第2話

 時間はおそらく、22時。

 早ければ今夜、当主アザムが私を殺そうと手を動かしてくる。

 その前に、私はこの屋敷から脱出しなければならない。


 屋敷の真っ暗な隠し通路。

 床に置かれた燭台のロウソクが、細い通路で向かい合っている私と執事のベルンを照らしている。


 この隠し通路が外に繋がっていれば良かったのだが、どうやら文献によればこの通路は異次元にあり、出口はないらしい。

 もっとも、然るべき場所でキーワードを唱えれば、どの部屋にも移動できるので問題はない。



「“私をダデン家から盗み出して”、ときましたか。ふふ、盗みの依頼なら、確かに生真面目なベルンより怪盗ラビの方が適任でしょうね。ですが2代目とはいえ、かの有名な怪盗ラビへの依頼です。高くつきますよ? 8歳のリリお嬢様では、とても支払えないかと」



「そうかしら? お釣りがでると思うんだけれど」


 そう返し、私はひんやりとした冷たい石畳の床に、手の平をつける。


「『リリ・サーシャ・ダデンが命じる。汝、我らを解き放て』」


 ロウソクの明かりが書き消えるほどの眩い明光が周囲を支配し、石畳のヒビまで鮮明に照らしていく。


 そうして瞬きをすれば、私達は隠し通路から、とある部屋へと瞬時に移動していた。

 そこはだだっ広くて、中央に台座1つしか置かれていない、殺風景な部屋。

 私とベルンは、その部屋の中心に立っていた。


 私はうんと背伸びをして、目前の台座に置かれていた深紅色の宝石――マダム・ルビーを手に取り、ベルンのお腹に押し付ける。


「これ、あげるわ」


 ベルンは困惑した顔だった。

 お腹に押し当てられたマダム・ルビーに触ろうともしない。


「これは、リリお嬢様のものです。亡きお父様の形見でしょう。私が盗もうとした理由も、アザムが売り払うと聞いて、リリお嬢様にお返ししようと思ったからで……」


「知ってるわ。だから、貴方に貰ってほしいの」


「……では、大切にお預かりいたします」


 今度は躊躇うことなく、ベルンがマダム・ルビーを受け取る。

 それを胸ポケットにしまう様子を見ながら、私は部屋から持ってきた小袋を取り出す。

 その袋から緑色の小さなボールを取り出すと、私は天井に向かって、思い切り投げ飛ばした。


 ボールは天井にぶつかると破裂して四方八方に散らばり、ゆっくりと部屋全体に緑色の光を降り注ぐ。

 緑色の光がキラキラと輝きながら床まで降りてくると、部屋中に張り巡らされた、蜘蛛の巣のような赤い線が露わになっていた。


「見える? この赤い線、魔導センサーなの。触れると大音量の警告音が鳴り響くから、気を付けてね」


「……何と申しますか、リリお嬢様、あまりにも用意周到すぎます。怪盗ラビの手助けは、必要ないのでは……?」


「私も最初はそう思っていたんだけどね。何度も何度も失敗して、確信したの。やっぱり、貴方の助けが必要だなって」


「以前にも、このようなことを?」


「ええ。気が遠くなるくらいね。……さあ行くわよ、お喋りする時間はあまりないの」


 言って、縦・横・斜めに張り巡らされた赤い魔導センサーに触れないよう、体を伸ばしたり縮めたりしてかいくぐりながら、私達は部屋の出口にたどり着いた。


 私は簡単なルートを知っていたし体が小さいから苦戦こそしなかったものの、背の高いベルンは体も硬く、何度かセンサーに触れそうになっていた。

 その時のベルンの表情は、やっぱり何度見ても面白い。


「それで、なんとか出口にたどり着くことができましたが……。この後はどうするのですか? ドアの向こうには監視がいますし、そもそも鍵がかかっているはずです。隠し通路から逃げるのですか?」


「無理よ。隠し通路は、私の部屋からしか入れないの。だけど大丈夫」



 はぁはぁと荒れた呼吸を整えながら尋ねてきたベルンに、しかし私は余裕の笑みを浮かべる。

 そして冷たいドアノブに手を添え、ひねる。


「今日はたまたま、監視役のシャーゼが鍵を閉め忘れているの。そして彼は昨日――」


 ドアは何の抵抗もなく、音もたてずに開く。

 いとも簡単に廊下に出ると、監視役の男、シャーゼは出入口のすぐ横にある椅子に座り、いびきをかいて眠りこけていた。


「彼女に振られた勢いでしこたまお酒を飲んで、珍しいことに、眠ってしまっているのよ」

「……買収でもしたのですか?」

「いいえ。そうなると知っていただけよ」


 私の答えに眉根をひそめるベルンを無視して、私はバッグの中から、小さなハンマーを取り出す。


「おりゃっ!」


 そして、涙の跡を残して眠っているシャーゼの側頭部めがけて、私はハンマーを振るった。

 ゴッ! と鈍い音が鳴り、反動で私の腕が跳ね返る。

 シャーゼがドサリと音をたて、床に寝っ転がる。

 そのまま、ピクリとも動かない。


「えっ。はっ!? リリお嬢様! 何をッ!」


「大丈夫。怪盗ラビは殺人を犯さない。それは守っているわ。こうしないと、シャーゼは眠っていた罰で殺されてしまうの。殴ることでシャーゼは職務怠慢で怪盗を見逃した男から、勇敢にも怪盗に立ち向かった男になって、罰せられなくなるのよ」


 血の付いたハンマーを握ったまま、私はベルンに向かって微笑む。


「さあ逃げるわよ、ベルン。私を抱っこして」

「だ、抱っこですか? それより先に、シャーゼの介抱を……!」

「必要ないわ。力加減なら分かってる。時間がないの。今すぐ、私を抱っこしなさい」


 有無を言わせぬ口調で言うと、ベルンはシャーゼを一瞥し、「うーん」と彼が唸ったことでほっとした顔を見せ、すぐに私をお姫様抱っこしてくれた。


「じゃあ、鳴らすわよ」


 私はベルンの腕に抱きかかえられたまま。

 魔導センサーが張り巡らされた部屋に向かって、血の付着したハンマーを思いっきり投げ入れた。

 ハンマーはぐるぐると回転しながら、いくつもの魔導センサーを反応させ――ウウッー! というけたたましい音を屋敷中に轟かせる。


「さあ走りなさい、ベルン! 目指すは、厨房への道を最短ルートよ!」

「うわぁああ! どうして鳴らしたんですかリリお嬢様ぁあ!」


 悪態をつきながらもベルンは私を抱っこしたまま、出せる最高速度で廊下を駆ける。


「リリお嬢様っ。せめておんぶにしませんかッ? 走りにくいのですが!」

「それが目的だもの。貴方、足が速すぎるのよ」


 どんなに頑張っても、私の体は8歳のままだ。

 ろくな運動もさせてもらえず屋敷に囚われていた私の体力はすぐに果ててしまうし、移動速度も遅い。

 何度も試した結果、腕を振れなくなる抱っこが、一番丁度いいのだ。


「8、9、10。今の道を引き返して、右手の廊下に入って」

「……かしこまり、ました」


 踵を返し、ベルンが私の言う通りに足を動かす。

 なり続けるサイレンの音に交じって、多岐に分岐しているいくつもの廊下から「こっちだ!」とか「何事だ!」とか、倒れたシャーゼを見つけたメイドの「キャァァアア!」という悲鳴が聞こえてくる。


 だけど、慌ただしい足音と声が聞こえてくるだけだ。

 メイドも執事も、誰の姿も、私たちの視界には映らない。

 右手の廊下に入り、その真ん中まで走ったベルンに、追加で指示を出す。


「止まって。喋らないで。あと6秒したら、また走り出して」


 それから6秒後。「行って!」と指示を出した私に、走りながらベルンが口を開く。


「リリお嬢様、この屋敷には40人を超える人間が仕えています。ダデン家が広いといえ……。一体どうして、逃げている間、誰にも会わないのですか? 先ほどのシャーゼの件といい、まるで未来が見えているかのような……?」


「未来じゃなくて、過去に起きた事実を見ているのよ」


 さらに廊下を曲がり、誰もおらず誰も入ってこない厨房のドアを開け、中に入る。

 私をゆっくりと床に下ろしたベルンが、神妙な顔で私を見つめる。


「お嬢様は、何者ですか?」


 何度も尋ねられたその質問に、私はいつも通り、決まった答えを白状する。


「私は、この1週間をループしているのよ」

「……ループ、ですか?」


「そう。私の誕生日の9日前をね。何千、もしかしたら何万回も……。私は殺されて、気が付くと誕生日の9日前に戻っているの。最初は困惑しながらも自力で脱出しようとしたけど、無理だった。体を鍛えても意味がないから、本を読んだり屋敷の人と会話して情報を得たり、私がどんな行動を取るとどういう結果が返ってくるのか、試行錯誤を繰り返したわ」


「つまりリリお嬢様は、その回数分、殺されていると?」

「そうよ。そして今日はその集大成。前回もあと一歩のところで殺された。ベルン、私は今日こそ、自由になれるのよ」


 こんな突拍子もない話だけど、私は知っている。

 9日前の泣き虫だった私と今の私との差異に、ベルンが疑問を抱いていたことを。

 それが今、解消されたことを。

 何より――。ベルンが私を、疑ったりしないことを。


「……リリお嬢様」


 ベルンが膝をついて、私と同じ目線になって大きな手のひらを差し出してくる。

 心配・同情・悲しみ、そんな感情が滲む顔で。


「必ず、貴女様を盗んで差し上げます」


 だけど私の顔に張り付くのは、計算して作られた表情。

 私はその手を取って、もうほとんど揺れ動かない心で、優しい笑みを取り繕う。


「ええベルン。攫われる準備はできているの。頼りにしているわ」


 殺され続けた心でも、屋敷から脱出できればもう1度、心から笑えるだろうか。

 ああきっと、そうなってほしい。

 私はゆっくりとベルンに近寄り、唯一の味方に、そっと抱き着いた。

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