第14話 初めてのデート
私は、自宅――というか、アルの邸宅――の二階にある執務室にいた。
ダンジョンに向かう前に、アルに相談しなくてはいけない。そういう約束だったから。
アルは、書類から目を離して、私を見ている。
窓から差し込む陽光が、翡翠のような彼の髪を照らし、机上の書類に、アルの美しい影を落としている。
「ダンジョンは、フィールドとはまた違う。慣れないうちは、ひとりで行くものではないよ」
アルの断固たる声色に、私は内心で肩を落とした。
ああ――これは、「だめ」って言われる流れだ。
けれど次の瞬間、アルの口から出たのは、まったく別の言葉だった。
「よし――まずは、デートをしよう」
「――はい?」
あまりにも予想外すぎて、声が裏返りそうになる。
「明日、朝一で街に行こう。いいね? 詩織」
頬杖をつきながら、オパールの瞳を細めて、いたずらっぽく笑うアル。
首を傾げるその姿は、多分、本人が思っているよりも遥かに可愛い。
――これは、断っても連れていかれるやつだ。
「……わかった。じゃあ、明日ね」
私は観念して、軽くため息をついた。
「やった! 楽しみにしてるね、詩織」
喜びを隠そうともしない彼に、なんだかこちらまで、少し頬が緩んでしまうのだった。
◇
翌朝――。
私は、ルシンダさんたち侍女の方々に囲まれて、お出かけ用のロングドレスに着替えさせられていた。
色は深い藍色。胸元と裾に繊細な銀の刺繍が施されていて、少し動くだけで柔らかく光が揺れる。
髪はふんわりとアップに結われ、髪飾りまでつけられた。
「……貴族って、大変」
小声で呟くと、ルシンダさんに「慣れてくださいませ」と、きっぱり言い返される。
気後れしながらも、私は用意された靴を履き、ルシンダさんと侍女たち共に、リビングへと向かった。
「お待たせしました」
ルシンダさんが言う。
アルはすでにそこにいた。白地に白と金の刺繍や装飾が入った礼装のような上着を羽織り、長身の立ち姿はいつにも増して絵になる。
「待った。待ちくたびれて干からびた
そう言って、アルが私に手を差し出す。
私は少し戸惑いながらも、その手を取った。
指先から、彼の体温がじんわりと伝わってくる。
邸の外では、羽の生えた馬が、銀装飾の馬車を引いて待っていた。
アルと共に乗り込むと、御者が軽く手綱を引く。ゆっくりと車輪が動き出した。
重厚な鉄の門扉が、静かに左右に開く。
そこから、二人を乗せた馬車は、朝の光の中を進み出した。
――街って、どこの街なんだろう。
そんな素朴なことを考えていたら、馬車がふわりと揺れた。
「えっ?」
思わず窓から足元を見下ろす。――地面がない。
馬車の車輪が、何もない空を、まるで水面を滑るように進んでいた。
驚いて遠くを見ると、眼下に広がっていたのは、雲を突き抜けるような壮大な空と、点在するいくつもの浮島。
木々に覆われた緑の大地、湖、滝、小さな街並み。
その中でもひときわ大きな島が、アルの邸がある浮島だった。
まるで絵本の中の景色――。
私は、窓に張り付くようにして、息を呑んだ。
「……これが、竜人族の世界……?」
まさに、“天空” と呼ぶにふさわしい場所。
初めて目にする幻想のような風景に、胸が高鳴る。
そんな私を、隣に座るアルが静かに見つめていた。
その視線に気づいて顔を向けると、彼はふっと目を細めて言った。
「わくわくしてきたかい?」
「うん。すごく……!」
思いのほか無邪気に答えてしまった私に、アルは、春風に触れた花びらが色づくように、頬をぱっと染めた。
「――可愛いな」
さらりと、あまりにも自然に、アルが呟く。
なんか、急に恥ずかしくなってきた。
私は、自分の頬が熱を持ったのがわかり、アルから視線を逸らした。
窓に映る自分と目が合う。その顔が、どうしようもなく嬉しそうに綻んでいた。
◇
暫くして、馬車はひときわ大きな浮島に辿り着いた。
眼前には、まるで遊園地の入り口のような、豪奢で高い門扉。装飾されたアーチには金と瑠璃の細工が施されており、門の奥には色とりどりの店や建物が連なっているのが見えた。活気に満ちていて、まさしく「天空の街」というにふさわしい場所だった。
「さあ、着いたよ」
アルが言う。
御者が恭しく、馬車のドアを開けた。
先に降りたアルが、当然のように手を差し伸べてくる。
私はその手を取って、馬車のステップに足を掛けた――その瞬間、ロングドレスの裾をうっかり踏んでしまった。
「――あっ」
バランスを崩した私を、アルがすかさず抱きとめた。
しっかりとした腕の中で、彼の胸元に自分の体がぴたりと触れているのを感じて、鼓動が跳ね上がる。
「ご、ごめんなさい……」
顔を上げると、アルが軽く伏せた瞼の奥から、じっと私を見つめていた。その瞳が、少し潤んでいるように見えた。
キスでもされるのかと思って、思わず息を呑む。
――こ、こんな人混みの前で……!?
けれど彼は、ゆっくりと口角を上げ、柔らかく笑った。
「大丈夫?」
「う、うん。ありがとう……」
そっと体を離されるまで、私はその場で固まったままだった。
ドレスの裾を直しながら、胸の高鳴りをなんとか誤魔化すのが精一杯だった。
◇
私はアルの手に引かれ、金と瑠璃の門をくぐった。
目の前に広がったのは、まるで夢の中のような風景だった。
空の色に合わせて建材が染まるよう設計された建物たち。空色や白金、パールのように淡く光る壁面。風に揺れる旗や、屋台の布地からは、花や果実の香りが混じってふわりと漂ってきた。
「まずは、甘いものでもどう?」
「甘いもの? 朝食でケーキは食べたけど……」
私が首を傾げると、アルは少し得意げに笑った。
「この街には、《天空の菓子亭》という老舗があってね。空の雲から採った “エアシュガー” で作った綿雲菓子が名物なんだ。見た目も楽しいし、きっと気に入るよ」
彼の言葉に頷いて、私は導かれるまま通りを歩く。
途中、翼の生えた子どもたちが、空に浮かぶ魚型の風船を、走って追いかけていた。空には、鳥のように羽ばたく郵便屋が、優雅に飛んでいる。
「こっちだ」
アルが指差した先にあったのは、小さな塔のような、三階建ての菓子店。窓からふわふわと甘い香りが漏れてきて、すでに気分がほころぶ。
「――まずは、ここから始めよう。今日一日、きみが笑顔で過ごせるように」
私の手をぎゅっと包み込んだアルの指が、少し熱かった。
◇
《天空の菓子亭》で、丸いテーブル席に着いて紅茶を一口飲んだ後、運ばれてきた綿雲菓子は、本当に雲みたいだった。
ふわふわして、触れただけで溶けてしまいそうな繊細さだ。
「……これ、どうやって食べればいいの?」
フォークもスプーンも添えられていない。
「そのまま、手でちぎって食べるんだよ」
「えっ、手で? お行儀悪くない……?」
そういうと、アルはいたずらっぽく微笑んだ。
「これはね、そういうものなんだ。子供の頃に戻ったみたいに、楽しむのさ」
「……子供の頃、か」
小さくつぶやきながら、私はそっと綿雲の端に指を伸ばした。ふわりとちぎれたそれを口に運ぶ。
それは、淡く甘い香りとともに、空気のように消えてしまう。
お祭りの日の、綿菓子ともまた違う。甘く溶ける触感。
「これ……美味しい」
「よかった」
アルはそう言って、綿雲菓子のついた私の手をそっと取った。
そして指先を、自分の唇に寄せて軽く口づけをする。
「……っ」
突然のことに言葉が出ず、私は瞬きだけを繰り返していた。
「甘いね」
「そ、それは……綿雲菓子だし……」
「ううん……詩織のほうが、ずっと甘い」
艶やかなアルの目が、私を見つめた。
私の顔は多分、真っ赤だったと思う。
◇
店を出て、浮島を繋ぐ細い橋を渡る。
真下に広がる雲海に、私は思わず息を呑んだ。空の上を歩くような感覚に、自然とアルの腕に寄り添ってしまう。
「怖い?」とアルが囁くように訊く。
「少し。……でも、すごく綺麗」と私。
アルは嬉しそうに微笑んだ。
橋を渡った先の小さな広場には、よく手入れされた公園が広がっていた。並木道の先、噴水の近くにあるベンチにふたり寄り添って腰かける。
どこかの子どもが、背中の小さな翼をたどたどしく羽ばたかせながら、風に舞う花を追いかけていた。ゆったりとした時間が流れる。
昼下がりには、通りから少し離れた静かなレストランで、遅めのランチをとった。小鳥の囀りと、遠くの鐘の音を聞きながら、食後の紅茶を飲む。アルの話は楽しくて、私は思わず何度も笑ってしまった。
そして、次に案内されたのは――大通り沿いに佇む、上品な雰囲気のアクセサリー店だった。
扉を開けると、風鈴のように澄んだ音がひとつ鳴る。数名の店員が、「いらっしゃいませ」と、落ち着いた声で私たちを迎えた。
棚には、透き通ったガラス細工や、羽根を模したペンダント、色とりどりの宝石を使ったイヤリングが並び、静かな光を放っていた。光と風のなかで揺れるアクセサリーたちが、まるで時間までも優しく揺らしているようだった。
店の奥から、年配の男性が現れる。店主のようだ。
アルの姿を認めた瞬間、その目が大きく見開かれ、表情が一変した。
「こ、これはこれは……エルセリオ公爵閣下! まさか、従者も付けずに直々にお越しいただけるとは……このうえない光栄にございます」
「今日はひとつ、彼女のために選びに来たんだ。ゆっくり見せてもらえるかな?」
「は、はいっ、もちろんでございます! どうぞ奥の特別室へ!」
店主は慌てながらも丁重に頭を下げ、私たちを奥へと案内してくれた。
店の奥には、客の目を避けるように設けられた静かな個室があった。
緩やかに光が差し込む窓辺のソファ席。卓上には、香り高い紅茶と砂糖菓子が用意された。
間もなく、店主が手袋を嵌め直し、深紅のベルベットの布を敷いた台座に、慎重な手つきでアクセサリーを並べていく。
二人きりにしてほしいと言ったアルの頼みに応じて、店主は、「ごゆっくりどうぞ」と言って、部屋を出た。
「詩織――これはどう? 気に入ったものがあれば、なんでも贈るよ」
さすが公爵様。経済力がおかしいくらい高い。
下手すると嫌味に聞こえるのに、アルが言うと普通に思える。
私は首を横に振った。
欲しいものがあれば、自分で買う。
でも、ここで何も買わずに出るのは、公爵閣下に恥をかかせることになる。
とは言え――どうすれば。
「じゃあ――」
視線を彷徨わせていた私に、アルが微笑みながら、指輪を一つ取った。
乳白色の光の中に青色のきらめきを秘めた、小さなオパールの指輪だった。
まるで、結婚指輪みたいだ。
「僕の瞳と、同じ色の宝石だ――それに……」
アルの声が、少しだけ低くなる。
「オパールは、希望と愛を象徴する石だ。古い伝承では、“未来を選ぶ者の護石” とも言われている。ナラタルクであるきみに、相応しいと思う」
彼の声は優しく、それでいて――どこまでも真摯的だった。
私は、差し出された指輪を見つめたまま、少しだけ首を横に振る。
「でも、アル……」
――それを貰ってしまったら、心臓は一生、返せなくなる気がする。
「僕から、これを詩織に、贈ることを許してほしい」
そう言ってゆっくりと、私の左手を取るアルの手が、とても温かかった。
指輪は、薬指にぴたりと収まる。ぬくもりを閉じ込めるように、そこに嵌められた。この指の意味は、こちらの世界でも同じなのだろうか。
「……ほら、ぴったりだ」
さらりと微笑むアルに、思わず顔が熱くなる。
彼は、まるで契約の儀式のように、私の手をそっと両手で包んだ。
「これで、どんなときでも――僕はきみと共にある」
指先に残る、虹のきらめき。
その光が、胸の奥でそっと揺らめく。
私はただ、小さく息を吸って――目を伏せた。
多分――アルは今日中に、私を恋に落とそうとしているのだ。
こんな綺麗な人が、私のために、必死になっている。
そんなアルが、どうしようもなく、愛おしかった。
なぜなら私は、とっくにアルが好きになっていたからだ。
何度も夢で見た気がするほど好みな上に、どこまでも優しい。
好きにならないわけがない。
窓の外では、茜色の空がゆっくりと夜の帳に変わっていく。
でも、この人は――私が好きになっていい人では、ない。
なのに――指輪に映った灯りが、まるでふたりの未来を祝福しているかのように、優しく輝いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます