4 永遠の別れ-1


 貴族たちの列から、四十代前半の男が進み出てきた。


 髪油をたっぷり塗り込んで梳き上げた、ダークブラウンの髪。暗褐色の眸。金糸銀糸で刺繍がほどこされた豪奢な礼装に包まれた身体は、長年の飽食を物語るようにでっぷりと肥えている。


 彼こそが、ジョモレ・セレス大公。

 皇帝家を支える五大公家の一つ、セレス大公家の当主にして、今上帝アルワン・サマド・ヤンシャーの義兄。

 そして、十七年前に前任者たるコルクト大公を追い落として自らがその席に座って以来、この国――ヤンシャー朝カールスバードを実質的に支配している宰相ワジーレである。


「時間だ」


 その眸がアストラードたちを睥睨し、冷ややかにそう告げた。


 びくっと全身を引き攣らせた息子を、もう一度だけ強く抱きしめてから、父の腕が解かれる。

 そのまま、静かに立ち上がる。


「父上!」


 追いすがりかけたアストラードを、リファートの腕が捉えた。

 引き攫うようにして抱き止め、強く包み込んだ。


「嫌だ。やめて。お願い……!」

「煩い」


 それでも暴れ、もがきながら叫んだアストラードに、宰相は酷薄な笑みを向けた。


「躾のなっていない小童こわっぱだ。畏れ多くも、皇帝陛下のご裁定に異を唱えおるか? なれば、父親共々、その細首もここで打ち落としてくれてもよいのだぞ?」

「――リファート」


 一歩下がったファルハードが、声をかける。

 こいねがう口調に、叔父がぎりと奥歯を噛みしめ、その掌でアストラードの口元を覆った。


「ファルハード・キルタール!」


 声も動きも封じられ、ただ双眸を見開いていることしかできなくなった少年の眼前で、宰相の横に並んだ別の男が、声を上げた。


 こちらは、三十代の後半。癖のある灰色の髪を首の後ろで一つに束ね、大柄で筋肉質の体躯に正騎士せいきしと同じ臙脂色の軍装を纏い、その上に真紅の円套を羽織っている。


 男の名は、ヒュセイン・シンジャール。

 ジョモレ・セレスと同じ五大公の一人にして、現在は、国軍のトップたる皇帥サルダールの地位にある。


「貴様は、栄えあるヤンシャー朝カールスバードの諸侯貴族の列に連なる者でありながら、隣国サギスの王に通じ、畏れ多くも皇帝陛下に弓引かんと謀った!」


「んーっっ‼」

 居丈高な宣告に、アストラードは千切れるほど強く、首を左右に振った。


(嘘だ! 違う!)


 声にならない声で、何度も叫ぶ。

 そんなことは、この場に居る者の殆ど全員が知っている筈だった。

 その証拠に、皇帥サルダールの宣告に嗤って頷いたのは、宰相ワジーレを始め、ほんの数人だった。

 残りの者たちは、関わり合いになるまいというように目を逸らしているか、居たたまれないように俯いているかの、どちらかだ。


「大逆の謀叛人なれば、本来なら一族郎党共々ウズンの丘に引き出し、斬首とすべきところを、寛大にして慈悲深き皇帝陛下は、無い訳でもない貴様の功績を鑑み、毒杯での自裁をお許しあった。また、潔く罪を認めたれば、処罰は己れ一人に留め、エラン辺境伯家の爵位と家門も安堵するとの御諚ごじょうだ。蒙昧もうまいの身に過ぎたるご厚情を感謝し、己が大罪を悔い改めるが良い」


 ヒュセイン・シンジャールの鳶色の眸が、悦に入ったようにファルハードを睥睨する。


 だが、ファルハードの表情は、髪の毛一筋ほども動かなかった。

 ただ、冷めた目で、己れを誣告し続ける相手を見返している。

 屈辱も敗北もなく、恐怖すらない。

 そこにあるのは、冷やかな侮蔑だけだった。


「――その目だ。その目が、昔から心底気に食わなかった」


 皇帥サルダールがふと顔を歪め、低く吐き捨てた。


「たかが辺境貴族の分際で、旧エタナ王国王家の血筋に連なるこのわしを莫迦にしおって。この結末は、敬うべきを敬わなかった貴様自身の愚かさが招いたことだ」

「敬われたければ、血筋や地位ではなく、自らの行いを省みるべきだな、シンジャール大公」


 ファルハードは、むしろ面倒くさそうに応じた。


「相変わらず、肝の小さい男だ。俺が気に入らないから殺してやると言うなら、宰相のように堂々とそううそぶいてみせろ。自分から悪逆を選んでおいて『俺は悪くない』と言い訳するなぞ、滑稽なだけだぞ」

「っ、黙れ‼ 最後の最後まで、口の減らない奴だ‼」


 厳つい顔を赤黒く浮腫むくませると、皇帥サルダールは片手を挙げた。


 応じて、全身を黒の布で覆って白い仮面を付けた、三人目の死刑執行人が現れる。

 両手には、銀色の盆。それを捧げ持つようにして、音もなく鉄の椅子の前に歩み寄ってくる。

 その上には、素焼きの粗末な高坏ゴブレットが乗せられていた。


 目の前に差し出されたそれを、父は黙って取った。

 そして、何の気負いもなく口元に運び、一息に煽った。


 塞がれたままのアストラードの口から、声にならない悲鳴が迸った。


 父が、やはり黙って、高坏ゴブレットを銀の盆に戻す。

 そのまま、どかり、と背後の椅子に腰を落とす。

 すると、左右に控えていた仮面の男たちが素早く屈み込んで、両手首に荒縄を回し、椅子の肘置きに括り付けて、固定した。


 この処刑方法で裁かれる罪人の中には、手指を喉に突っ込んで飲まされた毒を吐こうとする者が少なからず居るという。

 座らせて固定するのはそれをさせない為であり、その椅子が鉄製なのは、罪人が暴れて椅子ごと逃げ出したり、周囲の見届け人たちに危害を及ぼしたりすることを防ぐ為だった。


 だが、わざわざそんなことをしなくても、ファルハードは、迫る死のあぎとから逃れようとはしなかった。

 ただ静かに呼吸を繰り返しながら、言葉にならない激情に身を震わせている家族と麾下たちを見つめていた。


「叔父上、離してください」

「――駄目だ」

「お願い!」


 泣きながら、アストラードはこいねがった。


 嘘なのに。何もかも偽りなのに。

 その上、冷たい鉄の椅子で、一人きりで、荒縄に括りつけられて最期を迎えさせられるなんて、あんまりだ。

 変えられない運命なら、せめて体温を届けられる近くまで行きたかった。

 傍らで、手を握っていたかった。


 そんな息子を、ファルハードは包み込むような眼差しで見つめ続けている。


 呼吸の音が、不意に乱れた。

 上体が大きく波打ち、少量の血が吐き出されて、白い屍衣の胸元を赤く染めた。

 その両手が、ぎゅっと椅子の肘置きを掴んでいる。

 喘鳴が大きくなっていく。呼吸が上手くできなくなってきている。


 アストラードの耳に、自分を抱きすくめている叔父の切迫した息遣いが届いた。

 タイラやセルマンが、迸りそうな激昂を堪える為に、ぎりぎりと奥歯を噛みしめている音が聞こえる。

 メテインが、声にならない声で祈りの言葉を唱えている気配を感じる。


 これが、永遠の別れ。

 だがもう、誰も、何も言わない。


 先ほどアストラードの悲鳴を踏みにじったように、哀惜の言葉の一言にさえ言いがかりをつけてくるかもしれない者たちに、これ以上付け入られない為に。

 ただ唇を引き結び、理不尽な死へ落とされていく主を見つめ続ける。

 言葉の代わりに、ありったけの想いだけを、眼差しに込めて。

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