噓と秘密の告白⑥

 違和感ならあった。


 どんなイジメに遭っていたのか、彼女は微塵も語ろうとしなかった。しかし、辛い過去を話すのは苦しいことだと知っていたので、おかしなこととは思わなかった。


 田中さんたちの行動をよくないことだと理解しているのに、彼女は付き合いをやめようとはしなかった。しかし、過去の経験からスクールカースト下層に行くのが恐ろしいのだろうと考えたので、変なこととは思わなかった。


 露出という行為に後ろめたさを感じずに続け、まるで止めようとはしなかった。しかし、そういうことはままあることだと過去に聞いていたので、止めなければならないこととは思わなかった。


 一つ一つは違和感があっても、言い訳できてしまうもの。だから見えなかった、見ようとしなかった。


 イジメに遭っていたというのに、対人関係に問題があるようには全く見えなかった。イジメで脱がされていたというのに、人前で脱ぐことに抵抗があるようには全く見えなかった。イジメの被害者だったというのに、そんな傷が一つでもあるようには全く見えなかった。


 そう、彼女はあまりにも綺麗過ぎた。


 何か一つくらいは汚されてなければおかしいのに、彼女はまっさらで、綺麗だった。


 虐げられた者には、どこか傷が残るものだ。それは俺自身の経験でも知っているし、優姫という他者を見て知ったものもある。だが、その傷が一つもないのに、どうして俺は何も気付かなかったのだろうか。


 いや、それも違う。傷なら見たんだ。


 俺が妄想して勝手に作り出した傷を、彼女の心に勝手に見出していた。


 見えていなかった。見ようともしなかった。


 早川愛理沙という少女があまりにも綺麗だったから、彼女の全てから目を逸らした。


「……小学校の入学式の日にね」


 綺麗で魅力的だと思っていた唇から言葉が紡がれる。


「一人の女の子を見つけたの」


 淡々と、まるで美しい思い出を語るかのような声は、違和感しかなかった。


「自己紹介のときに緊張しっぱなしで何度も噛んじゃうような子でね。恥ずかしがり屋で大人しくて、でもかわいらしい子だった」


 こちらを真っ直ぐ見て微笑みながら出てくる言葉は、本心から言っているように聞こえる。そう思うのに、そこに歪んだものを見出そうとしてしまう。


「その子が気になったから、仲良くなろうと思って声をかけた。一緒に遊んだり、勉強したりした。そうしているうちにいつの間にか他の子たちも集まって、気が付いたらいつも集まる5人組ができたんだ」


 その中の1人に彼女もいたの、と言う。


 小学校に入った頃からすでに他人との関係を絶っていた――もっと言うならその時期が一番酷かった――俺としては、友達やグループ作りってのはそんなもんなんだなと思うことしかできない。誰かと仲良くしてたら、他の誰かとも仲良くなって、時々喧嘩別れもして、それを繰り返しているうちに気の合う仲間が集まっている。

 多分、最も自然で最も健全な友達の作り方。話を聞く限りでは、そう思うしかなかった。


「……でも、グループができて集まるようになっても、その子はいつもオドオドして大人しかったから」


 不意に、楽しそうな声音が感情の見えないものに変わる。


「みんなで、彼女を弄るようになってきた」


 弄り。仲がいいと思っている相手に、少しちょっかいをかけて嫌がらせをする行為。

 イジメと何が違うのかと言われると、相互認識が合っているかどうかとしか言えない行為。


「始まりは、その子のノートに絵を描くのが上手い子が落書きしたことだったかな。戸惑ってはいたけど、その落書きがかわいかったのもあって怒ってはいなかったし、むしろ喜んでいるように見えた……わたしには、だけどね」


 自信のない言葉尻に、彼女の後悔が滲んでいる。そう思ってしまう。


「……最初は本当にその程度だった。上靴を隠してみたり、机の中に虫のおもちゃを入れてみたり、変な髪形にして遊んでみたり、そんな子供のイタズラ程度のもの。主に弄られていたのはその子だったけど、他の4人が弄られることもあった。だから、たまに怒ることもあったけど、みんな笑い合ってた」


 どこか遠くを見るような目と遥か彼方を懐かしむ声は、少なくとも早川さんにとってその時間が間違いじゃなかったんだと感じてしまう。

 ああきっと、その頃は本当にただの友達同士だったんだ。どこにでもあって平和で退屈な友情の物語。歪んでも捻くれてもいない、真っ直ぐで美しく、輝かしい思い出。


「……だけど」


 彼女は目を伏せて、無機質な音を発する。


「いつの頃からか、みんなで彼女だけを弄るようになってきた」


 そんなものは簡単に壊れると、語り始めた。


「授業が始まる前に教科書を隠されるのも、給食で出た嫌いな食べ物をわざと大盛にされるのも、かくれんぼで鬼になったら置いていかれて一人にされるのも、みんなに無視される役目を押し付けるのも、だんだんその子にしかしなくなっていった」


 一つ一つは大したことのない嫌がらせ。嫌な気分になっても傷つけられても、すぐに瘡蓋になって塞がって、やがて見えなくなってしまうそんな小さな傷。


 けれど、そう見えるだけで決してなくなることはない。治ることと元に戻ることは違う。受けた痛みを忘れることができないのは、生きるのに必要な本能だから、死ぬまで残り続けてしまう。


 その上で治る前の瘡蓋を無理矢理剥がし続ければ、どうなってしまうのかなんて想像するまでもなかった。


「……それでも、始めのうちはまだ笑って許してくれていた。困ったような笑顔だったけど、わたしたちが謝れば『いいよ』って言ってくれた」


 彼女は、すぅ、と息を呑む。


「ある日、みんなでその子の机を落書きしていたら、いきなり泣き出した。わたしはいつものイタズラのつもりだったし、机をかわいくしたいくらいにしか考えてなかったから、なんで泣き出したのかも分からなかった。……今なら自分ばかりそんな目に遭ってたら嫌になるって分かるけど、当時は全然分かってなかったから、泣き出すその子がおかしいとまで考えてた」


 吐き出した理屈は、完全に強者の理屈だった。

 傷つけられたことがないから、傷を傷だと思わないから、自分にとっては傷じゃないから、傷ついた者の気持ちが分からない。


「でも、その子が泣き出したのとさすがに机全部を落書きしたのは度が過ぎちゃってたから、最終的にはみんなで先生に怒られた。怒られて、みんなで謝って終わり。それで仲直りした」


『みんなで』

 嫌な予感がして尋ねるべきか迷うと、それより先に顔を上げて、くすり、と彼女は微笑んだ。


「その子を入れた『みんなで』謝り合ったから、わたしたち4人は『みんな悪かった』って思った」


 ――ああ、やっぱり。


「みんな悪かったんだから、『その子』も悪かった。そんな、間違った答えを得てしまった」


 そこまでの過程は知らないが、彼女が何をしたのかはもう聞かされてるんだから、そんなものは予感ですらなかった。


 ただの『事実』だ。


「だから、今度は見つからないようにしようとした。誰もいないときを狙って、誰もいない場所を探して、何も証拠を残さないように。また、その子だけをターゲットにした」


 子供の浅知恵でできることなんて限られる。本当に誰もいなかったわけでも、何の証拠も残っていないわけがない。そんなことができる子供は未来からやってきていて、きっとこの世界には存在しない。

 でも、大人の浅知恵で招いたことが、大人の目に留まるわけもなかった。

 見ていないのだから、気付くわけもない。


「帰り道でランドセルを全員分、別れるまで毎日のように持たせた。トイレに入ったその子を出てこれないように閉じ込めたりした。彼女の物を勝手に借りて、ボロボロになってから返してた。そうやって、見つからない場所で、見つかっても言い訳できるようにしながら弄りを――」


 そこで突然、ピタッと話すのを止める。不自然のタイミングで中断されて、どうしたのかと思っていると、


「ああ、ダメだ。本当に、わたしは自分に甘い」


 戒めるように独り言を零し、話を再開する。


「――わたしは、イジメを楽しんでた」


 赤い三日月を、皮肉気に浮かべながら。


「見つからないように、バレないようにするのも楽しかった。わたしたちの秘密を共有できてるって思うと、その子が泣いていてもどうしようもない悦びが湧いてくるのを感じてた。見えないように彼女の心を傷つけて、イジメて、歪めていくのを楽しんでいた。泣いてるのに、嫌だって言ってるのに、わたしが楽しんでるんだから、きっと彼女も本当は楽しんでるって、深く考えもせずに」


 秘密の共有。いつか、彼女はそれを好きだと言っていた気がする。

 彼女にとってその子の心や命は、売れなくなったピーチジャムと同じくらいの価値だった。


「……そうやって、ずっと裏でイジメてたら1学期も終わりそうになった……最後のプールの授業」


 彼女は再び、一息だけ深呼吸をする。


「その子はいつも着替えるとき、タオルで全身を隠していた。女の子でそういう子は他にもいたけど、極端に裸を見られるのを気にしてるようだったから、どうしても気になったわたしは」


 三度みたび息を吸い、感情を殺した声を出す。


「その子のタオルを、取ってしまった」


 淡々と、ただ事実をありのままに、語る。


「そうしたら、変なところにホクロがあるのを見つけた。ああ、これを隠したかったんだと思った。でも、タオルを取ったときはそれだけしか考えてなかった。変なところにあるんだなって思っただけで、わたしにとってはいつもの弄り――イジメのつもりもなかったから、特に何かしようとは思っていなかったのに」


 どこかの誰かへ責任を押し付けるかのように、昏い笑みを浮かべて彼女は言う。


「彼女が本気で嫌がって泣きそうになったのを見て覚えた感情を、今でも忘れられない」


 興味というのは薄れていく。関心というのは消えていく。何も刺激がなければ、新しいものへと移ろいゆく。

 小学生ならば尚更だ。きっと時間が経てば、彼女へのイジメという興味も関心もどこかへ去っていっただろう。

 だがそれは、新しい刺激があるなら永遠に同じおもちゃで遊んでいられると言うことでもあって。


「それをもう一度味わいたくて、わたしは誰にも見つからない場所を探し回った」


 そして、そのおもちゃを遊ぶための時間なら、無限に作り出せるのが子供だった。


「かくれんぼで隠れるとき、そういう場所がないか探した。……なかったらよかったのに、見つけてしまった。昔は用務員室に使われていた部屋に隠れていたら、いつも休み時間が終わるまで見つけられなかったから『ここだ』と思ってしまった」


 永遠に遊べて、無限に時間があるなら、


「その場所と、彼女の秘密をみんなに話してしまった」


 誰だって、それが壊れるまで暇潰しをする。


「夏休みの終わり頃、もう宿題を終えていた彼女以外のみんなで集まって、宿題を写すついでに計画を立てた。先生にバレないようにするやり方は大体分かってきてたし、彼女を呼び出す方法もいくつか用意した。上手くいくかなってドキドキしながら、そのときを楽しみに待ってしまった」


 ああ、それはきっと楽しかっただろう。

 俺も楽しかったから、分かってしまった。


「……2学期が始まってすぐ、彼女をその場に連れてきた。あの子も結局、大人しい性格のせいでわたしたち以外の繋がりがなかったから、言うことを聞かないって選択肢がなかったんだろうね。秘密の場所に連れて行ってあげるって言ったら、不思議に思いながらも付いてきた」


 どんなものでもいいから、人との繋がりがなければ生きていけない人はいる。

 それを知識として知っているから、俺は幻想を抱いていた。


「学校の中なのにわたしたち以外には誰もいない、わたしたちだけの秘密基地。大人も子供も見つけられない、わたしたちだけの世界。だから、そのときのわたしはとても楽しくて言ってしまった」


 その弱みにつけ込もうとする気持ちも、分かってしまう。


「『ねえ、みんなにもあのホクロ見せてあげてよ。脱いでくれる?』」


 ずっと淡々と無感情に語っていたのに、聞いたこともないはずのその言葉は、まるで遥か昔に耳にしたことがあるかのように生き生きとしていた。


「その子は当然嫌がった。泣きながら『やめて』って言ってきた。だけど、もうわたしたちは彼女の言うことなんて耳を貸さないようになっていた。無理矢理服を脱がして裸にして、ちゃんとホクロがあるのを見つけたら、みんな喜んでくれた。それが嬉しかった、楽しかった。静かに泣いてる彼女の姿を見るのが楽しくて、何度も何度もやりたいと思ってしまうくらいに、わたしは楽しんでいた」


 その頃にはきっと、もうその子のことなんて見えなくなっていたのだろう。

 声も、涙も、心も、彼女には見えなくなっていた。


「それからは、暇を見つけては彼女をそこに連れて行って、裸にするのが日常になった」


 もう一度大きく息を吸ってから、彼女は語る。


「始めはただ脱がしてるだけでも楽しかったけど、だんだん飽きが来たから色々やり始めた。服を隠して探させたり、部屋から追い出してスリルを味わったり、他にも見つかりにくそうな場所があったら外でも脱がせたりしたかな。……ああ、カメラを買ってもらった子が写真を撮ったりもしてたね」


 もはやそれは、弄りとは決して言えないものになっていた。初めから分かっていたこととはいえ、直接耳にしてしまうと自分が受けた傷でもないのに、心を締め付けられてしまう。


「……そんなことをずっとずっと繰り返して、気付けば1年以上経っていた。飽きもせずに、同じことを繰り返しながら」


 あまりにも長い時間に思わず息を呑む。

 歪み切った関係も、見ようとしなければ何も気にならないのだと、改めて思い知らされる。


「2年生の3学期になって、その子は学校を頻繁に休むようになった。理由は風邪を引いたからって言ってたけど、本当は学校に来るのが嫌になったんだろうね。そのときは素直に信じてたから、風邪が酷くならないようにたまに学校に来ても脱がせるのはやめていた。……笑っちゃうかもだけど、服を脱いだら寒いってことは分かってたんだよね」


 確かに全く笑えなくて、笑える話だ。


「2年生の3学期はずっとそんな感じで過ごして終わったんだ。その子は終業式も休んでたけど、残りのみんなはクラス替えがあっても同じクラスになれればいいねって言い合ってた。……傷つけるだけ傷つけた彼女のことなんか、すっかり忘れて、ね」


 あまりにも身勝手ではあるが、このどうしようもない話の救いは見えてきた。


 クラス替えというイベントは、良くも悪くも人間関係をある程度リセットしてしまう。特に部活なども存在しない小学生のときはそれが顕著だろう。俺が3年生のときに少しだけ積極的になったのも、そうしたリセットを契機にがんばってみようという思いもあったからだ。


 それにそんな頻繁に風邪で休んでいれば、先生方も何が起きてるのか分からなくても察するところはあるはずだ。彼らの大半が事なかれ主義ではあるが、クラス替えというイベントを利用すれば問題児を引き離すことに違和感がなくなる。大人を無条件に信頼できるとは思っていないが、明らかにクラスの人間関係で不登校になってる生徒に目を向けないほど愚かでもないと思っているし、そもそも先生ならばある程度信頼できる条件がある。彼らの仕事は勉強を教えることだけではなく、子供たちの人間関係を管理することも業務の一環だ。担任が気付かなかったとしても他にも先生はいる。全員が見落とすなんてことは、さすがにあり得ないと言った方がいい。


 事実、彼女の話はここで終わりのようで、くるりと向きを変えて窓の方へと歩いていく。そのまま窓ガラスに右手を当て、外の景色を眺め始める。


 いつの間にか陽はだいぶ落ちており、かなり薄暗くて赤い空が広がっている。西日の影響で窓の反射はなく、彼女の表情は伺えない。ただ、ふぅ、という吐息の音だけが聞こえた。


「3年生に進級したら、同じクラスに『その子』がいたんだ」

「……は?」


 予想外のことを言われて、つい声を出してしまった。彼女はこちらを振り向いて、くすり、と笑う。


「ずっと黙ってるから、聞いてないかと思ってた」

「……聞いてるよ。話の腰を折った、悪い」

「大丈夫。今考えるとわたしも不思議に思うし。考えたところで、見えてなかったのか、あえてそうしたのか、それとも他に都合があったのか、結局分からないままだけどね」


 確かに言う通りだ。ここで俺が考えてもどういう思惑があったかなど分からない。俺の考え方が正しいという保証もない。


 ただ事実として、クラス替えではその子は救われなかった、それだけのことだ。


 彼女は再び窓の外へと目を向け、終わるはずだった話の続きを語る。


「……他の友達とはバラバラになったけど、その子と一緒のクラスになれて嬉しかった。あれだけのことをしてきたのに、まだわたしは友達のつもりだったから、教室で彼女を見つけたときに何も考えず声をかけちゃった」


 それに、誰が何をしようとも、一番間違っていたのは彼女なのだから。


「『また同じクラスになれてよかった。これからも一緒に遊ぼうね』」


 その声は、やはり一度も聞いたことがないのに、いつかどこかで聞いたかのような明るさがあった。


「それを聞いたその子がどういう反応をしていたのかは覚えてない。無反応だったのか、愛想笑いだったのか、怖がってたのかも覚えてない。ただ、クラス分けでバラバラになったみんなを集めて、またその子で遊んだときのことは覚えてる。……もう泣いたりもしなかったから、とてもつまらなかったのを覚えてる」


 おそらく、その子も期待していたのだろう。時間が空いたことで彼女たちが飽きるのを、クラス替えで関心がなくなるのを。親か先生かは分からないが、大人に説得されて、きっと3年生からは変わるから、と。

 無責任に与えられた希望を裏切られた絶望は、無関係な俺には想像することすら許されない。


「……つまらなかったけど、彼女とは友達だと思ってたから、それでもまた遊ぼうって言って。3年生になったから、ちょっとわたしたちも大人になって今までの遊びでは満足できなくなったんだとか、そんな馬鹿なことを考えながら眠りについて。次の日、土曜日の朝」


 彼女がこちらを振り向く。逆光に照らされて表情が分からない中、後ろ手を組んで紡ぐ。

 窓の外にあったのは、彼女が見ていたものはなんだったのか、分からないまま。


「マンションの最上階から彼女が飛び降りたって、話を聞いた」


 何も見えていなかった少女は、何も分からないまま、報いの時を迎えてしまった。


「最初に聞いたとき、なんでそんなことになったのか分からないから、何も考えずに彼女のことを心配してしまった。お父さんとお母さんも、ショックを受けてるわたしを励ましてくれていた。……だけど、その子が残した遺書が見つかって、わたしのしたことに気付いた二人は見たこともない顔でわたしのことを怒り始めた。怖かった。本当に怖かった。怖くて泣いていたら、今度は二人が喧嘩を始めた。それを見て、やっと彼女にしたことがとても悪いことだったんだって気付いた。頭おかしいよね。散々イジメて裸にまでさせといて、いけないことをしてるから隠してるんだって分かっておいて、それまで悪いことをしてるなんて全然思ってなかったんだから」


 痛みを受けないと分からない人はいる。傷が見えてから初めて気付く人はいる。

 彼女はそういう人だったという、それだけの話だ。


「それからは何日も家に閉じこもっていた。もうお父さんとお母さんは喧嘩してなかったけど、会うたびにまた怒られるんじゃないかと思って怖かった。たまに知らない大人がやってきて、優しそうな声でわたしのしたことを聞いてくるのが怖かった。自分がこれからどうなってしまうのか分からなくて怖かった。……大人の人が運良く一命を取り留めたって、教えてくれたことだけは救いだった」


 それが本当に救いだったのかは分からないが、彼女にとっては最悪を回避したことだけは確かなのだろう。


「そうして何日も過ごしていたある日、お母さんがわたしを外に連れ出した。怖かったけど、お母さんが大丈夫だって何度も言ったから付いていったら、知らないマンションに連れてこられた。『今日からここで二人で暮らしましょう』って、お母さんはいきなり言い出した。お父さんはどうしたのって聞いたら、『お父さんとは別れて暮らすの』と、そう言ってきた。……それまで喧嘩なんかしたことなかった夫婦なのに、わたしがしたことで離婚までするほど仲が悪くなったんだって思うと、また自分のやったことが怖くなってきた」


 ……その話には違和感があった。

 だけど、何度も見当違いをしてしまっている俺の考えなんて、勘違いの可能性が十分にあるので何も言うべきではないと思った。大体、俺が何か言ったところで、今彼女がどう感じているかの方が全てだ。


「でも、いつまでも怖がってはいられなかった。引っ越しと一緒に転校までしてたから、学校に行かない理由がなくなっていたし、もうこれ以上お母さんに嫌われたくなかった。結局、わたし自身は謝ることも償うこともできないままだったのは心残りだったけど、とにかく今は何も考えずに学校に行ってほしいと言われたら、そうするしかなかった。できるか分からなかったけど、普通に過ごしてみようと思った」


 それは解決策の一つではある。何もかもから遠ざけて、忘れて、まずは落ち着かせてしまう。時間というものは、どれだけ大きな感情も削り取って小さくしてしまう。日常を過ごすうちに勝手に摩耗していくのは、いいものでの悪いものでも等しく起こり得る。

 おそらく、大人の都合でそれ以外の方法を与えられなかった彼女には、始めから選ぶことすらできなかったのだろう。


「……普通に過ごすことはできた。最初はわたしがイジメたことを誰か知ってるんじゃないかって怯えてたけど、何日かしたらそんなことはないってすぐに分かった。ぎこちなかったのも緊張してただけだって受け留められた。気が付けば、前の学校であったことなんてなかったことのように思えてきた」


 選ぶことができなかったからこそ、彼女は無理矢理立ち上がることができた。


「――なかったように思う自分に気付いたとき、わたしのやったことに対する恐怖がまた湧き上がってきた」


 けれど、小さくなって見えなくなったとしても、傷も罪もなくなったわけではない。

 それは彼女の僅かに震える声が証明していた。


「クラスでの立場の弱い子の姿を見て、そこにはいかないように努力している自分がいた。友達と遊んでいても、ふと気が付くと楽しんでいいのかって考えてしまう。あんなことをしておいて、償いもせずに、報いも受けずに、のうのうと生きてていいのかって、時間が経てば経つほど心の中でどんどん大きくなっていった」


 時間によって削り取られ小さくなっていっても、消えてなくなるわけではない。摩耗して感じ取れなくなっても、存在しなくなることはない。

 むしろ、それほどまで削られても残ったものだからこそ、大きな存在感を持ってしまうことだってある。傷も罪も、消えてしまうことはあり得ない。


「耐えきれなくて、一度だけ彼女に謝りたいってお母さんに言ったことがある。でも、『向こうは会いたがっていない』って言われたら、もうどうしようもなかった。変なきっかけで裸にされていたことが広められると困るのも、思い出したくもないからわたしと会いたがらないのも、その頃には正しい理由だって理解できちゃったから、それを言い訳にして結局何もしなかった」


 彼女が何かを選び取れたとしたら、自殺未遂の話を聞いたときに怖がっていないですぐに動くしかなかった。小学生にその判断をしろというのは酷だが、それでもわがままを言うならそこしかなかった。

 そのときに傷をつけられていれば、無意味な罪悪感など抱くこともなかっただろうに。


「何もできず、だけど普通の暮らしを捨てられなくて、それでも何かしないといけないと思うようになって」


 意味のない『衝動』など、抱えずに済んだことだろう。


「いつからか、彼女と同じ目に遭えば――裸になれば、いいんじゃないかって考えるようになってた」


 自らを慰めるだけのあがないに、目を逸らす必要なんてなかった。


「そんなことをして何になるのか分からなかった。普通の生活を捨てることもできなかった。本当にやって誰かに見つかったら終わりだという恐怖も消えなかった。だけど、その衝動はどんどん強くなっていくのも感じていた。一人でいても、誰かと一緒にいても、何もしていない自分を許せない気持ちがくすぶり続けるようになっていた」


 彼女はそこで一息吸う。感情を抑えようとした声を発する。


「何もできないまま、高校生になって……この部屋を見つけた」


 彼女は天井を見上げる。消えたままの電灯が目に入る。


「最初の試験が終わった後、掃除をするために先生に連れてこられたとき、誰にも見つからない場所だってすぐに気付いた。ここならタイミングを選べば、人に見られることなく何かすることができる。誰にも見られずに、彼女と同じになれる」


 気付いてしまえば止まらない。理性で無理矢理抑え込んだ衝動は、何かのきっかけで蓋が外れてしまえばそのまま溢れ続けるしかなくなる。


「念のため何日か様子を見て、思った通りだって確認したら、あとはもうどうしようもなかった」


 ああ、彼女が服を脱ぐ根本だけは、俺は見間違えなかったんだ。


「昼休み、みんなに嘘を吐いて誰もいない図書室にやってきた。いざやるとなったら、やっぱり見つかったらどうしようと怖くなったけど、それでも我慢できなくて自分から服を脱ぎ捨てた。1枚脱ぐたび肌寒さが増していくのに、体はどんどん熱くなっていっているように感じてた」


 してはいけないと分かっている、やめなければならないと思っている、だけど抑え込めない『衝動』だ。


「そうして全部脱いだとき――とても気持ちよかった」


 彼女は子供のときの衝動を、未だに抑えつけられずにいる。


「とてもいけないことをして、人生が終わっていく感覚がして、言葉にできない快感が襲ってきた。繰り返し、繰り返し、何度もここでやってしまった。普通の生活を続けて、本当は終わるつもりなんてないくせに、それでもそのスリルが癖になってしまったんだ」


 彼女は再び窓の外に目を向けて、淡々と感情を見せない声で語る。


「……わたしは露出を趣味にしてしまった。なんでそれを始めようと思ったのか、忘れてなんかいないのに、ね」


 そして、彼女の告白は今度こそ終わる。


 ただ、過去と感情を語るだけの、どうしようもないお話。


 こんな話を聞かされても、俺にはどうしようもない。知ったところで過去は変えられない。傷は消えない。罪は忘れられない。彼女と話したのはこの1ヶ月だけ、何も知らないと突き付けられた上で言えることなど、俺には何一つ存在しない。だから、俺にはどうしようもない話だし、彼女はどうしようもなかった。


 要領は得ず、疑問点はいくつもあり、そもそも本当かどうかも分からない話だ。まだ聞かねばならないことはたくさんあった。だが、見なければならないことは全て話されてしまっている。俺が目を逸らし続けてきたことを見せつけられてしまった。もう、知らなかったことにも見なかったことにもできない。彼女がどうしようもない人間ということを、その罪をなかったことにはできない。


「……なあ」


 だけど、これだけは聞いておきたかった。


 夕暮れの旧校舎の図書室。明かりは灯らず、赤い陽の光だけが彼女の背後の窓から差し込み、遠くから何かの音がかすかに届いているだけで静かな部屋の中、決して大きくはないその声はやけに響いて聞こえた。


「どうして、俺に話したんだ?」


 俺が教えてほしいと言ったから、答えてくれたのは分かっている。


 けれど、それでも話さなくていいという選択肢が彼女にはあった。俺の疑問に正直に答えてやる義理など彼女にはない。黙ったままでも、嘘を吐いてしまっても構わない。いや、始めからこの部屋に俺を呼び出さなければよかったんだ。


 今までと同じように、何もなかったかのように、目を逸らさせてくれればよかった。それでよかったんだ。


 なのに、どうして、見たくもないものを見せつけてくるのか。


 知らなければ、この歪んで捻くれて間違った関係をずっと続けられたのに。きっと彼女も心地よく感じていたこの時間を、守ることができたのに。


「それは……」


 彼女が振り向く。笑ってみせる。


「……なんでだろうね」


 媚びと甘えと賤しさと蔑みと嘲りと欺きと切なさを含んだ、とても醜悪な笑顔だった。


「牧田くんが優しいから、こんなわたしでも甘やかしてくれるかもって、期待してるからかな? それとも、ちゃんと叱ってくれると願ってるからかな? ……こんなことを言っちゃうわたしに、失望してもらいたいからかもね」


 彼女が語る言葉は、どれも本音でどれも嘘だ。どうにかしてほしいけど、どうでもいい感情をぶつけてほしいだけだ。


「牧田くんと過ごした時間は楽しかった。この時間が終わらなければいいのにって、本気で思ってた。わたしの言うことなんてもう信じられないかもしれないけど、嘘じゃないよ。だから、牧田くんが優しくしてくれるのに、もう耐えれなくなったんだ。……こんなことを言えば、牧田くんはまた優しくしてくれるって分かってるのにね」


 そんな言葉は聞きたくない。あんな笑顔は見たくない。


 子供の、小学生の倫理観は育ち切っていないという言い訳で彼女を許すことはできる。だけど、知らなければ自殺するところまで誰かを追い詰めてなんていいわけがない。でも、それは俺には直接関係のないことだ、何かを言うことどころか思うことすら烏滸がましい。だとしても、彼女のしたことを見なかったことにできるほど、人間を捨てることはできなかった。


「わたしって、言わなきゃよかったことでも言っちゃうような、ズルい人間なんだ。牧田くんが優しくする価値なんて、何一つないんだよ」


 ああ、彼女は本当にどっちでもいいんだ。『そんなことないよ』でも『顔も見たくない』でも、どちらを投げかけても満足してしまう。どうせ、彼女の答えは決まっている。


 ただ、自分の醜い獣未満の心から、目を逸らしたい。


 そうできれば、あとはどうでもいいんだ。ずっとずっと、彼女はそうしてきた。立ち向かうなんて下策はしない、逃げるなんて上策を選ぶわけもない。そこにあるものから目を逸らして、自分で自分を許してやりたいだけなんだ。


 そして、そんな彼女の姿から俺は目を逸らしたかった。


 何度も綺麗だと思った。優しくしたつもりも甘やかしたつもりもない、彼女が綺麗だったから目を離せなかっただけだ。だからずっと、誤魔化して、おちゃらけて、繋ぎ留めてきたのに。


 俺が見たかったのは、こんな醜く穢れたものじゃない。


「……早川さん」


 許してやるのも、許さないのも簡単だ。

 俺の気持ちなんて無視して、ただ彼女の望みを叶えてやればいいだけだ。

 だから、俺は――



「俺も、一つ嘘を吐いてた」



 ――許さない。

 目を逸らすことを許さない。


「……牧田くん?」


 陽が沈み、逆光が弱くなって、彼女の表情が見えやすくなった。

 何の回答にもなっていない言葉を聞いて、愛らしくて大きな瞳を丸くしているのがよく見えた。


「早川さんに俺の秘密を教えろって言われたとき、嘘を吐いたんだ」


 その大きな瞳に見せつけてやる。


「最初から、話したくない秘密はずっと隠していた」


 目を逸らすことは、もう許さない。


「……嘘、って……でも、あのときは優姫ちゃんが」


 戸惑いと焦りの混じった声が漏れてくる。当然の反応だ。あのとき、一緒にいた優姫がわざわざ俺の股間を触らせようとしてきていた。結局は未遂に終わったが、本当に触られていたら一発でバレる嘘なんか吐くわけがない。


「EDなのは噓じゃない。あのときの優姫の行動はハッタリでもなんでもない、早川さんの裸を見ても勃ったことなんか一度もない」


 だから、それは否定する。嘘ではないと答えてやる。


「じゃあ、虐待の方? だけど、それも今日……」

「そっちも嘘じゃない。本当に俺は、親から乱交を見せつけられたのが原因で勃起不全になってる」


 それもまた嘘ではない。過去にそんな目に遭ってしまったのは、むしろ嘘であってほしいと願うくらいの出来事だ。教師陣も知っているし、多分早川さんも今日実際に聞かされたんだろう。


 だが、それは根本的な間違いがあった。


「……それらの話は知られたくなくても、知られて困る話じゃないんだ」


 思わず『知ってる人は知ってること』と零したとき、指摘されるんじゃないかと少し焦っていた。だが、彼女の反応を見て気にしていなさそうだと分かったら、上手いこと誤魔化せると思って何も言わなかった。実際、知られないなら知られない方がいいのは嘘でも間違いでもないから、あのときの彼女の要望自体は満たしていたと言っていいだろう。


「……だったら、牧田くんの嘘って、なに?」


 早川さんの戸惑いは大きくなるばかりだ。あれ以上に隠したい秘密なんて、碌なものじゃないってこと以外は分からないと自分でも思っている。

 彼女のときと同じようにクイズにでもしてこの時間を引き延ばしてやってもいいのだが、俺は優しくも甘くもないので素直に答えてしまうことにした。


「……がいるんだ」


 何の、という疑問の声は聞こえなかった。

 俺が聞き逃しただけなのか、それとも言葉を発することができなかったのかは分からない。


「俺は、たった一人の女の子にだけ、勃起することができる」


 誰に、という声を今度は出すこともできなかったのが見えた。

 俺の人間関係の狭さを見てしまった後で、自分がその対象じゃないと聞いていたら、答えなんて言わなくても理解するしかなくなってしまう。


「優姫にだけ、欲情することができる」


 それが見えていても言葉にする。

 夕闇の図書室の中、隠さなければならない禁忌を見せつける。


「――妹に、性処理をさせている」


 夜闇よりも暗くて黒い、俺の情欲を曝け出した。

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