第14話 声だけが届く場所
翌朝。カーテン越しに差し込む光に、麻生はゆっくりとまぶたを開けた。目を覚ました瞬間、昨日の自分がまだ布団の隅に残っている気がした。
それでも──ほんの少しだけ、今日を信じてみようと思えた。
いつもなら布団にくるまったまま、現実から目をそらしていただろう。なのに今朝は、昨日より心が軽かった。ベッドの縁に腰掛けながら、そっと心に誓った。
「今日も、声で誰かを支えよう。昨日の自分が、そうして救われたように」
ふと、足元にあるスリッパを丁寧にそろえる。誰に見られるわけでもない、たったそれだけの仕草が、不思議と落ち着いた気持ちを運んできた。
準備を終えて家を出た麻生は、出勤途中のバスの窓から空を見上げた。
薄い雲の隙間から射し込む光が、揺れる街路樹の葉を照らしている。朝の風がやさしく頬を撫でた。
バスの中では誰もが静かにスマートフォンを眺めている。麻生も鞄からスマホを取り出し、メモアプリを開いた。
見慣れた文言が、心に染みる。
──「あなたの声を聞いて、涙が出ました。ありがとう」
その下には、新たに届いた一通のレビューがあった。
──「昨日の電話、母がとても喜んでいました。あんなに穏やかな声で話してくれる人は久しぶりだと。ありがとうございました」
その一文に、胸の奥がふっと温かくなる。
「誰かの心に触れる声になりたい」
──かつては遠すぎたその願いが、今では日々の中に確かに息づいている。
昨日、しょんぼりしていた自分の姿がふとよぎる。でも今は、少し誇らしい。ひとつひとつを読み返すたび、麻生の胸にじんわりと温かなものが広がる。
顔が見えないからこそ、声がすべて。
抑揚、息遣い、沈黙の間
──そのすべてが、声という名の手のひらになる。麻生は、それを誰よりも知っていた。
会社に着き、ヘッドセットをつけたとき、麻生は一瞬だけ目を閉じる。
すると、不思議と緊張がすっと解けていく。
コール音が鳴る。画面には「スナッチ対応」と表示されている。麻生はひと呼吸置き、やわらかな声で名乗りを告げた。
――たとえ見た目がどうであろうと。
――たとえ傷つく言葉を受けたとしても。
声だけは、誰にも奪われない。
それが、彼女がこの場所に立ち続ける理由だった。
そして今日もまた、声という灯りを、名前も知らない誰かの胸の奥に、静かに灯していくのだった。
ー第十四話 了ー
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