3-5(完)

 その夜もまた、蓮は後宮にやってきた。


 ――飽きもせず、まったく……。


 声に出さず悪態をついた雪樹の頭では、例の簪が誇らしげに光っている。桃たちに無理矢理飾られてしまったのだ。


「……………」


 自分が贈った髪飾りと、いつものようにムスっとむくれている雪樹を見比べて、蓮は開口一番言った。


「随分殊勝な礼状を寄越したと思ったが……。やはり気に入らなかったのか」


 閨――皇帝のための特別な寝室に続く襖の前で、二人は立ったまま口論を始める。――これも毎度のことであるが。


「いえ、そういうわけでは……。でも、こんな高価なものをいただく理由がありません」


 雪樹が動くたびに揺れ、灯りを受けて、夜闇の中キラキラ輝く。そんな簪に目を止め、蓮は満足そうな顔をしている。


「あまり深く考えるな。似合っているからいいじゃないか」

「……!」


 雪樹は唇を噛み、俯いた。


「……蓮様は私が女だと知ってから、変わられました。元から性格はあまりよろしくありませんでしたが、人の嫌がることはなさらなかったし、癇癪持ちの自己中モンスターではあったけれど、人間の気持ちを分かろうと努めていらっしゃったのに」


 ちょいちょい悪口が盛り込まれた言い分を聞かされ、蓮はまなじりを吊り上げた。


「――おい、ケンカを売っているのか。ごちゃごちゃとうるさい女だな。くれてやると言うんだ、はいはいと適当に受け取っておけばいいだろう」

「だって……! あなたはこんなもので女を飾り立てて、悦に入るような人ではなかったでしょう!」


 一喝した雪樹を、蓮は射抜くような目で見詰めた。


「――おまえが、俺の何を知っている?」

「え……」

「おまえが俺のことを本当に理解していたのならば、俺を置いて西国へ行くなどと、とても言えなかったはずだ!」

「……!」

「――なんでもない。今のは忘れろ。情けないことを、言った……」


 怒鳴られて、氷に触れたように身をすくませた雪樹を見て、蓮は目を逸らした。そして雪樹の手を掴むと、奥へ連れて行こうとする。


「ほら、来い」


 ハッと我に返った雪樹は、ジタバタと抵抗を始めた。


「ま、待って……! 待ってください! 今日は本当に! 本当にダメです!」


 昼間受けた講義の要が、頭の中でビカビカと赤く点滅する。

 真百合に教わったことに従えば、今日は卵子がお腹にいる可能性が高い「危険日」だ。


「ん?」


 拒まれるのはいつものことにしても、今夜はやけに激しい。蓮は雪樹を引く手を緩めた。


「そういえばおまえ、真百合婆と話をしているのか?」

「えっ、ええ」

「――なるほど」


 今まさにあの女医のことを考えていたので、雪樹は驚いた。

 得心がいった様子で、蓮は離れていく。


「じゃあ、今日はやめておく。何もしないから、とりあえず一緒に来い」


 襖を隔てた閨には、床が準備万端整っていた。蓮はさっさとそこに寝転ぶと、布団をめくりながら雪樹を誘った。


「ほら、入れ」

「えー……」


 散々したい放題されたから、「何もしない」なんて言葉は信じられない。しかしまた鋭い目で睨まれたので、雪樹は仕方なく蓮の隣にもぐり込んだ。


「あの、お部屋に戻られたほうがよろしいのでは……?」


 いつもすることをすると、蓮はさっさと自室へ帰ってしまう。なんでも毎朝五時には起きて、勤めを始めているそうだ。最近は雪樹を構い過ぎて就寝時間が遅いようだが、本来は早寝早起きの優等生皇帝なのである。


「別にいたっていいだろう」


 蓮はうつ伏せになってわずかに体を起こし、枕元の行灯にふうっと息をかけた。辺りが暗くなると、自分の横で体をガチガチに固くしている雪樹を抱き寄せる。


「わ……」


 蓮の広い胸の中にすっぽりと収まって、雪樹は戸惑った。

 思えば、いつも意識を失うまで抱き潰されて、ふと気づけば蓮は姿を消している。こうしてただ側にいて、共に時を過ごすのは久しぶりだ。

 ――妙に緊張する。

 蓮からは焚き染めた香の香りがした。落ち着く匂いだ。目を閉じてまどろんでいると、伸びてきた手に脇腹を摘まれた。


「!」

「ふん。少し痩せたかと思ったが、その気配はないな」

「人をふとっちょのように言わないでください! 一応、いちおう、これでも痩せているほうなんです!」

「ふーん」


 蓮はますます強く、雪樹を抱いた。


「おまえは柔らかいから、ふくよかなほうだと思った……」


 対して蓮の体は締まっていて大きい。たくましい腕が鎖のように絡みついてくるが、雪樹はされるがままになった。


「ん……」


 眠くなってきたのか、蓮の腕が段々緩んでくる。

 ――離れてしまう。

 なぜか不安になって、雪樹から抱き締め返した。うつらうつらした蓮に、尋ねられる。


「何か……困ったことはないか。家に帰せとか、そういったことは聞けないが、それ以外なら……」

「……部屋にいるのに飽きました。もういい加減、外を歩かせてください」

「分かった。明日にでも、皇宮内なら自由に……」


 不意に頭の上で、くすっと笑い声がした。


「なんですかっ!」


 からかわれているのかと思って、つい尖った声を出すが、蓮は意に介さず笑い続けている。


「いや、こうやって誰かと眠るのは、初めてだが……。悪くないな」

「…………………」


 蓮は生まれ落ちた瞬間に、家族と引き離されたそうだ。先に生まれた兄弟たちが育つことなく身罷った、父である先皇の行状がよろしくない――等々の理由によるものだ。それらの問題を顧み、蓮はその後、一流の医師や教育者たちの手によって育てられた。

 日常を別に過ごしていれば、親子としての情は希薄になるものなのかもしれない。蓮は、父である故・夢蕨はもちろん、珀桜皇太后のことも、あまり慕ってはいないようだ。


 ――確かにあのお母さんじゃ、蓮様との相性は良くないかも……。


 雪樹は昼間訪問を受けた皇太后の、霞を食って生きているような風情を思い出した。

 だがまあ婚約者を殺された挙げ句、実の子供も取り上げられたあの人が、母親というよりは一人の女として生きているのも、仕方のないことかもしれない。

 それならば、その息子はどうやって過ごしてきたのだろう。


 ――寂しくなかった……?


 今までこんなこと、考えてもみなかった。

 皇宮で相まみえる蓮はいつだって自分の好きなことだけをしていて、鬱々としたところなど見せたことはなかったからだ。


 ――でもそういえば、いつもなにかに不満を抱えているようだった……。


 雪樹はそれを、ただの贅沢なわがままだと思っていたのだ。

 だが今、聞いてみたい。


 ――なにがあなたを苦しめているの?


 彼の苦悩と、自分が後宮に閉じ込められたことは、関係があるのだろうか。

 どう尋ねたら、この捻くれた青年は、素直に喋ってくれるのか。そう考えているうちに、当の蓮は寝息を立て始めた。


『雪樹さん。これからあなたに色々教えるのは、その理由は、あなたのためを思ってのことじゃないの。申し訳ないが、蓮坊のためなのよ』


 規則正しい呼吸を繰り返す蓮を間近で眺めながら、講義に先立ち、真百合が語った内容を思い出す。


『蓮坊とあたしは、あの子が赤子の頃からのつき合いでね。あたしはあの子が本当の孫のように思えてならないの。恐れ多いことですけどね。幸せになって欲しい……。だから、あの子の后には、あの子の人生に寄り添ってくれる女性になって欲しいの。あなたはとても賢くて、いい子だと思うけど、ほかにやりたいことがあるんでしょう? だから、蓮の相手は無理。――責めているんじゃないの。人には皆、望んだとおりの人生を送る権利があるのですからね』


 ――誰かの人生に寄り添う。

 十八の小娘には、人生という言葉の重みが、ピンとこない。

 だが、大切で大好きだった幼なじみの蓮が、実は深い孤独を抱えていることは、ここにいる二月の間、なんとなく分かってきた。

 確かに、誰かが蓮を支えてやる必要があるのだろう。真百合の言いたいことはよく分かる。

 でもそれを自分ができるとは思えない。自分にはやりたいことが……。


 ――本当に、あるの?

 

 高等学問所へ進学し、勉強したい。その先のことはあとで考えようと思っていたくらい、雪樹の望む未来は漠然としていた。


 ――だったらそれを、蓮様に捧げてもいいんじゃないの?


 いや、それは悔しい。人を辱めておいて、謝罪もせず、後宮に閉じ込めて――。そんな相手に、自分の一生を犠牲にしてまで仕えるなんて業腹だ。


 ――でも私がここを去れば、こうやって蓮様に抱かれて眠るのは、違う女の人になるのか……。


 自分以外の誰かが、蓮の寵愛を受ける。

 想像すると、なぜか胸がズキズキ痛む。これはなんだろう。その正体は、だがきっと暴いてはいけないものだ。


 ――知ってしまったら、もうここから出られなくなる……。


 ひどく汚い、何か……。

 それ以上考えるのはやめて、頭の中を真っ白にしようと試みる。

 白く白く、なにもない。怒りも憎しみも悲しみも――好きとか嫌いとか愛してるとか、そんな稚拙な感情は一切ない、無垢な世界に。


 ――戻りたい……。


 やがて訪れた眠気に抗わず、雪樹は意識を手放した。





~ 終 ~

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