第15話 お茶で濁せず。水に流せず。煙に巻けない過去 その一
お茶の生産量日本一の座は鹿児島県に移ったものの、それでも静岡県が日本茶の産地であることに変わりはない。
その静岡県の中でも大井川の流域の茶畑の景色は圧巻だ。
隼人とつばめの眼前には、見渡す限り茶畑の濃緑色が広がっている。
これほど広範囲に茶畑が広がっている土地は滅多にお目にかかれない。
この一年、日本全国を旅してきたからこそ隼人は心からそう思っている。
「この茶畑のような、他に無い景色を見ると旅をしているなって気になるな」
「そうだね。……普段見ない物。そこにしかない物を見られるからこそ、旅に出ると新鮮な気持ちになるんだろうね」
旅に出れば社長だろうと。平社員だろうと。何の肩書も役職も無い一人の人間となれる。
そこに普段の人間関係や、仕事の重圧は存在しない。
初めてか。久しぶりの旅の醍醐味を思う様味わう事が出来る。
旅に出た理由も。その期間も。普通とはとても言えないからこそ隼人とつばめは、旅を楽しむ事も忘れない。
添い遂げる事を大黒柱に据えている二人だが、大黒柱だけで家は支えきれない。
他の柱も必要不可欠だ。
その他の柱の一本になるのが、旅を全力で楽しむ気持ちである。
大自然そのものでも。人が作ったものでも、視覚や味覚など。五感を駆使して楽しむを信条にしていた。
「……どうしてこの辺りではここまでお茶の生産が盛んなんだ? 田んぼやお茶以外の畑がさっきから一つも見えん」
加えて知識欲も満たしたいという思いも隼人は人一倍強かった。
それは二人の意思疎通。隼人とつばめの関係の維持と発展にも繋がる上に、隼人の人生を大きく変えておきながら、自分には道案内しか出来ない。
そのような後ろ向きな自己評価をつばめに持たせない為にも隼人は旅先で、積極的に彼女に教えを乞うている。
隼人の役に立っていると思ってもらう事で、明確な存在意義をつばめに与えるのが目的だ。
その意味においては、つばめが最も渡り鳥チャンネルを必要としていると言えた。
「それはね、まずは気候が温暖で日本茶の生産に適している事。そして火山灰質の土壌の為に水はけが良すぎて、水田を作ろうにも水を留めておく事が難しいからだよ」
見渡す限りの茶畑。
目に映る緑色は先ほどから、木々の葉っぱと茶畑以外にない。
日本中どこにでもある筈の水田が、ここではただの一つも見つけられないのは何故かという疑問。
日本有数のお茶どころだからと言われればそれまでだが、日本人の主食を作る為の水田が全くない景色。
他所から来た人間の目にはどこか現実味のない、不思議な光景として映ってしまうのは避けられない。
静岡と鹿児島県以外では、京都の宇治や三重県など。
日本でも限られた土地でしか見られない光景から生じた隼人の問いにつばめは、間を挟む事なくすらすらと説明した。
「いくら水を引いても、その度に水が地面に染み込んで無くなるんじゃ、水田を作るのはそもそも無理だよな。下手すれば土砂災害だ」
「逆に日本茶は、水はけがいい土が適しているという訳」
「なるほど。気候と土壌。二つの好条件があったからこそ静岡が有名な産地になったんだな」
「それ以外にも理由はあるけどね」
静岡が日本でも指折りの日本茶の産地になった理由についてつばめは、気候と土壌以外の要因についても匂わせる。
「他にもあるのか」
「あるよ。ここからは歴史の話になるけどね。まずは江戸時代当時、日本のみならず世界でも有数の人口を誇る都市だった江戸に、最も近い産地だった事。想像でしかないけど、需要は凄く多かったと思う」
「ここは東海道沿いでもあるからな。流通面も良さそうだ」
「うん。それも理由の一つだね」
「一つって言う事は、まだ他の理由があるのか?」
「後は、明治維新で武士制度が廃止されたせいで、食えなくなった元武士の人たちが日本茶の新規農家に転身したのも大きかったと思う」
「明治になって、ここでお茶を作る農家が一気に増えた訳ね……」
「地名が江戸から東京に変わっただけだから、供給過多にはならなかったんじゃないかな? 乾燥させたお茶っ葉は保存も利くし」
相変わらず博識かつ分かりやすい、つばめの説明に隼人は納得する。
カメラの前で解説していないのは残念だが、今後もこの調子でチャンネルを盛り上げていってもらいたい。二人の為に。
隼人は強く思わずにはいられなかった。
赤信号で隼人はバイクを停めた。
濃緑の葉をつけた十何本ものお茶の低木の畝がまっすぐに、同じ方向に伸びている畑に目を向けながら隼人は言った。
「今回は見送るけど、次に来た時は静岡茶の動画を撮ろうぜ」
「うん。次は絶対に撮ろ」
隼人とつばめ。その後ろを走る昴大は、静岡県菊川市にある牧之原台地の茶畑の中を走っていた。
目的は次の蒸気機関車が走るまでの時間潰しと、将来日本茶の動画を撮る機会があった際の勉強を兼ねての寄り道だった。
今は新茶が採れる時期であり、摘み取りに焙煎など。お茶農家が忙しいのは想像に難くない。
想定外の予定変更を逆手に取って、出来る事なら静岡茶の動画を撮りたいと思ったが、いかんせんアポを取るには遅すぎた。
二人で話し合った結果、今回の撮影は見送る結論に達した。
案件があった場合など。将来に繋げる為に、雰囲気を出来るだけ掴む。
常人離れした記憶力のつばめだから可能な芸当だ。
それを主目的に茶畑の中を巡っていた。
「……そうでなくても俺たちの予定は未定だからな。……後は余計な横槍が入らない事を願うばかりだ」
「そうだね……」
隼人とつばめが静岡県内を走っているのは先日、細井我流の手下と思われる人物と遭遇した事が原因だ。
追跡を振り切ったはいいものの、行方をくらます為に、計画と無計画を織り混ぜて走り回った結果の為である。
この先、奴らと遭遇する可能性は常に考えておかなければならない。
どれだけ綿密な計画を立てようと、ちょっとの横槍で瓦解してしまう砂上の楼閣。
今回のような可能性と背中合わせだからこそ二人は、普通の配信者とは違い、軽い考えで契約を結ぶ事が出来ない。
何日も先の予約を立てづらい中に二人は身を置いている。
それは確実に渡り鳥チャンネルの活動に支障を来たしているが、今の二人にはどうする事も出来ないのが現状だった。
「……ま、二人で納得した事の結果だ。出来る事をやるしかない。今日は勉強を兼ねて蒸気機関車に乗るのと、大井川河川敷でのランニングだな」
「……昴大さん。今日は朝から思い詰めた様子だったけど、大丈夫かな?」
つばめが話題を切り替えた事で隼人は、昴大の様子を思い出した。
昴大の故郷である静岡県の浜松市が近づくに比例して、昴大の口数が減っているのは隼人とつばめの思い過ごしではない。
事実、信号待ちの時に話しかけて来るのを昴大は、今日は一度もしてこない。
朝の食欲があった事から、数年ぶりのテント泊という、慣れない環境で寝起きした事だけが要因ではない筈だ。
「……思い当たる節はあるけどな」
「どんな? 差し支えなければ私にも教えてくれない。少しでも昴大さんの役に立ちたいから」
「……先輩の実家は静岡県の浜松。そして先輩と俺が所属していたチームはつくばを本拠地にしていた。先輩が実家に帰る可能性は考えられるけど、それにしては下田にやって来て。今度は御殿場に行かないかと先輩は言った……」
つくばから浜松に行くにあたって、下田に寄り御殿場に至るのは、遠回りも甚だしいのは言うまでもない。
実家に帰る事への大きな迷いが見て取れる行動だ。
「凄い寄り道……昴大さんも実家に帰りたくなかったって事ね。私と同じで」
「……」
つばめが自嘲気味に言った。
軽度の自虐に答える事なく隼人は口を開く。
「それに……先輩にとって重要なレースが今月あるんだ。にも関わらず、俺たちの旅に同行したいと言った」
「……隼人と同じで、昴大さんもレーサーを引退した?」
「その可能性は高いと思う。というか、それしか考えられない。人生が掛かった大事な試合を直前に控えているとして。つばめだったらその前に何日も旅行するか?」
「……私だったら練習するわね。旅行はそれが終わってからにする」
「普通ならそうするよな」
「引退して、実家へ帰る途中だけど、過去にあった何かで昴大さんは実家に帰り辛くなっている……」
「そう考えれば全部の辻褄は合う」
「……昴大さん、これからどうするつもりなんだろう」
後ろを走る昴大を振り返る事なくつばめは、呟くように言った。
隼人もまっすぐ前を見据える。
「分からん。分からんが、俺たちが軽々しく首を突っ込んでいい問題じゃないのだけは確かだ。先輩の人生なんだからな」
「それは分かっているけど……」
どこか納得がいかない口ぶりでつばめは言った。
出来ることなら隼人も昴大の力になりたいと考えているが、下手な手出しは昴大の為にならないばかりか、大きなお世話にしかならない可能性がある。
自分自身で選んで決める。その後は自分の責任において何とかするしかない。
それが人生というものだ。
ものなのだが……
「だからといって先輩の力になれる事ならやるさ。自分が困っている時は助けを求めるが、他人が困っている時は無視をする。そんな卑怯な真似はしたくない」
「うん。それでこそ隼人だよね。私の話を初めて聞いてくれた時みたいに」
昔を思い出したつばめは、この上なく喜んでいる声で言った。
「それに私たちの計画を行う上でも、それだけは絶対にやってはいけない事の一つだから」
雨風に晒されない。望まない現実に二人が追われる事のない、安住の地を得る為の計画。
実現の為には、徳を備えた魅力的な人間でなければ頓挫してしまうだろう。それは火を見るより明らかだ。
とはいえ、計画の実現にはまだクリア出来ていない資格も存在する上に、上手くいく保証はどこにもない。
未来の計画を練るのも大事だが、目の前の仕事を果たすのもまた大事だ。
隼人は腕時計を見た。
次の蒸気機関車が始発駅を出発するまで一時間ほど。
時間の余裕があるとはいえ、油断していては乗れるものも乗れなくなってしまう。
昴大についても心配といえば心配だが、隼人とつばめよりも十歳ほど年上だ。
年下の二人が生意気にも、あれこれ忠告する訳にもいかない。
今は自分たちの仕事を第一に考えよう。
そう心に決めて隼人は、バイクを走らせるのだった。
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