悩むな乙女、悩めよ野郎
まさか……ね。
わたしが何で?
[未来]
海岸沿いを歩いていると、堤防に長坂がいるのを見つけた。ゴロタ石を越えて波止場の欠けた石段を上ると、長坂は未来が近づいてくるのに気づいて、リズムよく疑似餌を泳がせていた調子を狂わせていた。
「何かキレがないわね」
「今日はな。すがすがしい顔だな」
「そう?わたしはここしばらくおもしろくないことしか起きてないけどね」
「転校生のせいか」
「まさか」
長坂は巻き上げた数グラムのジグヘッドと言われるものを再び投じた。ヒュンと音がして未来には見えないところに落ちて沈んだ。
「海の底に着底させるんや」
「引っかからないの?」
「運。引っかかれば底まではおろさないようにする。てか、ここの底は砂だから」
未来はやってみるかと聞かれたが、首を横に振って断ると、スカートを巻くようにしてクーラーボックスに腰を掛けた。やけに喉が渇いた。脇に置いた鞄からペットボトルのお茶を出して飲んだ。
「生徒会やめるのか」
長坂は竿を手首で軽く動かし、見えないジグを泳がせながら聞いていた。糸から穂先に振動が来るのを感じて釣るらしい。
「釣れたことあるの?」
「あるよ。ま、アジなんていないと釣れないからね。回遊魚だし。さっきエソは釣れた。返したけど。面倒で食えん」
エソは長細い魚で、煮ても焼いても食べられるものの小骨が多すぎて処理しきれない。長坂はエソ狙いの人は見たことがないと言うが、不意に涼子は高野に関西ではエソはいるのか聞きたい気がした。
「急にバカバカしく思えた。大人たちに踊らされてるだけじゃない。どうせ三年しかいないしね。茂部見てて、どうしてこの子がここにいるのか考えたの。世界がゲシュタルト崩壊したみたいな気になった」
「何だ、それ」
長坂はジグを上下に動かして巻き上げて投げてを繰り返した。本気で釣ろうとしているようには見えなかった。昔と変わっていない。たぶん一人潮の音を聞くために来ていて、内向的だった小学生と中学生の頃との違いはないように思えた。
「茂部を庇うような話をしたんだよな。何となくだよ。庇う気もないのに。気づいたら茂部の味方してたんだ。」
「わたしは目の前で見てたから、間違えてもモブのことなんて庇えないな」
未来は突き放した。高野が泣いてでもくれれば、慰めようもあるのに。高校生が殴られて泣きじゃくることもないのかと思いなおした。何かしてやれないかと。どうして自分がごちゃごちゃ考えてるのかわからない。慰めれば済んだ話なのに。
高野は理不尽に耐えた。これでうまく済んでいるうちはいい。未来自身、自分ならどうするか。よくわからない。しかしいずれ近いうち戦わなければならないときが来るしだろうし、高野はどうするんだろう。
「やめようとは思う。いつまで自販機導入問題なんてつまらないことやってるの?」
「俺は爪痕残したくてやってた。でも何か違う気がしてる。高野のせいだ」
「関係ないじゃん」
「わからない」
長坂は遠くの避難タワーを見つめた。学校は津波避難施設に指定されていた。そこに緊急避難的な飲み水がないとなれば問題だ。
「俺は逃げてる気がしてる」
「何から?」
「大人からかな」
「わかんない。帰るわね」
未来は長坂の言う大人から逃げていることを考えた。夕日の中、歩いた。地震が来たら倒れて流されるだろうコイン自動精米機を覗いた。扉の向こうに米ぬかの袋が積まれていたので手でつまむと、後ろに紙きれが落ちていたので写真に撮った。
『ご自由にお持ち帰りください』
持って帰っていいのかと驚き、高野が漬物を漬けている姿を想像しながら帰宅した。スマホで写真を撮ると、さっき交換したばかりのアプリで高野に送った。
「大丈夫?」
文字は送れなかった。
[高野と大人]
帰宅した高野はスマホを出して、未来からの連絡に気づいた。彼女からはよろしくお願いしますと打たれていて、コイン精米機と米ぬかの袋と『ご自由にお持ち帰りください』の水で濡れたシミのある薄汚れた紙きれの写真が送られてきた。同時に里親の住職からの着信もあったので、理由はわかるが、連絡を返した。
「もしもし高野です」
『今さっきまで本多先生が来ててね。だいたいの話は聞いた。今日は泊まらんか?ばあさんが心配してるから顔見せてくれ』
「顔なんて見たら余計心配しますよ。他の子どもたちも。着替えたら行きます」
『迎えに行くよ』
「お願いします」
高野はシャツとデニムに着替えると、泊まるためのものを入れた旅行鞄を開いてみた。改めて顔を見れば、ひどいもんだと呟いた。ただ不思議なことに、施設と家を行き来していた子どもの頃に殴られたときの心細さはない。
「何でやろうか?」
軽トラで迎えに来てくれたので、鞄を抱えて助手席に乗ると、住職は驚いていた。
「ひどくやられたね」
「ひどいですか?」
「ひどい。抵抗したのか?」
「暴力は嫌いですから。抵抗するも何もすぐ済みましたしね。もう少しうまく殴られてたらと思います。殴られ方も忘れるもんですね」
寺は山の中腹にある。両脇を雑木林に囲まれた階段の脇、車も上がれるようにつけられたアスファルトの急な坂を上ると、寺の本堂と釣鐘が見えてきた。同じ敷地に古い平屋の住職の自宅が建てられていた。
住職の奥さんは驚くには驚いたが、里親ともなればいろいろな修羅場も経験していて、帰るに帰れない子どもを警察に迎えに行くと、こんなものでは済まない顔も見ているはずだ。
「ごはんは食べられるの?」
「ちょっと簡単なものでないとムリかもしれません。一口で食べられるもの」
「卵焼きとかおにぎり作るわね」
「すまません」
「風呂にでも入れ」
「いただきます」
古い家をリフォームしてユニットバスを組み込んでいた。住職には詳しくは知らないが子どもがいないらしい。殴られたときの緊張で全身の筋肉がねじ曲げられたように軋んだ。
ハンドタオルを洗面器に浸しておいて、染みるかと思いつつ頭からシャワーを浴びた。意外にそうでもなく、そんなに力一杯殴りたわけでもないなと気づいた。あれが茂部の限界だ。
高野はハンドタオルを覗いて、落ちないなと呟いた。経験上、この染みは落ちない。ろくな経験ではないが。高野は小学生で児童相談所に三ヶ月、民間の保護施設で三年ほど集団生活をして、親の再婚で引き取られた。
半年も経たないうちに実の親と義理の親に殴られ、一年後には通報され、虐待の疑いで児童相談所へ行き、今度こそ改心した母に迎えに来てもらい、また別の同棲相手に殴られて、また通報で施設に入った。
同じことを何度か繰り返していたが、保護施設には空きがなく、ついに和歌山の二藤夫妻が運営する小規模グループホームへと行くことになる。法人施設での集団生活とは違い、そこでは給食や風呂などのルールがなかった。見ず知らずの親戚の家に預けられたようなものだった。はじめは縫製工場の隣の一軒家で夫妻と寝起きを共にしたが、中学に入ると工場の三階に引っ越した。まったくの他人の高野のためにリフォームしてくれたらしかった。
ただ冬は工場独特の鉄骨で寒くて、夏は天井はあるものの板金のせいで、エアコンがなければ干からびていた。遠慮していれば死ぬと思ったのでひとまず節約は忘れることにした。二階は三つの個室と廊下を挟んで、ダイニングキッチンと風呂が組み入れられた。他人の家のユニットバスを使わせてもらうと、去年までのことが遠い昔のように思い浮かんできた。
『誰か来るんですか?』
『双子の子どもが来るんや。小学二年。おまえが勉強教えてやらんといかん』
焼酎の好きな、卵のような形のごま塩頭の二藤の顔が浮かんだ。どうしてこの人は里親などできるのだろうかと考えたが、人が泊まろうが、人に泊められようが気にしていないからだとわかった。人類みな兄弟を地で行く人なんだなと納得した。
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