第29話『くるまるハイドの居場所』



 イタグレのハイドには、絶対に譲れないものがある。

 それは——一枚のグレーのブランケット。


 よくあるふわふわのひざ掛けのように見えるそれは、すでにくたくたで、ところどころ糸がのびている。

 でもハイドにとって、それはどんな高級ベッドよりも落ち着く場所だった。


 朝。

 カーテンの隙間から差し込む光の中、ハイドはブランケットの端をくわえて、じぶんの“定位置”に運ぶ。

 日なたと風の通り道の、ちょうどあいだ。

 床のラグの上に丸くなって、くるくる……と何度かまわったあと、ブランケットに鼻先をうずめる。


 ふわっ……と、かすかに鼻をくすぐる匂いがある。

 それは昔、風邪をひいて震えていた夜に飼い主が包んでくれたぬくもりの記憶。

 それは雨の日、雷の音に震えたときに、静かに寄り添ってくれた時間。


 たくさん洗って、香りもとっくに飛んだはずなのに——

 ハイドだけが、それをちゃんと覚えている。


 この毛布じゃなきゃ、だめなんだ。

 似たようなものはいくらでもある。でも、それは“ちがう”。


 飼い主もそのことに気づいていて、洗濯のタイミングをいつも慎重に見計らう。

 なるべく天気の良い日。ハイドの機嫌が良くて、おやつに夢中な日。

 「よし、今なら……」とそっとブランケットを回収する。


 でも——数分後には、足音がする。


 「……あれ?」

 とでも言いたげに、ハイドが部屋を歩き回る。鼻をひくひくさせて、ブランケットがあった場所を確認して。

 しばらくすると、ソファの下をのぞき、棚のすきまを見て、最後に飼い主の足元にぴとりと座る。


 じっと、目を見つめてくる。


 「洗濯……してるの、ごめんね」

 飼い主はそうつぶやいて、そっと頭をなでる。


 ハイドは何も言わない。

 でもきっと、わかっているのだ。

 このブランケットが、自分にとってどんな意味を持つのか——飼い主にもちゃんと伝わっていることを。


 洗い終えたブランケットが戻ってくると、ハイドは決まって同じ行動をする。

 いつもの場所に、それをくわえて運び、端っこをかみかみしながらくるくる回る。

 そして、すっぽりと頭からくるまる。


 もう、それだけで世界はじゅうぶん。

 音も、匂いも、心配も、ぜんぶ外に置いてきたように。


 風の通り道で、グレーのブランケットとともに丸くなるハイドの姿は、まるで「ぼくの世界」を作っているようだった。


 やがて夕暮れ。

 赤くなった陽が、ハイドの毛並みをやわらかく照らす。

 グレーの短毛と、落ち着いた光の中で、彼は静かにまぶたを閉じた。


 ——この場所があれば、大丈夫。


 そんなふうに思わせてくれる“ただの布”が、今日も彼のそばにある。


 そしてその名前が、風に乗ってミトハに記録されるころ、

 誰かもまた、“自分だけの安心”を見つけられますように、と願っていた。

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