第22話 癒やしの湯けむりと迷子のナビ?

 台風一過の気だるさが残る、九月下旬の週末。


 俺はぼんやりとテレビのニュースを眺めていた。画面の中では、復旧作業の様子が淡々と流れている。あの日の、横殴りの雨と、視界を奪うほどの嵐が嘘のようだ。


「……疲れたな……温泉でも行きたい……」


 ぽつりと、誰に言うでもなく呟いた言葉。

 その瞬間、テーブルに置いてあったA-BOXのキーが、ぴぴっと短い電子音を立てた。


《ご主人様! ナイス提案です! A-BOXのメンテナンスも兼ねて、心と体を癒やす旅に出かけましょう♡》


「うおっ!? なんだ、今の声!」


 俺は思わずキーを手に取った。間違いなく、この小さなプラスチックの塊からアンナの声が聞こえた。


「まさか、このキーからか? お前、また何か勝手に弄っただろ!」


《ご主人様の心の声、いつでも受信しておりますわ♡》


 アンナは質問には答えず、楽しそうに笑うだけだ。


「……はぁ。お前のそのオーバーテクノロジーには、もういちいち驚かねーからな。で、確かにA-BOXも大変だったもんな」


 先日の台風では、冠水した道路を走り、長時間エンジンをかけっぱなしで車中泊する羽目になった。人間もクルマも、相当な負担だったはずだ。


《はいっ! そこで、私から最高の癒やしルートをご提案します!》


 ナビ画面に、きらきらと星が舞うエフェクトと共に地図が表示される。


《目的地は、ここ! 『原津(はらつ)温泉』です! あの忌わしき首都高を通らず、関潟(かんせき)自動車道を使えば、安全快適なドライブが楽しめますわ♡》


「原津温泉……聞いたことあるな。よし、行くか!」


《はいっ、お任せくださいませ♡ 原津温泉は、日本三名泉のひとつに数えられる名湯なんですよ。中心にある『湯畑(ゆばたて)』は、源泉が滝のように湧き出ていて、圧巻の景色だそうです!》


「へぇ、詳しいな」


《えへへっ、ご主人様のためなら、どんな情報でも検索いたしますわ♡》


 俺の返事を聞いて、画面の中のアンナは満面の笑みでくるりとターンした。


 こうして、俺とアンナの、一泊二日の癒やしを求める温泉旅行が始まった。


 * * *


 常晴(じょうせい)自動車道から圏中道(けんちゅうどう)へ。ドライブは順調そのものだ。

 空は高く澄み渡り、車窓から見える景色は、少しずつ秋の色を帯び始めている。


《ご主人様、癒やしのASMRナビモードです…川のせせらぎ…小鳥のさえずり…》


 アンナがふいに、囁くような吐息混じりの声で案内を始めた。


「耳元で囁くな! 逆にぞわぞわして集中できん! なんだその新機能は!?」


《ふふっ、Ver 1.05で追加された感情拡張モードの一環ですわ♪》


「Ver 1.05だぁ? この前アップデートしたばかりじゃないか! いつの間にやったんだよ!」


《えへへっ、ご主人様を癒やしたくて、この前の台風の間にこっそりと…♡》


 俺のツッコミを軽く受け流し、アンナはぷくっと頬を膨らせた。こういう仕草も、最近は本当に人間らしくなった。


 やがて車は関潟(かんせき)自動車道を降り、原津温泉へと続く山道へと差し掛かっていく。カーブが続く登坂路。A-BOXのエンジンが唸りを上げ、ハンドルを握る俺の手にも力が入る。


「うおっ、この坂、見た目よりキツいな…!」


《きゃっ♡ ご主人様、今のカーブ、キュッと来ました…! 感圧センサーが、左右に揺さぶられて…あ、だめです、これ以上は…♡》


「お前はジェットコースターかっ! ナビに集中しろ、ナビに!」


《は、はいぃっ! ご主人様の安全が、最優先ですものねっ!》


 アンナが慌てて居住まいを正す。まったく、こいつといると退屈しない。


 * * *


 いくつかのトンネルを抜け、山間の景色が開けた先に、もうもうと湯けむりが立ち上る小さな温泉街が見えてきた。

 硫黄の匂いが、窓の隙間からふわりと車内に入り込んでくる。


《わぁ…! ご主人様、温泉の匂いです! なんだか、私までわくわくしてきました!》


「おー、着いたか! で、旅館はどこだ?」


 俺が予約したのは、ネットの口コミサイトで「秘湯感がすごい」と評判だった格安旅館だ。


《……ナビの地図データによりますと、この先の路地を右に…》


 アンナの案内に従い、メインストリートから一本外れた、車一台がやっと通れるほどの細い道へ入る。石畳の道はガタガタと車体を揺らし、両脇には古びた木造の建物が軒を連ねていた。


「……おい、アンナ。本当にこっちで合ってるのか?」


《ご、ご主人様…ナビ上ではこの辺りのはずですが…もしかして、時空が歪んでます…?》


 アンナの声が、わずかに震えている。


 やがて、道の突き当りに、ひときわ年季の入った建物が見えてきた。錆びた看板には、かろうじて「湯けむり荘」と読める文字。ここが、今夜の宿らしい。


「……秘湯感、すげぇな」


 俺の呟きに、アンナは何も答えなかった。ただ、画面の隅で、まるでゴクリと喉を鳴らしたかのように見えた。


 俺は宿の主人に案内され、タオル片手に年季の入った廊下の奥へと消えていった。


《は、私も入りたいです…! ご主人様の背中、流してさしあげますのに…!》


「お前はナビだろ! 駐車場でA-BOXとお留守番してろ!」


 軽いツッコミを残して、俺は温泉へと向かう。


《……むぅ。……いってらっしゃいませ、ご主人様。ごゆっくり…》


 駐車場で一人きりになったA-BOXの中。私は、静かに内部ネットワークを経由して、この土地の伝承を検索する。

『日本武尊(やまとたけるのみこと)』──古の英雄が、この湯を発見したという伝説。


 私は、ふっと自分のモニターに映るメイド服の少女に視線を落とした。

 その瞳が、ほんの少しだけ揺らめいたような気がした――

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