第29話 逆恨み
あれから、どれくらい、時間が経ったのだろう。
私の体を巡る魔力は、すでに底が見え始めていた。
魔法も使えず、枷も外れず、意識も次第に薄れていく。
そのとき、突然――
「思い出した!」
グラウバッハ侯爵が、ひとりでに叫んだ。
その顔には、憎悪とも歓喜ともつかぬ、狂気めいた色が浮かんでいた。
「そうだ。思い出したぞ。あれは、アルヴァン坊やがまだ翼も仕舞えぬ、鼻垂れ小僧の頃だった」
侯爵は、ゆっくりと歩きながら語り始めた。
まるで、それが何よりの悦びであるかのように。
「アレの親が死んで、まだ日も浅いというのに――あの餓鬼は、エルセリオ領すべての
詩織は、口を開けることもできず、ただ聞いていた。
「
侯爵の声に静かに、だが確実に、怒りが滲みはじめる。
「その大役を――グラウバッハ領の一つを、成人した我が嫡男に任せたのだ。だが、我が息子は女にうつつを抜かし、日々封印は緩み、
侯爵の拳が、宙を叩いた。
その目はもう、過去の幻にしか向いていないように思えた。
「それもこれも、あの小僧が、年齢に沿わぬことをしでかしたからだ。アレさえいなければ、我が侯爵家こそが、竜王の座に座っていたはずだったのだ……!」
詩織は、その異様な執念に戦慄した。
それは、千年近い記憶に縛られた男の、果てなき呪いだった。
(そんなことで――)
ただ、心の中で、かすかにそう呟くのが、精一杯だった。
◇
もう、持たない――。
でも、それでいい。
そう思った、その時だった。
虚空が、裂けた。
空間に音もなく走る、禍々しいまでの断裂。
大気が逆巻き、世界がその一角を拒絶するように歪む。
そこに、彼が現れた。
静かに、けれど確かに踏みしめられたその足は、まるで時を支配するかのように、あたりを沈黙させる。
壁際の騎士たちが、彼に向かって一斉に動き出す。
刃が抜かれ、鋼のきらめきが幾筋も閃いた――
次の刹那。
彼が、一歩、踏み出した。
――轟音。
地鳴りのような衝撃が、床を駆け抜ける。
その場にいたすべての者の鼓膜を揺らし、呼吸を止める重圧。
何が起きたのかも分からぬまま、騎士たちは、まるで糸の切れた操り人形のように、一斉に――崩れ落ちた。
「……なんだ、これは」
グラウバッハ侯爵が、呆然と呟いた。
開いた口が塞がらない。まるで、夢を見ているかのように。
「ああ……これは、だめなやつだ」
かろうじて笑みすら浮かべながら、侯爵は続けた。
「うちの精鋭たちだぞ? 竜人の騎士の中でも、百人に一人の選りすぐりだ。それが、視線すら交わせぬまま、意識を手放すとは……」
侯爵の額に、初めて汗が浮かんでいた。
その視線の先に、アルヴァン・セディルス閣下が静かに立っていた。
空気が――震えていた。
黒の礼装を身にまとい、怒りに震えながら。
大気が、アルの感情に呼応するように微かに歪む。重く、鋭く。肌を刺すような緊張が辺りを支配する。
「ごめんね、詩織」
その声は、あまりにも優しく、慈しみに満ちていた。
まるで、この世の理に訴えかけるように――ただ一人、私に向けて。
グラウバッハ侯爵は、崩れた騎士たちを一瞥し、鼻先で笑った。
「まあ、なにかしたわけではなく。今のは、純粋な怒りが起こしたことだ」
その口角が愉悦に歪む。
「……ペナルティー1としよう。これで奥方の首を刎ねてしまっては、八百年抱えてきた楽しみが、一瞬で終わってしまう」
それは冷たく、残酷な遊戯。陶酔する狂気。
「さあ、早くしないと奥方が――」
そう、言葉が終わるよりも早く、アルは自らの胸に手を当てる。
そこに
その手は、ゆっくりと胸を
次の瞬間、淡く輝く球体が引き抜かれる。それは、確かに命そのもの――心臓だった。
それを、アルは迷いなく、私に向かって放った。
(……アル――だめ、そんなの……!)
叫びが喉を突いても、声が出ない。
私の目の前で――見ていることしかできない場所で、アルは音もなく、背後へと崩れ落ちていく。
支えを失った黒衣の身体が、虚空を舞うように――。
そして床へ、どさりと沈んだ。
(――アル……いやだ、いやだ……!)
喉が震え、呼吸が絡み、心が悲鳴を上げる。
けれどアルは、もう、指先一つ、動かせないようだった。
侯爵は喜びにだろうか――全身を
(やめて、アルに近づかないで。アルに触らないで――!!)
その時、アルの中にあった私の心臓が、鼓動と共に帰還した。
どくん――。
アルの魔力をすべて吸収し、変質し、精緻に編まれた私の心臓。
その鼓動は、脈動する力となって、私の全身を駆け巡った。
毛細血管の隅々に至るまで。
細胞と細胞の
それは優しくも、支配的で――絶対的な力だった。
私は、再び私ではいられなくなった。
私の意識は、ふっと霧散するように、外へと押し出される。
そして、胸の前に――金色の本が現れた。
天から吊るされたように開かれたそれは、眩い光を帯び、ひとりでにページを捲る。
ぱらり、ぱらり。
瞬間。
手首と首にかかっていた枷が、爆ぜた。
私を縛っていた魔力の鎖は、光の粒となって霧散していく。
浮遊する私の身体。
ただ静かに右手を掲げ、その掌を、グラウバッハ侯爵へと向けていた。
「我、
それは、神託のような響き。
祝詞のように澄んで、それでいて、誰にも抗えぬ運命の宣告。
声に驚いたのか、それとも、気配に驚いたのか――侯爵は私を振り返った。
その目が、大きく見開かれる。
「な……に……?」
驚愕と戦慄が、その顔に広がっていく。汗が一滴、頬を伝う。
そして――彼は見た。
金の魔導書を抱き、何もかもを凌駕する気配を纏った、私を。
どこまでも澄んだ私の声が、この世界へと向け放たれる。
「その侯爵は、高い塔と分厚い城壁に囲まれた、古いお城に住んでいました。
名を、グラウバッハ侯爵ヴァルド・グレイスファング卿。
侯爵様は、何百年も昔に、辱められた恨みを晴らすため、魔力を込めた黒いクリスタルを作りました。
それは願いを叶える石でも、宝の石でもなく、絶対に壊れない、忘却の牢でした。
けれど、そこに囚われたのは復讐の相手ではなく、自分自身だったのです。
永遠におやすみなさい。
静かな夜の深い深い狭間で、誰にも見つけられぬように。
誰にも、愛されぬように」
その瞬間だった。
グラウバッハ侯爵が、小さく息を呑んだのがわかった。
何かに抗おうとする意志が、確かにあった。だが、それは遅すぎた。
侯爵の身体が、自らのジャケットの内側へと吸い込まれていく。
懐に抱いていた、あの禍々しい《黒いクリスタル》。
それが、まるで自らの呪いの源として、彼を呑み込んだのだ。
最後に指先だけがもがくようにして、虚しく
けれどもう、次の瞬間には、何もなかった。
ただ、ぽとりと、床に落ちた黒いクリスタルだけが、静かに転がっていた。
私は――まだ魔力が残っていたおかげで、意識だけは、かろうじて自分に戻ることができた。
(アル……)
名を呼ぼうとしても、喉が震えるだけで声にはならない。
それでも、私は足を動かした。
縺れるような足取りで、アルのもとへと歩み寄ろうとする。
けれど――その足は、途中で崩れた。
がたん――。
膝を打つ痛みも、もう、感じない。
指先で床を這い、震える腕で、ただ前へ。
光が薄れていく視界の中で、ただひたすらに――
「……アル……」
彼の名前だけを、唇が繰り返していた。
意識の縁が、じわりじわりと黒く染まり始める。
冷たい闇が、足先から肩口へと満ちてゆく感覚。
指先は震え、視界は揺らぎ、世界が遠ざかっていく。
触れたい。
温もりを、確かめたい。
それだけを願って、私は――必死に、這い続けた。
その靴先に、触れる。
そして私は、UI画面を表示させ、消えかかる意識で、図書館への『
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