黄金天秤の王とエランの鷹
佐々木凪子
第一部 双光の目覚め
第一章 二つの運命の始まり
1 カザンカの少年
ビィィン。
永久の暗闇の中に坐す白い衣の老人が、抱えている琵琶の弦に
――物語を致しましょうぞ。
金とも銀ともつかない長い髪と、同じ色あいの
我らは全なる個。全ての時間と空間から切り離され、それ故に全ての事象が帰結する、イェスイムの眼。
その視界が映した、『星』と人々の物語を。
天に瞬く、
それは、時に空を
多くは
なれど稀に、地に落ちてなお輝きを保ち、歴史に深くその名を刻みつける者が在る。
彼らが
彼らが得るのは、時に崇拝であり、時に恐怖である。
故に、人々は彼らをこう呼ぶ。
『
***
月も凍るような夜だった。
冷たい大気を裂き、吹きすさぶ風音を断ち割って、野太い獣の咆哮が上がった。
「――今の」
石造りの壁に囲まれた居間の中、暖かい炉の傍に寝転んでいたアスギールは、ハッと顔を上げて、立ち上がった。
アスギールは、ここ、ザーランの荘園の荘園主、ジャン・ザーランの一人息子で、七歳になる。
短く刈った
ヴオオオ……。
腹に響く重低音の吼え声が繰り返される。
それに別の動物の鳴き声が重なった。
切羽詰まった羊たちの鳴き声だ。
そこに女の悲鳴が混じって、アスギールは飛び上がった。
「母上!」
居間から飛び出し、躊躇なく表戸の掛け金を外して、館の外へ出る。
「アスギール坊ちゃま」
同じタイミングで、館の脇にある従僕小屋から飛び出して来た老人が、少年に声をかけてきた。
片手に松明、片手に巻き割り斧を持っている。
「メシッチ、今、母上の声が」
言いかけた時だった。
従僕小屋の反対側、敷地の奥にある家畜小屋から、二十代後半の男女と、アスギールより少し年上の少年が、転がるように飛び出してきた。
男女は、アスギールと同じ亜麻色の髪で、質素ではあるが少しだけ格の高い装いを纏っている。
もう一人の少年は、栗色の髪に鳶色の眸を持ち、貫頭型の
腰を締めているのはただの紐で、身に一つの装身具もないことから、こちらは完全に小作人階級の子供だった。
「父上、母上、シュバス!」
少年と女が、男を両脇から抱えるようにしている。
男が片足を引きずっている様子を見て、アスギールはそちらへ向かって駆け出そうとした。
「アスギール様、来ちゃいけません!」
栗色の髪の少年が、アスギールを見て叫んだ。
その語尾に、低い唸り声が重なった。
三人の背後に、黒く巨大な影が浮かび上がる。
牛ほどもある体躯。
地面を踏みしめる太い四肢。
体毛は薄茶色で、腹側だけが白く、背中から腹にかけて、黒の縦縞が数本、入っている。
何より特徴的なのは、上顎の両端から下顎の際まで伸びる、巨大な牙だった。
「
松明を差し上げた老人が、呻き声を上げた。
「――それにしては、大きくない?」
アスギールは首を傾げた。
カザンカ平原に生息する
しかし、今目の前にいるのは、どう見ても二パッスス(およそ三メートル)を越えている。
「あれは、最近この辺りで噂になっていた、『人喰い』だ!」
老人が悲鳴を上げた。
「通常より大きくて、家畜小屋を襲っても、羊は後回し。先に、騒ぎを聞きつけて来た人を喰う。隣村でも、そのまた隣村でも、もう何人も喰われてるって話だ!」
「逃げろ、アスギール、逃げろ!」
懸命に片足を引きずって歩きながら、父親が必死の形相で叫ぶ。
「サキーナ、シュバス、お前たちもだ!」
父が、母と小作人の少年の手を振り払い、二人を前方へ突き飛ばした。
必然的に、父は支えを失い、その場に両手両膝を着く。
その背後に、巨大な影が迫った。
「父上!」
瞬間、アスギールの視界は真っ赤に、そして、頭の中は、真っ白に染まった。
聴覚から音が消える。
周囲の景色が遠ざかる。
意識の焦点が、目の前の巨大な影に、ぎゅっと凝縮される。
――鼓膜の奥で、
自分の中で何かの歯車が回り、それまで外れていた『何か』が噛み合ったように。
次の瞬間、アスギールはメシッチの手から薪割り斧をひったくり、飛び出していた。
弓弦から放たれた矢のように地を走り、父親の身体を飛び越え、今まさに牙を閃かせたところだった巨大な獣に組みつく。
突き出した左手で獣の鼻先を掴み、そのまま一塊になって、地面に転がった。
「アスギール!」
「若様‼」
母親とシュバスの悲鳴が響いた。
よって、誰もが断末魔の叫びを予測し、噛み裂かれた少年の身体が地面に転がる光景を幻視した。
だが。
乾いた風と舞い上がる土煙の中、その場の人々が見たのは、予測とは真逆の光景だった。
七歳の少年が、鼻先を掴んだ左手一本で、巨大な
たった一撃で、獣の硬い額が割れ、鮮血が噴き上がった。
ぐがあっ、と吼えた
だが、少年の細腕は、獣を地面にねじ伏せたまま、微動だにしない。
頭上から降り注ぐ返り血を浴びながら、憑かれたように薪割り斧を振り下ろし続ける。
三撃目で、頭蓋骨が裂けた。
四撃目で、血に混じって脳漿が飛び散った。
五撃目、六撃目で、獣の眼がひっくり返り、四肢と尾がばたりと地に落ちた。
全身が、たたら場のふいごのように波打っている。
肺が軋むような音を立てて、つい先ほどまで軽々と振り下ろしていた薪割り斧が、不意にとてつもなく重く感じられた。
「やっつけたよ、父上、母上」
それでも、ホッとしながら、笑顔で背後を振り返った。
だが。
「――化け物」
眼が合った瞬間、地面に尻餅をついた格好でこちらを見ていた父親と、その傍らに両膝をついて夫の肩にしがみついていた母親の顔が、ひび割れた。
「え?」
咄嗟には何を言われたかわからず、アスギールは笑顔のまま、一歩、そちらへ足を踏み出した。
途端に、両親の口から、つんざくような悲鳴が放たれた。
流石に、アスギールの足が止まった。
「旦那様っ、奥様っ、早く、早くこっちへ!」
両親の後ろで、従僕の老人が松明を振り回しながら叫んだ。
皺だらけのその顔も、凄まじいまでの恐怖に歪み、両眼が飛び出しそうになっていた。
「大牙虎を打ち斃すなんて。人の子供にできる筈がない。化け物だ。魔物の子――『
老人の叫びに、父と母は、両手で空をかきむしるようにしながら、立ち上がった。
半分以上腰を抜かして、父は片足を引きずりながら、母はその父を支えながら、泳ぐような足取りで駆け出す。
「シュバスっ、お前も早く来い! 来い!」
「――ま、待って下さい、旦那様」
同じように蒼白な顔で立ち尽くしていた従僕の少年が、ぎくしゃくと首を巡らせた。
「アスギール様は、旦那様を助けようと……」
「あんなものが、アスギールである筈がない! メシッチの言う通り、あれは魔物だ。俺たちの息子は、いつの間にか、魔物に取り換えられていたんだ!」
顔中を口にする勢いで喚きながら、両親が必死の形相で逃げて行く。
凍り付くような月光の下、少年は呆然とその背を見送っていた。
***
西方暦二〇三年――初春。
ヤンシャー朝カールスバードの北西、カザンカ平原の小さな荘園で、一つ目の『星』が目覚める。
これが、全ての始まりである。
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