第13話 鏡の中の赦し
仕事を終え、薄暗い自宅に戻った麻生は、無言のまま部屋の電気をつけた。
ワンルームの室内に白い光が広がり、散らかったままの机や、洗濯カゴからはみ出した制服のシャツが無遠慮に視界へ入ってくる。
そのまま靴も脱がず、玄関の土間にしゃがみ込む。
今日も、よく笑った。よく耐えた。よく隠した。麻生はゆっくりと立ち上がり、壁際の姿見の前に立つ。そこに映る自分の姿は、誰が見ても決して理想的ではなかった。
丸みを帯びた頬、二の腕に張りつく制服の跡、そしてどこか疲れた目元。目線を逸らそうとした、その瞬間。ふと、口元がかすかに笑っていたことに気づく。
「…なんで笑ってるの、私」
ぽつりと漏らした声は、思ったよりも静かだった。だがその声は、確かに今、部屋にいる自分自身のためだけに存在していた。
鏡の中の麻生も、同じようにまばたきをしていた。
その瞬間、ふと記憶の底から浮かんできたのは、昔、母に言われた一言だった。
――「見た目じゃなくて、心の美しさが一番大切なんだから」
あれは、小学校の帰り道で転んで膝を擦りむいたとき。泣きじゃくる自分に向かって、母はやさしく包むように言った。
「どんなに外が汚れていても、心が真っすぐで、誰かを想う気持ちがあるなら、それがあなたの一番の美しさなのよ」
それは、子どものころにはあまりピンと来なかった言葉だった。
けれど今、鏡の前に立ちすくむこの瞬間に、ようやく意味がわかる気がした。
麻生はそっと自分の頬に触れ、まるで他人の顔をなぞるように指を滑らせた。
「あなたは、あなたのままでいいんだよ」
誰に言うでもなく、つぶやいたその言葉に、ほんの少し救われる気がした。
外見は確かに変えられないかもしれない。
けれど、それを受け止める「自分のまなざし」は変えられる。
人が自分を見る目ではなく、自分が自分を見る目。
それが変われば、少しだけ歩く道が軽くなる。
麻生は目を閉じ、深く息を吸った。
そして、再び目を開けると、背筋をゆっくりと伸ばした。
「…声なら、変えられる」
その呟きは、決意というよりも、確信に近かった。
見た目が届かない場所へ、声なら届く。
声は、相手の心の隙間に入り込み、痛みも、喜びも、そっと寄り添うことができる。
自分の声が誰かの心を癒せた瞬間を、麻生は何度も経験してきた。
たとえば、あの日の高齢の女性。孫の誕生日プレゼントに悩んでいた彼女は、電話の終わりにこう言った。
「ありがとう、あなたの声を聞けてよかったわ。まるで孫みたいに思えたの」
たったそれだけの一言で、麻生の心がふわりと浮いた。
顔が見えない分だけ、声に誠意を込める。伝わらない分だけ、想いを濃く届ける。
それが、彼女にとっての誇りであり、唯一無二の武器だった。
麻生はそのまま、スマートフォンを手に取る。
ときどき、電話口で誰かの名字を聞くたびに、自分の旧姓が脳裏をかすめる。
けれどそれも、もう遠い記憶だ。
誰も旧姓を知らない職場。
それが少しだけ、麻生にとって居心地のいい理由でもあった。
ホーム画面に並ぶアプリの中から、迷いなく「メモ」を開く。
そこには、過去に顧客からもらった感謝の言葉がいくつも並んでいた。
──「麻生さんの声で、泣きたくなる夜が少し楽になりました」
──「あなたと話していると、自分も人に優しくなれる気がします」
その一言一言が、麻生の心の支えだ。
誰かの心に残る声になれる。
それが、どれほどの力になるかを、今の麻生は知っている。
そして──だからこそ、鏡の前の自分を、少しだけ赦せる気がした。
ー第十三話 了ー
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