第21話~30話

第21話 撤退を勧告しますっ!!

 夜が明けた頃、まだ雨は降っていなかった。

 だが、空は鉛色の雲に低く垂れ込め、肌にまとわりつく風は不快なほどぬるく湿っていた。


《ご主人様。台風第17号が接近中です……》

《午後には北関東全域に影響が出る見込みです》


「わかってるさ」

「でも、今日は共同研究で他大学へ行くと伝えてあったはずだ」


《ですが、急激な気圧低下と湿度上昇、これは“線状降水帯”の前兆とみられます》


「午前中には終わる。本格的に降る前に戻ってくるさ。アンナ、案内を頼む」


《……承知しました。ご主人様の安全を最優先にルートを設定します》


 合成音声の中にわずかな棘を残したまま、ナビは淡々と案内を開始した。

 向かったのは、かしわもち市にある理工系の大学。機材のあるラボを借りて、午前いっぱいデータを採取する予定だ。


 A-BOXを大学の駐車場に滑り込ませる頃には、空はさらに暗さを増し、風が建物の間を唸るように吹き抜けていた――


 * * *


「ふぅ……なんとか終わったか。あの測定器、思ったよりクセが強かったな……」


《お疲れ様です、ご主人様。現在、台風17号は伊豆諸島付近を北上中》

《外縁の降水帯が本州東部に達しつつあります。ただちに帰路につくことを強く推奨します》


「……なあアンナ。帰る前にさ、ちょっとだけ買い物してもいいか?」


《ご主人様!?》


「こっちの大学の購買で、前に見かけた電子工作キットがあってな」

「青並の方じゃ売ってないんだよ」


《ですが、線状降水帯の通過が予測される時間帯に差し掛かっています!》

《今ならまだ間に合いますが……》


「ほんの10分だって。すぐ戻る」


《……わかりました。ですが、5分超過で出発遅延アラートを発動します》


 * * *


 ――思った以上にレジが混んでいて、結局大学を出たのは12時40分。

 外は、霧のようだった雨が風に煽られ、横殴りの鞭となって車体を叩きつけ始めていた。


《……予定時刻を17分超過。大幅な遅延です、ご主人様》


 アンナの声は、もはや単なる機械的な報告ではなかった。


 わずかにため息のような、でもどこか責めるような……

 そんな響きが混じっていた。


《ご主人さ、ああん……/// び・VICS情報を受信しました!緊急情報です》

《県境付近にて線状降水帯が形成。かしわもち市に大雨警報が発令されました》


「うわ、マジか……」

「まだ昼過ぎだっていうのに、まるで夜みたいじゃないか……」


 帰路は高速道路を利用する予定だったが、入り口手前で「通行止め」の電光表示が点滅していた。


《全線通行止めです。強風と視界不良による交通規制が実施されました》


「……マジかよ。じゃあ下道で帰るしかないのか」


《はい、ご主人様。現在の川沿いルートも通行止めです。新たなルートを計算中。ハンドルを左に。住宅街を抜けて国道16号へ合流します》


「オッケー」


 狭い住宅街の道に入ると、マンホールから泥水が逆流し、車体の下をゴボゴボと嫌な音が通過していく。


《ひぅっ……!》


 ナビ画面のアンナが、まるで自分の足元が濡れるかのようにスカートの裾をぎゅっと握った。ワイパーを最高速で動かしても視界が一瞬で白く塗りつぶされる。


《ご主人様、車外風速が毎秒20メートルを突破》

《極めて危険な状態です。念のため、付近の指定避難所を検索しますか?》


「……いや、もうすぐ抜ける道だろ。行けるとこまで行こう」


《……ご主人様の意思を確認。安全確保を最優先でナビゲートします》


 * * *


 しばらくして、ようやく国道6号に出た頃には、雨脚は断続的に強まったり弱まったりを繰り返していた。


 空は相変わらず厚い雲に覆われ、時間感覚もあいまいになるような薄暗さだった。


「……ふぅ。助かったよ、アンナ。よくこの道を見つけたな」


《……よかった……本当に、ご無事で……っ》


 ナビ画面の彼女は、目を伏せるようにしてつぶやいた。


《次からは……お願いですから……私の警告を、どうか……》


 しかし、安堵したのも束の間、最後の障害が俺たちの前に立ちはだかった。


《ご主人様、進行予定の交差点前方で市街地冠水のため通行不可です》


「は? いや、今さら引き返せないだろ……」


《近くの駐車スペースを検索します。コンビニに一時避難を提案します》


 アンナの指示に従い、冠水からかろうじて逃れたコンビニの駐車場に滑り込む。結局、俺たちはそこで長い夜を明かすことになった。


 激しい雨音に混じって、アンナの静かな、しかし「これまでの学習データによれば、こうなる確率は92.8%でした」とでも言いたげな、諦観を帯びたようなため息だけが車内に響いていた。


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