもでも、そんで、もうみんな、地上に食事に出てってて――!」


 ザン=ナビエルは、がりがりと頭を掻いた。

 赤く光るその瞳が、にやりと細まる。


「だろうな。ま、いいんじゃねえか。門はまだ完全に開いてねぇ。俺ら上位種オーヴァーが通れるほどの太さにはなってねえしな」


 そう言って、空になった杯を掲げる。


「まずは、竜人族の血で祝い酒だ。――それから」


 首をごきごきと鳴らしながら、ザン=ナビエルは牢の方へと視線を向ける。


「こいつらも前祝に喰っちまおう。恐怖で、そろそろ内臓がいい具合に熟れてきた頃合いだ」


 にぃ、と唇が裂けるほどの笑みを浮かべる。そこから、ねっとりとした熱い息が吐きだされた。


「腐らせる前に喰ってやんねぇと、もったいねぇからな」


 牢の中の勇者たちが、声にならない悲鳴を上げた。

 その中のひとりが、震える唇でつぶやいた。


「……たすけて……だれか……」


 誰に届くはずもない声が、宴のざわめきに、かき消されていく――。


 ********

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