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序文への応援コメント
コメント失礼いたします。
まだ序文しか拝読できていないのですが、それだけでも、もの凄く大きな衝撃を受けました。朝尾さんが純文学に寄せる深い信念と、その可能性を堅く信じるまなざしに心を打たれています。「純文学とは何か」という根源的かつ難解な問いに対して、これほど真摯に向き合い、卓越した論理でご自身の考えを展開される姿に、尊敬と憧れの念が絶えません。
私はいま高校生ですが、大学では芥川龍之介をはじめとした文学の研究に挑戦したいと考えています。やがては、朝尾さんのように情熱をもって文学を語り、言葉に魂を込めて思索できる人間に少しでも近づきたい――そう願わずにはいられません。そのためにも、まずは自分の中で文学に対する誠実な価値観を育てていこうと思います。
恥ずかしながら、三島由紀夫の作品は未読でして……。序文からの続きを読みたいのはやまやまですが、彼の作品を精読した上で、もう一度この論考にじっくりと立ち返らせていただきたいと思います。
造詣の深い論考をありがとうございました。学びになりました。
すみません、どうしてもお礼を伝えたかったので、再度こちらに失礼させていただきます。
とても丁寧で温かいお返事、ありがとうございます。感激のあまり何度も読み返しております。
「前途有望」とのお言葉、身に余る思いです。まだまだ未熟で試行錯誤の連続ですが、「漂流」や「日常の栞」などの作品を評価していただけたことは、何よりの励みになります。
文学部進学についてのご意見も心強く感じています。ちょうど周囲から反対されていたところだったので、深く沁みました。諦めずに進んでいこうと思います。背中を押してくださり、本当にありがとうございます。
また、文学の道を歩むうえでの貴重な指針をいただけたこと、心から嬉しく思っています。「茶渋のような深み」や「鞏固な論理性」感情と冷ややかさのバランスなど、まさに自分に必要な要素を的確にご指摘いただき大変勉強になりました。「芥川に足りない部分を他の作家から補う」というのも自分にはなかった発想で、驚きとともに感銘を受けています。独自の文学スタイルに向かって努力していきたいと思います。
重ねてになりますが、温かいご助言を本当にありがとうございます。これからも精進してまいります。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
そうでした、まだ高校生でいらっしゃるんでした。自分のその頃を思うと、すでに「漂流」のような、私小説であり且つ客観性をも失わないものが書けてしまえている新川さんの方が、よほど進んでいるように思えてなりませんが……前途有望ですね。
大学で文学を専攻。これについて担任から親から「就職先がないんじゃない?」などと反対意見が噴出するかもしれませんが、僕は断固進むべきだと思います。
結局のところ、大学は好きなことにとことんのめり込むためだけの場所であり、自分がいかに粉骨砕身してそのことにのめり込んだかを、身振り手振りをまじえて報告するのが、就職活動における面接の(あるいはインターンの)場になりますので、何でもいいからのめり込んだことのある人間が有利になります。バイト、サークル、資格試験、コンペ、学祭運営、ボランティア活動、地域振興のための学生企画、海外渡航、起業またはそれに準ずる自分の特技を活かしての金策、等々、もはや何でもありです。研究は無論のこと、のめり込んだことがあって、それを上手いこと面接官の(インターンの担当官の)気を惹くようにアピールできればいいので、就職活動で不利になることはないと思います。
僕は文学部に行かなかったことを後悔しておりますし、おかげで講義とゼミは澱んだ川のごとき死ぬほど退屈な時間が流れつづけました。無駄ですので、ぜひ情熱を注げる場所に急行してください。
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一人の作家に集中して、もはや、芥川龍之介が出し殻になって味もそっけもなくなる位まで吸収し尽くすことが大切だと思います。「日常の栞」を読んでいましても、言葉のセンスは今様にフレキシブルで抜群ですんで、あとはどうやって茶渋のような深みを出していくか、どうやって世界に骨格を与えてゆくか――鞏固な論理性を世界の裏側に張り巡らせて、直情的にふやけ出さないようにしていくか――感情を爆発させるのみならず、どうやってそれをぎゅっと引き締める冷ややかさを文体に宿らせてゆくか、を大学でやしなうことができればよいんでは?
芥川龍之介の文体やノウハウを盗みきると、おそらく芥川を起点として、他の作家との距離感がつかめてきます。歴史的な位置づけや、他の作家との親和性、あるいは反目し合っていただろう関係が仄見えてきます。
次に「芥川に足りないところ」を補うために、他の作家に手を伸ばします。他の作家の美点を、芥川のスタイルに癒合させる――するともはやそのスタイルは新川さんだけの属人性を帯びて、どんな状況であろうと、やってゆける気になると思います。
また芥川を起点として、純文学の歴史を劉覧することで、新川さん独自の文学観がいずれ語れるようになると思います。どの作家の目をも借りずに、遠くから眺めているだけの文学史家の言うことを教科書通りに暗誦して、わかった風になるのが一番よくありません。
追伸
三島由紀夫が未読でしたら、読まない方がよいかもですね。これは或る意味、答えを書いてしまってますので、今後、はじめて三島にふれた時の味覚に悪く影響します。
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金閣寺への応援コメント
『金閣寺』を読了いたしました。
正直に申し上げて、私には非常に難しかったです。己の浅薄さを痛感いたしました。電子辞書を引いてみたり、仏教芸術について調べてみたりしながら、二か月ほどかけて少しずつ読み進めました。それでもなお、理解が及ばない部分が多く「読み切った」というより「読みの途中にいる」といった感覚が残っています。
そんな生焼けのホットケーキのような状態でコメントをお送りするのは失礼ではないかと、しばらく逡巡しておりました。ですが、朝尾さんの論考を拝読し、この思いを言葉にしたくなり、コメントを書かせていただきました。拙い文章ではありますが、私なりの誠意として、受け取っていただければ幸いです。
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まず、三島由紀夫という巨人の作品に触れるきっかけをくださったこと、心より感謝申し上げます。
本当に、圧倒されました。足を踏ん張っていなければ、いいえ、踏ん張っていたとしても、体ごと持っていかれてしまいそうなほど、強靭で濃密な彼の世界観に打ちのめされ、読後もしばらく呆然としてしまいました。先述の通り、金閣の建築に関する描写や仏教用語、そして柏木の論理など、躓く箇所は多々ありました。それでも読み進められたのは、それらの難解さをも呑み込んでしまうほどの、三島の筆致と世界観の力に惹きつけられたからだったのだと思います。荘厳で繊細な情景描写、鋭く深い心理の掘り下げに触れるたび、常識や価値観が静かに、そして確実に、揺さぶられていくのを感じました。
それから、これはうまく言えないのですが……本来は逆であるはずなのに、三島の文章の中に、どこか「朝尾節」のような響きを感じる瞬間が幾度かありました。もし不適切な表現でしたらすみません。そのときふと、以前朝尾さんが返信でおっしゃっていた「模倣から属人性を獲得する」ということが思い浮かびました。それが完成されたときの一つの形が、こうした文体の重なりなのかもしれない、と考えました。朝尾さんが三島由紀夫に影響を受けていらっしゃることが、作品を通して自然と伝わってきたように思います。
また、『金閣寺』と朝尾さんの論考を通じて、文学と哲学の密接な関係を改めて実感いたしました。金閣が溝口にとっての「美のイデア」であること、柏木の論理にハイデガーの『存在と時間』が関係していることなど、朝尾さんのご指摘を拝読して、ようやく霧が晴れるような思いがいたしました。当時の文豪たちが西洋哲学に深く影響を受けていたことも踏まえて、哲学的素養を持つことが、文学の本質的な理解に繋がるのだと、改めて気づかされました。
特に、柏木の登場場面で語られる「実相」と「仮象」のくだりは、私にとって最も理解しがたい部分でした。読んでいる最中は首をひねるばかりでしたが、朝尾さんの論考を拝読して、ようやくその論理の輪郭が見えてきたように思います。その点についても、深く感謝申し上げます。
哲学の分野についてはまだまだ知見が浅く、これから少しずつ学んでいきたいと考えています。それが、いずれ自作における「鞏固な論理性」にも繋がっていくのではないかと密かに期待しています。
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長々と駄文を失礼いたしました。
朝尾さんのご見解は、いつも私にとって新鮮な驚きと学びに満ちており、読むたびに思考の地平が広がっていくように感じています。心からの敬意をこめて、星を贈らせていただきます。
第二回はタイミングが合わず参加を逃してしまいましたが、純文学品評会、もし今後も継続されるようでしたら、ぜひまた参加させていただきたく思っております。
重ねてになりますが、本当にありがとうございました。どうかお身体を大切にお過ごしください。
作者からの返信
この論考をきっかけとして三島由紀夫にはじめて触れる方があらわれることは、僕のかねてからの願いでしたが、それがよもや弱冠十七歳の学生であるとは、思い寄りませんでした。近況ノートのなかに「早熟」という言葉がありました。たしかに新川さんは早熟の気があります。理解が早いですし、こうしたコメントのやりとりにおいても、文法は正確、体裁が非常に整っており、気遣いが行き届いております。
僕の十七歳はへどもどしておりました。思い返すだに赧然たるものがありますが、しかしながら、僕は大学を卒業するまでは大いにへどもどしていいと思うんですがね。《居汚い承認欲求の発露》と自らを裁いておりますけれど、あんまり竹を割ったように自分の”はみ出している部分”を切り捨てておしまいになると、あとで来る反動のほうがこわいです。物分かりのよかった三島が、遅れて来た思春期を二十代半ばから爆発させたように。若くして結婚した身持の固い男が壮年になって浮気に走るように。
大いにへどもどしていただきたいです。物分かりのよさは退屈な秀才を生み出します。新川さんが譲れないと思う点については、周囲が引くほど執着していったほうが、文学はそれによって富むでしょう。
人生のイベントのたびに文学を差し置くというのは、奇妙なことに思います。「そんな小説なんか書くよりも、受験に集中した方がいい」と、他ならぬ我々が述べるのはとんだ自己否定です。文学よりも受験勉強や就職活動が優先されると心の底から信じているのであれば、その人にとっては、社会的なコード(規定・慣習)の上に乗っかって社会通念上よしとされることを遂行し、社会がその価値を保証しているものを通して自身を肯定し確立してゆくことの方が、文学よりもよっぽど価値があるということになります。もはやその人のもとに文学の出番は巡ってきません。文学は社会的なコードを刺し貫く猜疑のまなざしです。小説を書いていようと、いまいと、社会的なコードに全的に従属しないでこれを疑い、解体しようとし、その奥にこれと異なる価値を見出そうとするまなざしを持つこと自体が、すでに文学的な行ないです。僕は文学は生き方だと考えております。でっち上げられたライフスタイルではなくて、そうせざるをえない泥臭い生き方です。社会を信ずるか、文学を信ずるか。社会を信じながら文学に片足を突っ込むやり方で書かれた物は、やはり退屈な秀才の余業たることをまぬかれません。
ただ、十七歳で自分がはたして文学的な人間であるか否かなど、見極められるはずがありません。御自身の文学的衝動の性格をつかむまでには、敏活な新川さんであっても、相当の年月がかかるのではないかと思いますし、見極めをする前に何かのはずみで、作品を引っ提げて世に出てしまうことにでもなれば、損失の方が大きいと思います。
かるがゆえに僕は勉強に専念した方がいいだなんて興醒めなことは言いませんよ(笑)
それよりかは、オープンキャンパスに出向いて、自分は”この研究室”の”この教授”にぜひ師事したいという具体的なヴィジョンを持つことの方をおすすめしたいです。私大であると、極端に左がかった思想を二十歳前後の若い頭に刷り込んでやろうと手ぐすね引いている胡乱なのもいるらしいですし、頭ッから教授らの言うことを鵜呑みにせず、まず何事も疑ってかかることがこれからは大切だと思います。
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強引に説得的である三島の「である調」は、そこまでしなければ虚構のうそ臭さは脱臭されないものであろうかと、我々に一寸した反省を強います。
鞏固な論理性とは申せ、三島ほどに骨格を前面に押し出してゆくと、新川さんの持ち味であるやわらかさ――言葉を的確に宛がう手首のしなやかさは却って殺がれてしまいます。あえて使い分けるなら、新川さんのそれはタッチ(筆致)であり、三島のは筆法であると言えます。参考までに、僕は各務さん作「まぼろしの人」をカクヨムのなかではなかんずく優れた作品であると思っております。各務さんのスタイルもタッチ(筆致)に寄せており、感性に訴える描写のつらなりに精彩があります。
で、そこまでであれば、なるほど生々しい現実が足もとから開けてくる感じはあるが、開け方に脈絡がなく、論理的な牽引力にとぼしい作品、という印象にとどまったことでしょう。ところが、四章七節において急劇に話柄が思弁的になります。このかなり奥まったところにあるたった一節で、永い感性のあてどない旅路にみごとに脈絡がつけられたという晴れやかな印象を僕はもちました。
これはゆるふわ系の女子が、急に頭の固そうな話題を振られた時にも難なく応じられてしまう、意外な教養の時めきに、相手の男がうっとりと信頼感を寄せてしまう現象に似ています。ゆるふわ系女子はふだん感性的な言動に終始しているようにみせて、すわとなると、懐刀をひらめかせて相手を刺すこともできます。たぶん僕はこの程度でいいと思います。必要な時に冷厳な論理をあつかえる用意のある作品には信頼感が寄せられますし、作外にあっても、議論に負けません。
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かいまさやさんは(担当教員ではなかったようですが)ある先生に具体的な何らかの知識を教わったのではなく、その背中から、文学に対する真摯な姿勢を学んだ、と仰っています。文学はまことに孤独な取組みであり、僕はその取組みをつづけてゆく上で最も重要なことは、文学を信じていることを雄弁に語る背中を自分の身近な誰かのなかに見出すことだと思います。自分一人だけが信じているという状態はなかなかに辛いです。新川さんが今後そういった背中をもつ人物と出会わんことを願います。
現実において背中を見て勇気づけられることが一番ですが、もしそれが失敗したときのオルタナティブとして、カクヨムが機能するように、僕は純文学のための場を整備しておきたいと思っております。