バレンタインデー
二月十四日、月曜日。
部活帰りに、メッセージが届いた。見てみるとどうやら、彼女が手作りチョコを渡したいそうだ。
何でも、入院生活が暇で仕方ないからと、ガスコンロでチョコを溶かした手作りチョコらしい。
「相変わらず、元気そうだな」
さすがに毎日は無理なのだが、僕はどんなに忙しくても、週に一度は彼女の元に通っている。
特に話すことはなくても、とにかくいてくれるだけで嬉しいそうだ。僕だって、彼女の元気そうな姿を見るだけで、心が落ち着く。
そうして、いつもの様に病院へ向かっていた。
川の土手にいると、いつも走りたくなる。
季節の変わり目に、学校終わりに見える茜濃い斜陽。
それに紛れる季節の移ろい。
同じ時間なのに、まるで違う世界。
同じ世界なのに、色合いの違う景色。
野鳥雑草、木々茜。
残酷にも過ぎていく季節の移ろいは、僕に優しく運命を受け入れさせる。
だからこそ、僕は大通りではなく、この土手を通るのかもしれない。
病院に着く。病室のインターフォンを押したら、遠隔でドアが開く音がした。
「今日は遠隔で開くのか……。点滴の日なのかな」
それくらいならよいのだが、不穏が頭を掠る。
しかし、今までにもあったことなので、特に気にしなかった。
扉を開け、ゆっくりと手招きをする彼女に一歩一歩歩いていく。
そうして彼女が手招きをやめ、手を膝に置いたところで、
「よっ。チョコレートを頂きに」
そう、僕は冗談交じりに言葉を発した。彼女の腕には点滴が繋がれている。
軽いことだ。軽いことにしたい。そんな思いで、そんなことを言った。
「それだけ~?」
手を軽く口に当てて、笑う彼女。
そんな明るい声色を上げることのできる姿を見て、僕の不穏はどこかへ飛ばされた。
そうして、安心感と、彼女に会えて口角が上がっている自分の顔を、一度窘めて。
「抗癌剤打ったの?」
「うん。だから、食欲がなくて」
何でもなさそうに言う彼女。抗癌剤の辛さを僕は知らないけれど、無理しているかもしれないと考えるだけで、身震いがする。
けれど、今は彼女を信じることにした。
近くのテーブルには、食べかけの冷えた病院食がある。一目見て、「そっか」と、相槌を打った。
「食べれたら、点滴も打たなくていいんだけれどね」
「いいんだよ。別に」
そんなことはどうでもいい。僕と触れ合う事よりも、自分の健康を優先にしてもらいたいものだ。
僕はベッドの隣に、近くに置いてあった向かい合っている椅子の片方を持ってきて、彼女の左手側に座った。
点滴が繋がれている方の腕である。
次に彼女が、点滴の繋がれている手を差し出してきたので、その手を取って握ると、彼女は綺麗な笑顔を浮かべて、僕に言った。
「今日は、バレンタインデーだよね」
彼女はもう一方の自由な手を使い、ベッドの隣に置いてあったビニール袋を取った。
中にはアルミホイルで包まれたいくつかの塊が入っている。
形さえ分からないが、その手作り感に、僕はまた安堵から口角が上がった。
「チョコ作りたいって言ったら、雨宮さんがガスコンロ持ってきてくれたの。病室で作ったのは内緒ね」
下手なウインクをする彼女。片方の表情筋が盛り上がって、掴んで、伸ばしてやりたくなった。
叱りたくなった。
けれど、今はただ彼女を褒めてあげよう。喜んでおこう。
「全く、よくやるね」
僕は呆れ気味に、それでいて褒めるように言った。
彼女はそれでも照れたように笑う。
「じゃあ、あげる」
そうして差し出されたビニール袋。湿気を取るための紙だと思っていたのは、実は手紙であることに気付いた。
「ホワイトデー。期待してる」
「じゃあ、それまでに健康でいろよ」
「当たり前じゃん。翔の手作りチョコ食べるまでは死ねない」
「食べたからって死んだら、僕が毒を入れたみたいなことになるから、どっちにしろ健康でいてほしいけどね」
そうして、病院を出た。チョコは家に帰ってから食べてほしいと言われたので、黙ってそうすることにした。
辺りは既に真っ暗になっていて、また親に夕食を待たせているのだろうと予感している。
僕の家族は、彼女の様に崩れていない。
僕の体は、彼女の様に蝕まれていない。
彼女のような不安定な人生と違って、僕の人生はその分退屈と、選択に満ちている。
それを平和だとか、穏便だとか、自由だとか言うのであれば、僕は否定はしない。
夕食の後に、冷蔵庫で冷やしておいた彼女の手造りチョコレートを取り出した。
アルミホイルの中身を取り出すと、兎やペンギン、さらにはハートマークの形のチョコレートがあった。
板チョコを溶かし、型に固めた物だろう。
食べた後に、冷たい手紙がビニールの袋から滑り落ちる。
開いてみて、僕は衝撃を受けた。
「嘘だろ……。なんでだよ」
大きく、空白の有り余る白紙。書いてあった、たった一つの文章は、
”私、夏まで持たないかもしれないの”
僕に言わなかった理由。いや、言えなかったんだろう。
裏切られた気はしなかった。もし、彼女が僕に癌を告白する前だったら、僕に伝えず、消えてしまっている。
けれど、言ってくれた。夏までに。夏までに?
また、僕の世界の色付きが、消えていく感覚に陥った。
彼女はとっくに覚悟していたのだろうか。
彼女はとっくに知っていたのだろうか。
彼女は、僕の事を”死”ぬほど愛してはいなかったのだろうか。
「……いいや、そんなわけ。ないよな」
暗くなった外の景色を覗く。結露していて、水滴が浮かんでいた。
外は、まだ寒い。
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