第8話 終わりに手を添える
モニターに表示された「解約処理」ボタン。その横に並ぶ、未発送の化粧水や洗顔料の記録。まるでその人が、まだ生きていて、明日の朝にも同じように鏡の前に立つような情報ばかりだった。
麻生の手が、マウスに伸びる。
「……処理を進めさせていただきますね。今までご利用いただいた記録も、大切に保管させていただきます。何か、お手元に残しておきたい情報があれば、お申しつけください」
「……いえ、もう、大丈夫です。……これで、本当に、お別れですね」
「いえ……奥様との日々は、きっと、消えません。今も、ちゃんと残っていると、私は信じています」
その瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。麻生は、そっとマウスを握り直す。
──けれど、手が震えていた。
カーソルが、解約ボタンの上で揺れる。心が、まだ「終わり」を拒んでいるようだった。
麻生は、目を閉じた。深呼吸に想いを込めて、そっとクリックする
その音は、まるで、見えない花を手向けるような音だった。
業務の完了ではない。ひとつの愛に、深く頭を下げるような所作だった。
「……これで、完了いたしました。おつらい中、ありがとうございました。どうか、お身体ご自愛ください」
「ありがとう……ございます。ほんとうに、助かりました」
回線が切れても、麻生はすぐにヘッドセットを外せなかった。静かな終わり。けれど、たしかに聞こえた。あの呼吸の中に、愛があった。
麻生は、そっと目を閉じた。
──記録には残らない「一秒」が、今も胸の奥で、確かに鳴り続けている。
ー第八話 了ー
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