第4話 「見る」目

4-1

 霧椿皇国の若き皇帝、澄花信乃香蓮。羽村 雪樹などは彼のことを「いつもその辺でフラフラ遊んでいる暇人」とでも思っているようだが、残念ながらそれは間違いだ。

 皇帝の毎日はなかなかに忙しい。特に本日は二週に一度設けられた「謁見日」であるため、蓮は一日宮殿にこもり、国内外の要人たちと面談を重ねている。

 宮殿は皇宮内で最も古い、地上四階建て、総面積は七千坪にもなる巨大な建築物だ。内には大広間や食堂、会議室、謁見の間などを擁する。皇宮の最重要施設であるここには、百年も昔、立法、行政、司法の三権が集約されていた。それが現在の主な用途は、せいぜい迎賓館。そして主である皇帝も、接待役にまで堕ちている――。

 皇帝が全ての役人の長となり、霧椿皇国を自ら統治していたのは、せいぜい三代目までだ。以降は領土が大きくなるにつれ、皇帝の負担を減らすとの口実のもと、為政者としての権力は、貴族や高級官僚に委譲されていった。

 ちなみにそのようにして皇帝から剥いだ力を蓄え、肥え太ったのが、今や政(まつりごと)の一切を掌握する最高議会である。

 そして最高議会の長は、羽村 芭蕉。雪樹の父であった。





 宮殿の床を覆う畳は、特別に栽培された最高級のい草で編まれており、三年ごとに新調される。ついこの間張り替えたばかりだから、まだ瑞々しい緑の香りのするそこで、蓮は膝を崩し、行儀悪く座っていた。


「何度来られても同じだ。さっさと帰って、偉大なる父君にそう言うがいい」


 右に置いた漆塗りの肘置きに寄りかかり、垂らした手でぶらぶらと閉じた扇を振る。文字どおり斜に構えて、蓮は薄く笑っている。

 薄い眉に、細く鋭い目。反骨心溢れる、ふてぶてしい顔つき。はっきり言って悪党顔のこの皇帝には、横柄な振る舞いが、恐ろしいほど似合っている……。彼の名誉のために言えば、普段だったらこのような態度は取らない。相手が誰であろうと、客人とあらばきちんと礼は尽くすのだが。

 つまり、今蓮の目の前で形だけ傅いている男は、客ではないということだ。

 まがりなりにも国の元首たる皇帝に謁見するには、最低でも一月前からお伺いを立てるのが通例である。そこをこの男は突然皇宮にやってきたかと思うと、「陛下に会わせろ」と大騒ぎをした挙句、「御目どおりできるまで絶対に帰らない!」と居座ったのである。

 ――まあ、この男の心情も分かるから、蓮は自ら謁見を許したのだが。


「陛下……。忠実なる家臣に此度の仕打ち、あまりに非道ではございませぬか……!」


 男の年齢は二十代半ばのはずだったが、いかつい顔のせいで実際よりも五、六は老けて見える。巨岩のようながっしりした体に、着込んでいる礼服は似合っていない。確か男は優秀な軍人だそうだから、なるほど仕事着である鎧姿で登場したならば、さぞ見栄えがしたことだろう。

 怒りを抑えるためか、皇帝に向けた目線を下げ、男は畳の目をじっと眺めている。

 蓮は男より一段ほど高く設けられた席で謁見に臨んでいるが、その距離はたった五、六歩ほど。男がその気になれば、殴りかかろうが斬りかかろうができなくはないし、彼もきっとそうしたいことだろう。


「……………」


 屈辱と怒りで震える全身を、ふーっと深呼吸して落ち着かせると、男は急に下卑た笑みを浮かべた。


「恐れながら、聡明と名高い香蓮陛下におかれましても、まだお若く……。そのうえ皇宮にお籠もりになっていらっしゃるとなれば、お分かりにならないことも多くおありでしょう。例えば、澄花家のお立場でございますとか、そのご威光の翳(かげ)りについてですとか……」


 霧椿皇国を実際に動かしているのは最高議会だ。一般庶民の生活から、皇帝の影響はすっかり薄れつつある。

 さすがに皇帝のことを知らぬ皇国民はいないが、では皇帝は何のために存在しているのか? と問われて、答えられる者は少ない。

 招かれざる客である男は、つまり――「今や名ばかりとなった皇帝が、いい気になるなよ」と、こう言いたいわけだろう。


「そのような……」


 あまりに傲慢な物言いに、側に控えていた侍従長が口を挟もうとする。しかし蓮は弄んでいた扇を自らの手の平にパンと打ちつけて、侍従長を押し留めた。


「ほう。皇帝たる『朕』にご講義くださるというか。最近の猿は利口になったことよ」

「ぐ……っ! 無礼な……!」


 面白い見世物に立ち会ったかのように、蓮は男を見下ろしながらクスクスと笑った。

 顔をさっと赤くし、男は勢い良く立ち上がる。

 室内に緊張が走る。蓮と男の視線がぶつかり、火花が散った。

 一触即発の状態が数秒続く。

 が、最後の一線はやはり越えられないようだ。唇を噛んで、男は俯く。


「……………」


 蓮がため息をつく。その顔は、なぜか少し残念そうだった。


「楽しい余興だったが、こう見えて俺は忙しくてな。話は終わりだ。下がるがいい」

「陛下……!」

「下がれ。意味が分からぬか? ――すまんな。あいにく俺に、猿語の心得はないのだ」

「……! 香蓮皇! きっと後悔なされますぞ!」


「怒髪、天を衝く」とは、きっとこういうことだろう。男は恐ろしい憤怒の形相をして、ドスドスと足を踏み鳴らし、退場していった。

 火が消えたように辺りは静かになり、控えていた皆々は落ち着きを取り戻した。だが侍従長は、口をへの字に曲げたままだ。


「あのような狼藉者、昔ならば、さっさと首を刎ねてやりましたのに」


 髪も長いヒゲも真っ白で、ひょろひょろと痩せている。まるでおとなしいヤギのような見かけの侍従長から飛び出した過激な発言に、蓮はついプッと吹いてしまう。


「まあ、失言の一つや二つで首を飛ばされる世が、果たして良いのかどうか。それはまた別の話だがな」


 侍従長は不愉快そうに、ふんと大きく息を吐いてから、畳の上に正座した。


「よろしいのですか、香蓮様。このままで済むとは思えません。きっと面倒なことになります」

「雪を後宮に入れたときから、それは覚悟の上だ。それにしても、ようやく身内を寄越したか。羽村め、気の長いことだと思っていたが、そろそろだな」


 先ほどの無作法な男は、羽村 芭蕉の三男。雪樹のすぐ上の兄である。名を「柾(まさき)」という。

 羽村 雪樹が後宮へ幽閉されてからすぐ、羽村家からの使者は一日たりとも日を空けず、皇宮の門を叩き続けていた。

「大切な娘を返せ」。この当然の要求に、しかし蓮は使者たちをけんもほろろに追い返していた。ちなみに当の雪樹はこのことを知らない。

 暴挙を悔い改める気配のない皇帝に、業を煮やした羽村 芭蕉は、とうとう血族を、それも直系の息子を寄越してきたのだった。


「それにしても、娘が皇帝の寵姫に選ばれたのならば、喜びこそすれ、不服を申し立てるなど、あり得ぬことでございます。羽村 芭蕉という男、無礼にも程があります」


 長い白ひげを掴むように撫でながら、侍従長は憤懣やる方ないといった口調で言った。


「まともな父親ならば、娘を突然奪われれば、怒り狂うものだろう」

「奪うなどと! 娘が国母となれるやもしれませんのに……!」

「芭蕉にとっては、さほど魅力的な話でもないのだろう。今はあちらこそが、『王様』だからな」

「……………………」


 自嘲的なことを言って笑う皇帝に、侍従長はかける言葉を見つけられなかったのか、黙り込んでしまった。

 国内の主要四島をまとめ上げたのち、霧椿皇国の戦乱の炎は一旦潰えた。平和が訪れたことは大変結構だが、征服するという形で接収してきた土地も財産も、もうその手段は取れなくなったということだ。

 そもそも奪って得られるものには限りがあり、いつかは尽きる。これからは皇国民と協力し合って、富を生み出し、食べていかなければならない。

 国の舵取りが大幅に変更されたそのときから、戦の天才でありカリスマだった皇帝は用なしとなり、政策、学術、経済――それぞれの分野に秀でた知恵者たちが実権を握るようになった。

 皇帝の家系はもはや継続させることだけに意味があるのだろう。きっと遺物や遺跡のようなものだ。価値があるかどうか分からないが、古くからあるものだから、とりあえず残しておこう、と……。

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