第9話 名乗りの向こう側
「……では、そちらのダイエットサプリ、初回半額でご案内させていただきますね。三袋をおまとめした定期コースとなります」
麻生の声は、穏やかでありながら確信に満ちていた。
電話の向こうからは、少し迷いがちな女性の声が返ってくる。
「でもねぇ、私、三袋もいるかしら? 一袋で足りる気がするんだけど」
その口調には、不安や遠慮が滲んでいた。
「お声からとてもお元気そうですが、◯◯様のように年齢を重ねても活動的な方ほど、代謝をキープするために、一定期間しっかり続けていただくのがおすすめなんです」
麻生は顧客情報を確認する。「〇〇歳/女性」「注文回数:初回」「お届け先:自宅」──条件は揃っている。あと一押しだけ。
「ふーん……でもね、私そんなに太ってないのよ? 昔はね、ママさんバレーでエースだったんだから」
その声には、わずかな誇りと過去への愛着が込められていた。
「まぁ、素敵です! いまも姿勢がすごくしゃんとしていらっしゃるんじゃないですか?」
「そう言われると悪い気はしないけど……うーん」
笑い声が聞こえたように思えた。だが、麻生の胸には違う感情が波のように押し寄せてきた。
「……ひゅっ……」
胸の奥が、息を詰まらせるようにすぼまっていく──呼吸が浅く、苦しい。
かすかな、擦れるような音が、彼の内側からにじんだ。
咳を噛み殺すように唇を噛みしめた。喉の奥がざらつく。かゆい。えずきそうになる。
机の下でそっと吸入器──メプチンエアーを手に取り、慣れた手つきでキャップを外し、吸入口を唇に当てて、静かに深く吸い込む。
「……シュッ」
一、二、三。呼吸を整えようとしても、声帯がうまく言うことをきかない。
周囲のオペレーターの声が遠く、小さく感じられる。
息を吸うだけで喉がむず痒く、もう一度咳き込みそうになるのを必死でこらえる。
みんな、気づいていないふりをしているのか、それとも本当に気づいていないのか──その狭間で、麻生はただ、誰にも気づかれないよう「業務用の声」を作った。
「……失礼いたしました。お時間をいただき、ありがとうございます」
メプチンエアーには、気道を広げる作用がある。けれど、すぐに楽になるわけではない。次々に込み上げてくるえずきで、目尻にじわりと涙が滲んだ。
念の為に吸入器をもう一度使用した。
一、二、三。
ゆっくりと鼻から息を吐き出したとき、薬剤の独特の揮発した匂いが鼻腔の奥にふわりと広がった。
「……ごほっ、ごほっ」
小さな咳が電話の向こうにも響いた。
「どうかしたの?」──受話器越しに、女性のやわらかな声が麻生に届く。
「お聞き苦しく、申し訳ございません。引き続きご案内いたします。」
ほんの少しだけ背筋を伸ばし、深呼吸をひとつ。喉の奥で声を調整し、震えを抑える。
「失礼いたしました。◯◯様、たしかにお体のラインはとても整っていらっしゃると思いますが、“なんだか昔より減りづらいな”って感じること、ありませんか?」
「なんで分かったの?」
「今のお声から、すごく生活リズムが整っている印象を受けました。でも、昔より“減りづらい”と感じていらっしゃるなら、それは燃焼のサイクルが落ちてきている証拠かもしれません」
「へぇ……ちょっと説得力あるわね、それ」
「ありがとうございます。三袋コースは、そうした“変化”が始まったタイミングで、一番ご実感いただきやすいんです」
「じゃあ……一度、三袋にしてみようかしら。ね、どうせなら、今よりちょっとでもスリムな私を目指してみようかなって」
麻生は微笑んだ。その言葉の中に、ほんの少しだけ光が差し込んだ気がした。
「なんて素敵なお言葉でしょう。はい、それでは定期コースでご案内いたしますね。私たちが責任を持って、しっかりとサポートいたします」
通話終了の音がヘッドセットの向こうで静かに消える。麻生はそっと背もたれに身を預けた。
胸に残るのは、疲労と、それをわずかに上回る安堵だった。
ー第九話 了ー
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます