第三十三話 蓮華寺の追体験

 祖母の日記に記された「蓮華寺」という名。それが、楓の弟・竜胆の足跡を辿る唯一の手がかりだった。航、大地、玲奈の三人は、その日のうちに蓮華寺へと向かう準備を整えた。


「電車で数駅行った山間にあるらしいわ。地図を見る限り、かなり古いお寺みたいね」


 玲奈がスマートフォンで調べた情報を航と大地に伝える。その声には、確かな期待と、わずかな緊張が混じっていた。


「やっと、ここまで来たんだな……」


 航は、祖母の日記を握りしめた。母の悲劇、祖母の秘めたる思い、そして楓の長きに渡る苦しみ。その全てが、この寺へと繋がっている。


 翌朝、三人は電車を乗り継ぎ、目的の駅に降り立った。駅舎を出ると、目の前には深い山々が連なり、澄んだ空気が肌を撫でる。地図を頼りに、舗装されていない細い山道をしばらく歩くと、苔むした石段が見えてきた。その先に、古びた山門が静かに佇んでいる。


「ここが……蓮華寺」


 玲奈が、息を呑むように呟いた。山門には、風雨に晒されて色褪せた「蓮華寺」の扁額が掲げられている。周囲は静寂に包まれ、鳥のさえずりだけが響いていた。

 石段を上り、山門をくぐると、境内は手入れが行き届いているものの、時の流れを感じさせる古びた建物が点在していた。本堂らしき建物の前で立ち止まっていると、奥から一人の老人がゆっくりと姿を現した。白髪交じりの頭に、袈裟をまとったその姿は、この寺の住職だろう。

 住職は、三人の見慣れない訪問者に、穏やかな眼差しを向けた。


「いらっしゃい。このような山奥の寺に、何かご用で?」


 住職の声は、静かで、しかし芯のある響きがあった。

 航は、一歩前に出て、深々と頭を下げた。


「突然の訪問、申し訳ありません。実は、ある方を探して、この寺に辿り着きました。竜胆という名前の方なのですが……」


 航が「竜胆」の名を口にすると、住職の表情に微かな変化が表れた。瞳の奥に、何かを思い出すような光が宿る。


「竜胆、ですか……。確かに、かなり昔のことになりますが、そのような名前の者が、この寺に身を寄せていたという記録がございます。しかし、もうずいぶん昔のことで……」


 住職の言葉に、航たちは顔を見合わせた。祖母の日記の記述が、事実だったのだ。


「もしよろしければ、その竜胆さんのことを、もう少し詳しくお聞かせいただけませんか?」


 玲奈が、丁寧に尋ねた。

 住職は、しばらく思案するように目を閉じ、やがてゆっくりと開いた。


「……詳しいことは、私も古い文献で読んだ程度ですが。よろしければ、本堂へどうぞ。仏様の前で、お話しいたしましょう」


 住職は、そう言って本堂の扉を開いた。木造の重厚な扉が、ゆっくりと音を立てて開くと、ひんやりとした空気が流れ出てくる。堂内は薄暗く、正面には荘厳な本尊が鎮座していた。線香の香りが、静かに漂っている。

 航は、本堂の敷居を跨いだ瞬間、全身に電流が走ったような感覚に襲われた。頭の奥がズキリと痛み、視界がぐにゃりと歪む。周囲の空気が、まるで過去の記憶を宿しているかのように、重く、濃密になった。


「航!?」


 玲奈と大地が、異変に気づき、航に駆け寄ろうとする。しかし、航の意識は、すでに現実から乖離し始めていた。


 その時だった。

 薄暗い本堂の奥、本尊の前に、半透明の青年の姿が、ゆっくりと現れた。その青年は、古びた着物をまとい、痩せ細ってはいるが、どこか穏やかな眼差しをしていた。彼の顔は、航の記憶にある楓の面影を宿している。


「竜胆……!」


 航は、確信した。目の前にいるのは、楓の弟、竜胆の幽霊だ。

 航は、引き寄せられるように、その青年に向かって一歩、また一歩と足を進めた。玲奈と大地の声が、遠く、霞んで聞こえる。青年の幽霊は、航の接近を拒むことなく、静かにそこに立っていた。

 航が、青年の目の前に立ったその瞬間、航の視界は完全に過去の光景に切り替わった。

 追体験が、始まった。



 俺(航)の視界に飛び込んできたのは、荒れ果てた山道だった。泥だらけの衣服をまとった俺は、息を切らし、力なく歩いている。顔には絶望が深く刻まれ、その瞳は虚ろだった。村を追われてから、何日も飲まず食わずで彷徨い続けていたのだろう。体は限界を迎え、意識が朦朧としていた。


 やがて、俺は力尽きて、その場に倒れ込んだ。意識が途切れそうになる中、俺の目に映ったのは、古びた山門と、その奥に見える寺の屋根だった。


 どれほどの時間が経っただろうか。次に意識が戻った時、俺は暖かい布団の中にいた。傍らには、穏やかな顔をした老僧が座っている。


「目が覚めたか。無理をするでない」


 老僧は、俺に温かい粥を差し出してくれた。俺は震える手でそれを受け取り、むさぼるように食べた。何日もまともな食事をしていなかったから、我慢できなかった。


 老僧は、俺の身の上を何も聞かず、ただ黙って世話を焼いてくれた。その無償の優しさに、凍てついていた俺の心が、少しずつ溶けていくのを感じた。

数日後、体力が回復した俺は、老僧に深々と頭を下げた。


「ご恩は一生忘れません。この寺で、何かお手伝いできることはございませんか?」


 老僧は、静かに微笑んだ。


「この寺は、常に人手を必要としている。もし、望むのなら、ここに身を置いても良い」


 俺はその言葉に救われた。俺は蓮華寺に身を置き、寺男として働くようになった。掃除、畑仕事、薪割り……。黙々と働く日々の中で、俺の心は少しずつ癒されていった。


 やがて、俺は寺の近くに住む娘と出会った。彼女は、俺の寡黙な優しさと、その瞳の奥に秘められた悲しさに気づき、俺を理解しようと努めてくれた。俺たちはやがて愛し合い、結婚した。


 小さな家を構え、子をなした。子供たちの無邪気な笑顔が、俺の心を温かく満たしていく。俺は、この寺で、穏やかで幸せな家庭を築いた。村を追われたあの日の絶望は、遠い過去の出来事となっていた。

 しかし、どれほど幸せな日々を送っていても、俺の心の奥底には、常に姉さんへの申し訳ないという思いが捨てきれずにいた。


「姉さん……」


 夜更け、眠る家族の傍らで、俺はそっと呟く。その手には、楓の遺品である、カエデをあしらった小さな髪飾りが握られていた。

 村を出る際、楓が身につけていた髪飾りを、俺は密かに持ち出していたのだ。それは、姉さんの面影を宿す、唯一の形見だった。


「姉さん、俺は……幸せに暮らしているよ。でも、姉さんの犠牲の上に、俺の幸せがあると思うと……」


 俺の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。俺は、姉さんの犠牲を無駄にしたくないと願いながらも、自分だけが幸せになったことへの罪悪感を、生涯抱き続けていたのだ。



 追体験は、そこで途切れた。

 航は、激しい頭痛と共に、現実に引き戻された。目の前には、先ほどと同じ、半透明の竜胆の幽霊が立っている。

 竜胆の瞳は、航の瞳の奥を見つめているようだった。そして、彼はゆっくりと、航の胸に手をかざした。

 その瞬間、竜胆の幽霊は、光の塊となって、航の身体の中に吸い込まれていくように見えた。

 航の目からは、とめどなく涙が溢れ出した。それは、竜胆が抱え続けた罪悪感と、姉への深い愛情、そして、彼が手に入れた穏やかな幸せ。その全てが、航の心に流れ込んできたからだった。


「ごめん……。ごめんなさい、楓さん……竜胆さん……」


 言いようのない後悔のような念が、航の心を支配していた。楓は、竜胆が不幸になったと信じ、そのために苦しみ続けていた。しかし、竜胆は、幸せな人生を送りながらも、姉への罪悪感を抱え、その魂は完全に安らぐことができていなかったのだ。二人の魂は、互いを思いやりながらも、すれ違い、苦しみ続けていた。

 航の嗚咽が、静かな本堂に響き渡る。

 玲奈と大地が、心配そうに航に駆け寄る。


「航! 大丈夫!?」

「どうしたんだ、航!?」


 その時、住職が、航たちのただならぬ様子に気づき、静かに問いかけた。


「君たち……。一体、何があったのですか?」


 航は、涙を拭い、住職を見上げた。


「住職さん……。竜胆さんは、幸せに暮らしていました。でも……」


 航は、竜胆が姉への罪悪感を抱き続けていたこと、そして、その手には常に髪飾りが握られていたことを、住職に伝えた。

 住職は、航の言葉を静かに聞いていた。そして、ゆっくりと頷いた。


「……そうでしたか。やはり、そうだったのですね」


 住職は、本尊の脇に目を向けた。


「その髪飾りですが……。竜胆さんが亡くなった後、寺に大切に保管されております。彼が、生涯肌身離さず持っていたものですから……」


 住職の言葉に、航は息を呑んだ。

 竜胆が、生涯手放さなかった、楓の遺品。それが、今もこの寺に残っているというのだ。

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