噓と秘密の告白⑤
揉め事を起こした俺たちだが、教師陣への詳しい話は中間試験前ということも考慮されて放課後にすることになった。平時なら主な人間だけでも連れ出していただろうけど、さすがに試験前でそんなことをするのは難しかったらしい。何よりも学業を優先する体制の是非はともかく、俺としてはありがたい話だったので文句はない。放課後までこの揉め事の区切りが付かないと分かったためか、俺と早川さんの関係について聞いてくる人が誰もいなかったからだ。おかげであんなことがあったにもかかわらず、俺自身は快適に授業を受けることさえできた。
もっとも、せっかく授業を優先してもらえたのに、全員がそれを活かせているかは見ている限りだと割と疑問だった。田中さんは見る影もない様子で落ち込んでるし、黒磯さんは「やべー」と何度も口にしていたし、早川さんもどこか思い詰めた表情をしていた。他のクラスメイトも色々気になっているようで視線を向けられることも多く、いつもと同じ調子だったのは白石さんくらいだ。
この人も当事者のはずなんだけどな……と、自分のことを棚に上げながら、真面目に最後まで授業を受けていたら放課後になる。
こういう揉め事での呼び出しがあったとき、全員から話を聞いて最終的に誰が悪かろうとお互いに謝らせるという、よく言えばお互いの気持ちを汲み取った、悪く言えば罪の軽重を無視する解決策を取らされるものだが、今回俺は1人で呼び出されていた。理由はまあ、俺の事情に踏み込み過ぎたものだからだろう。その配慮はとてもありがたかったし、これなら怒られるとしても強い言葉を使ったことくらい、むしろ全く不純じゃない異性交遊をしていると褒められてもいいくらいだと思っていた。
「分かる……先生も分かるぞ。一時期先生もな、元気がなくなってしまった時期があるんだ」
……そう思っていたのだが、なぜか生徒指導の松井先生に勃起不全のことを同情されてしまった。しかも自身の経験を交えながらだ。あの、僕は最初から勃たないって言ってるんで、後から一時期的に勃たなくなったことを話されても困るんですけど。そのせいで奥様と気まずくなったとか言われても、更にはいい医者を紹介されてもどうしようもないんですけど。完治したのはめでたいし、医者を紹介してくれたのは親切心だろうから礼は言っておくが、ちゃんと病院には定期的に行っているので必要ないです。
こういうのは適当に話を合わせて聞き流すのが一番早いのでそうしておいたのだが、それでも1時間以上話を聞かされてからようやく解放される有様だった。もしかしたら生徒指導にもノルマというのがあって、一定時間は必ず何か言わないとダメなのかな……なんて考えながら、荷物を取りに教室に戻るとすでに5時を過ぎている。こんな時間まで学校に残るのは、去年文化祭の準備をしていたとき以来じゃないだろうか。
色々と俺たちの話に興味がある人は多いだろうが、いつ終わるかも分からないものを待つほどの暇人はおらず、俺自身に待ってくれる友達がいないので教室には誰もいなかった。日もだいぶ長くなってきたが、それでもこのくらいの時間になると夕陽といってもいい赤い光が窓から差し込んでいる。その中を歩いて自分の席に向かいカバンに荷物を放り込む。先に帰る準備してから話を聞きに行った方が効率よかったなと、今更になって気付いた。
大した荷物もないので10秒もしないうちに帰宅の準備は終わり、そのまま真っすぐ家路に就く――わけにはいかない。ポケットからスマホを取り出してFINEの通知を確認すると、2件のメッセージが届いているのが見えた。
『終わったら、いつもの場所に来てください』
『まだ時間かかりそう?』
俺のFINEを知っている人間は爺ちゃんと婆ちゃんとバイト先の何名かを除くと二人しかおらず、予想通りその二人、早川さんと優姫からのメッセージだった。
どちらも要件は大体分かっている。優姫は俺が呼び出されたのをどこかで聞いたらしく、こっちから帰りが遅くなるかもという連絡をする前にFINEを送ってきていた。それに対する返信はしていたが、思ったより時間がかかっているのが気になってまた送ってきたのだろう。
妹のためならばすぐにでも家に帰りたいところだが、早川さんからのメッセージがあるのでそうはいかない。おそらく、今後の口裏合わせのための話し合いを目的とした呼び出しのはずだ。今日はなんとかなったものの、明日の朝からもっと突っ込んだことを聞かれるのは間違いない。繋がりがあることはバレてしまったので通話でも問題ないけど、事情をすでに知っている優姫と二人暮らしの俺と違って、早川さんの家には何も知らないであろう彼女の母親もいる。バレないように話すのも面倒だろうし、かといって外で通話し続けるのも問題がある。あの場所で話すのが一番都合もよさそうだ。
とりあえずメッセージの到着順に返信することにし、まずは早川さんに『今終わったから、すぐに向かうよ』と送る。歩きながら今度は優姫に向かって『終わったけど、ちょっと早川さんと話をしてくる。決まったことは優姫にも話すから』と送った。どの程度まで優姫が事情を把握してるのか知らないが、あいつなら上手いこと察してくれるだろ、多分。
例の図書室までの道を1階の渡り廊下から行くルートしか知らないので、3階から一度1階まで下りて渡り廊下を通る。面倒くさすぎるが、慣れない道を通って迷う方が面倒なので我慢だ。
旧校舎の1階はこの時間にもかかわらず明かりがついており、人の話し声が聞こえる部屋がいくつかあった。漏れ聞こえてくる会話を聞いていると、どうやらどこかの部活の部室のようで、そこで勉強しているようだ。旧校舎は部活に使われることもあるのだと、1ヶ月近く足を運んで初めて知った。
まあ、せっかくある建物を有効活用するのは当然だよなと思いながら階段を上ると、2階からは人の気配を感じない静寂に包まれた薄暗い廊下がずっと続いているだけだった。もうちょっと有効活用しようとしてもいいんじゃないかな……
とはいえ、誰にも見つからないならそっちの方が都合いいのも事実なので、俺も特に何も言わずにいつもの道を歩いていく。
「……牧田くん」
旧校舎の長い廊下を抜けると、そこには夕陽に照らされた少女がいた。
少しウェーブのかかった濡羽色のツーサイドアップ、少女らしい丸みを残す綺麗でかわいらしい輪郭、その顔立ちを活かすように美しく彩られたメイクは、この場所で何度も見てきた早川愛理沙のものだ。
ただ、いつもと違う箇所が二つある。一つ目はなんと、早川さんが制服姿なのだ。ここで会うときの彼女はいつも服を脱いでいたし、脱いでなくても脱ぎだしていた。それが常なのはどうなんだと思わなくもないが、今回はちゃんと服を着てくれと言わなくて済んだのはよかったことだろう。
もう一つは、いつもは気の強そうだけど大きくてかわいらしい瞳が、今日はまるで影のような物憂げな色を帯びていたことだった。昼休みの終わりごろから微妙に様子が変だが、起きたことを考えると普通の態度である方がおかしいので、気にしすぎないようにした方がいいか。
「ごめん、待たせた。ちょっと先生の話が長引いちゃってさ」
いつも座っている椅子に腰を下ろしていた彼女を見て、俺も扉を閉めていつものところに向かおうとする。どれだけ話し合うかは分からないが、最終下校時刻である7時まで話すなんてことはないだろう。とはいえ、決めなければいけないことは色々あるのだから、短時間に終わる話でもないはずだ。腰を据えて話し合うのが当然だと思っていた。
だが、俺が足を運ぶより先に彼女は立ち上がってこちらへと歩いてきた。なんだろうと思いつつも、いつもの長机の手前、受付カウンターらしきところの前で止まる。彼女は俺から三歩ほど離れた場所まで来ると、いきなり長い髪がぶわっと浮き上がるのも気にせず勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい」
唐突に謝罪されてしまい、ポカンと間抜け面を晒してしまう。いや、面ではなく実際に間抜けだった。なにせ、何を謝られているのかさっぱり分からなかったのだから。
「……えーっと、悪い。何を謝られてるのかさっぱり分からないんだけど」
間抜け過ぎたので分からないということを直球で聞いてしまった。察しの悪い男で申し訳ない。
「……わたしを庇って、牧田くんが自分の秘密を話すことになってしまったから」
体は起こしたものの顔は俯けたまま、早川さんは抑揚のない声で答えてくれた。それを聞いて俺は「あー……」と気まずい声を出してしまう。
「まあ、俺が自分から言ったことなんだし、早川さんは気にしないでいいよ。誰が悪いかって話なら俺が悪いって話だ」
言ってはみるものの、全く気にしないのも難しいだろうなと感じてはいる。互いに弱みを握り合っている関係なのに、相手のことを守るために自分の弱みを暴露するとか、少なくとも俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。同時に、こちらの弱みを握っている意味がなくなってしまっているから、いつ自分の弱みをバラされるか分からないという怖さもあるだろう。
「でも、牧田くんがこのことを隠したがってたのって、馬鹿にされたり同情されたりするのが嫌だったからじゃ……」
「そうだけど、幸いにも馬鹿にする方は黒磯さんのおかげで表立ってはできないだろ。裏で言われる分には好きにさせていればいいさ」
これからクラスでの立場がどのように変化するかは分からないが、部活ではちゃんと好かれているらしい黒磯さんはカースト上位に君臨したままだと思う。彼女が俺を馬鹿にすることを許さないと言ったのだから、下々の者はそれに従うしかないのは、今まで田中さんが我が物顔をしてきたという事実で証明されていた。
もちろん、それと同じように裏では好き勝手言われるかもしれないが、聞こえないところで話す分にはどうこう言う方が野暮ってものだ。俺だって、愚痴や文句を裏で零したりする。他人のそうした行動を咎めるほどできた人間ではない。
「だから、俺のことは大丈夫。それより早川さんの方は? 俺より早く終わったみたいだから、そんな深いこと突っ込んで聞かれたわけじゃないだろうけど――」
「……どうして」
質問を途中で遮られる。彼女は俯けていた顔を上げ、こちらを見上げた。
「牧田くんはどうして、そこまでしてくれるの?」
彼女からの問いに、声を詰まらせる。
「カレシだと名乗ってくれたのは分かるよ、牧田くんが好きなタイミングでいいって言ったのも覚えてる。それは約束だから守っただけだって、わたしにだって分かる。けど、どうして自分の知られたくない秘密を話してまで、わたしを守ろうとしてくれるの?」
早川さんは目を逸らさずに一歩踏み込みながら、どこか思い詰めた表情で尋ねてくる。少し距離が近づいたことで薄い桃の香りが鼻を掠める。それと同時に、何か違和感があることに気付いた。
「……それだけじゃない。ゴールデンウィークのときも協力するだけじゃなくて、わたしが危ない目に遭いかけたと思って駆け付けてくれた。わたし、牧田くんに何かを与えたわけじゃないから、そんなに優しくされる理由なんてないのに。……ねえ、どうして?」
その違和感が何か分かる前に、矢継ぎ早に質問を重ねられる。考える暇など与えないかのように。
「別に誰かを助けたり、優しくしたりするのに理由なんていらないだろ。こう見えて割と人助けは割と好きな方でね、電車で席を譲ったり落とし物をちゃんと交番に届けたりするぜ」
なんとなく素直に答えるのが恥ずかしくて、目を逸らしながらそんなことを口にしてみた。これで納得してくれれば話は簡単だったんだが、さすがに噓っぽすぎたか、早川さんは表情を変えずにこちらを見たままだ。電車で席を譲るのも、落とし物を交番に届けるのも嘘じゃないんだけどなぁ。
「……結構気に入ってるんだよ、この関係」
どうにも正直に答えないと話が進まなさそうなので、今度はちゃんと彼女を見ながら口を開いた。
「変な関係だってのは分かってる。けどさ、お互いの秘密を知ってるせいか、気兼ねなく話せるから居心地がいいっていうか。こんな関係初めてで、俺もよく分からないんだけど……それだけで、早川さんの言う何かはもう受け取ってる、というか」
こういうことはどうにも言葉にするのが気恥ずかしくて頬をかく。心の中にある想いを真っ直ぐ形にするのは、こんなにも難しいのかと思い知らされる。そもそも、本当にこれが自分の本心なのかも分からない。
「……とにかく、早川さんに嫌な思いをしてほしくないんだ。そのためなら、まあ、ちょっとしたことなら我慢できる。それだけだよ」
それでも、素直な気持ちは意外なほどあっさりと言葉にできた。
彼女の過去の一端を触れた故に出た同情とか憐れみがないとは言わない。ただ、おそらくそれだけではない情があるのも感じる。それを友情と呼ぶのか愛情と呼ぶのか、はたまた他の何かを勘違いしているだけなのかまでは分からない。
分からなくても、俺がこうしたいと思ったことは嘘でも間違いでもない。
だから俺は目を逸らさずに、彼女のことを真っ直ぐに見ながら言葉にできたんだ。
「……そっか」
それを受けて、彼女は再び俯いて黙り込んでしまう。
……うーん、なんかすごくかっこつけすぎた気がしてきたぞ。これは俺が恥ずかしいことを言ってしまったせいで、彼女まで恥ずかしくなってきたやつじゃないだろうか。ほら、共感性羞恥心ってやつ? そういうのがあるって優姫に聞いたことあるし。あと単純に、『なんか変なやつがかっこつけてきたんだけど(笑)』って感じで笑いを堪えてるだけの可能性もある。というか、それが本命だな。
「あー……そ、それより、今後のことを話し合おう。ほら、俺たち偽の恋人関係なのに何も設定考えてなかったからさ。ちゃんと決めとかないと、明日から大変なことになりかねないよ」
けふん、と誤魔化すように咳払いをして、改めて長机の方に向かう。最終下校時刻まで時間があるとはいえ、そこまで話を長引かせたくないし、時間は有限だ。話の続きがあるにしても、当初の目的を達してからで問題ないだろう。
そう思って椅子を引いたところで早川さんがやってきていないことに気付き、先程までいた受付の方へと振り向く。彼女は俯いたままで、背中の中程まで伸びている黒髪が横顔にかかり表情が伺えなかった。
「……いいよ」
不意に聞こえた、とても小さな声。酷く冷たいその音に対して、思わず「え」と口に出してしまっていた。
「もう、いいよ」
今度はこちらにもちゃんと聞こえるように、けれど先程よりも更に冷たく抑揚のない声で告げる。
『もういいよ』
何に対して言っているのか、分からない。理解しているのに、分からない。そんなことを言う理由がないから、分からない。
俺の口から「何が?」という声が出たのかどうかすら、分からなかった。
「……わたしの秘密も偽のカレシも。守らなくても、もういいよ」
けれどきっと、彼女は聞こえていても聞こえなくても変わらず同じ言葉を口にしただろう。
酷く弱々しくてちっぽけな声なのに、はっきりと俺の耳にそれは届いてしまった。
この関係はもう終わり、と。
「……なんでだよっ」
理解できずに固まる思考とは対照的に、体は反射的に大きな声を出して彼女の下へと駆け寄ってしまっていた。先程と同じ、三歩ほど離れた距離へ。
「ここで早川さんの秘密も話しちゃったら、今日やってきたことが無駄になるだろ? 俺の秘密を無意味にバラしただけになる、そんなのただ損しただけじゃないかっ」
彼女が言いたいことはそうではないとなんとなく分かっていながら、しかし他に言うことも思いつかず無意味な正論しか口にすることができなかった。
そんなこと、俺より頭のいい彼女が理解していないわけがないと知りながら。
「……そうだね、ゴメン」
そう謝る早川さんは、顔も俯けたまま体すらこちらに向けず、髪をかき上げた。
「でも、これ以上はいいの」
そのとき、先程感じた違和感の正体がようやく分かる。
「これ以上、優しくされて甘やかされたら、牧田くんをもっと傷つけることになるから」
ちらりと、こちらに顔だけ向けてくる。まるで別人かと見紛う、光のない瞳が見つめてくる。
「わたしのためにそこまでしてくれるのは嬉しい。でも、それで牧田くんが傷つくなら、そんな関係は間違ってると思うから。だから、これ以上は何もしなくていい」
けれど俺はその救いを懇願するかのような瞳ではなく、彼女の耳へと目を向けてしまった。
西日に照らされたそれは赤く染まり、しかし、それだけしかない。
あれからずっと、そこにはあったはずなのに。
「わたしは、牧田くんにそこまで優しくされる資格なんて、ないから」
――いつもそこにあったはずの、ダークブルーとゴールドの光がなかった。
「……どういう意味だよ」
腑に落ちないことが多すぎて、そのままの気持ちが思わず零れてしまう。
「言っている意味が分からない。資格ってなんの話だ? それに、俺は甘やかしてるつもりなんてない。したいことをしてるだけだ」
これと似た雰囲気はゴールデンウィークの最後にもあった。
あのとき、彼女が一歩距離を離そうとしているように感じて、どうにか誤魔化して繋ぎ留めた。優しく触れるのも壊れそうで怖いから、決して踏み込んで近付かないように、でも傍にいてほしくて、それらしい理由を取って付けて語った。
「早川さんがそれに対してどう感じるかはまた別の話だっていうのは分かってる。でも、俺はそんなこと気にしてもいない。嘘なんか一つもない、紛れもなく俺の本音だ」
けれど今回は一歩離れるどころじゃなくて、ここから消え去ってしまいそうだったから。
俺が何もしなくても、彼女は自分の秘密と嘘の関係を勝手に清算するだろうと直感してしまったから。
誰かの心に踏み込む勇気も資格もないくせに、追い縋るためだけに踏み込んだ。
「だから、なんでそんなこと言うのか……教えてほしい」
――触れれば壊れてしまうと、分かっていたくせに。
「……本当に、知りたいの?」
まるで、その言葉を待っていたかのように。
彼女は体ごとこちらに向き直り、見上げてくる。
「本当に?」
一歩、踏み込んでくる。
夕陽よりも、赤よりも、赤い、赤を歪めて。
「……っ、あ、ああ……」
気圧されて一歩後ずさる。自分から踏み込んだくせに、距離を取ろうとする。
何の光も映り込んでいない瞳と、血のように赤い唇から零れ落ちた言葉が怖くて、思わず目を逸らしたくなってしまった。
「……教えてくれ」
それでも、触れてしまったからには彼女の言葉を聞かなきゃいけない。
触れてはいけないものに触れてしまって、そしてそれを壊してしまったのなら、全ての責任はその愚かな人間にこそあるのだから。
「……分かった」
生気のない瞳も歪んだ赤い唇も引っ込めて、早川さんは、ふぅ、と息を吐く。
その音は、どこか安心したかのようにも、全てを諦めてしまったかのようにも聞こえた。
「わたしね」
いつもの調子で話そうとした早川さんは、そこで一度息を吸う。そのまま、二度、三度と深呼吸をするかのように繰り返す。気持ちを落ち着けるように、何度も、何度も。
話そうと覚悟したのはいいけれど、それでもまだ口にするのを躊躇っている。それはつまり、知られずに関係が終わるのなら、その方がいい話だということだ。
……話したがっていないことを無理に聞かない方がいいんじゃないか。
そんな理由が――いや、言い訳が頭の中を掠めてくる。自分から聞きたいと願っておきながら、まだ戻れるんじゃないかと、未練がましく誤魔化してしまおうかと考えてしまう。
なんでもいい、何かきっかけがあれば。
それを合図に誤魔化せる。話を無理矢理変えることができる。そうだ、チャイムの音なんかがいいんじゃないだろうか。最終下校時刻まで定期的に鳴るはずだ。今が何時だか分からないけど、最後に聞いたのは結構前になる。きっとそう遠くない時間に、この部屋を満たすようにその音は鳴り響く。そうすれば時間がないからと言って、明日からまた嘘の関係を続けるために話を合わせなきゃいけなくなる。そうならなきゃおかしい。だから、早く、もうなんでもいいから、何か、理由をくれ。
そんな願いは、ただ願うだけのそれは、僅かばかりの時間を稼ぐことすらできず。
チャイムの音が鳴り響くより先に、彼女の声がこの部屋の中を静かに満たした。
「――わたしね、牧田くんに嘘を吐いてたの」
一際大きく息を吸い込んでから吐き出された言葉は、意外なほど軽い音色をしていた。
「……嘘、って」
そんなもの、大小問わずに誰だって吐いてるものだろう?
また目を逸らして一般論に逃げようとなるのを堪える。もう逃げるためのきっかけはやってこない。あとは早川さんの言うことが、馬鹿にして笑い飛ばせるようなものであることを祈るだけだ。
「……それだけじゃ、何も分からない」
とはいえ、その一般論もあながち的外れではない。誰もが嘘を吐いているからこそ、ただ嘘を吐いていると言われたところで情報が増えるわけもなかった。俺だって、早川さんに嘘を吐いていることがある。そのこと自体に罪悪感があろうとも、こんな空気の中で言うことではないはずだ。
「……じゃあ、ちょっとクイズにでもしようか?」
けれど、早川さんはそんな空気をあえて読まないように、楽しそうにそんなことを言った。
「わたしの嘘、なんだと思う?」
あの心地のいい時間を錯覚させる。いつものように笑う早川さんの姿を見て、張り詰めていたものが緩んでいく。
「ノーヒントでそんなこと言われてもな……思い当たることが多すぎて絞り切れないよ」
「なにそれ。やっぱりわたしって、信頼されてなかったんだね」
「いや、むしろこの手のことは信頼してた方だけど……」
早川さんがアドリブ苦手なんて、とっくの昔に知っている。咄嗟の判断ができないということは、そのまま咄嗟の嘘が吐けないということになるわけで、逆説的に彼女は基本正直者ということになるわけだった。
「ま、なんでもいいや。最初くらいは、当てずっぽうでもいいから自分で考えてみよう?」
そう言われてしまっては、とりあえず何か答えを出さないとヒントももらえなさそうだ。適当に考えてみようか。
早川さんは咄嗟の嘘が苦手だが、別に嘘を吐かないわけではない。そもそも俺たちの関係が嘘の恋人同士というものだ。事前に準備していれば、それに合わせて嘘を吐くということはできる。つまり、今彼女が言っている嘘というのも事前に準備してから吐いてきているはずだった。
……それが分かったところで、あまり手掛かりは増えてない気がする。ただ、そう考えると不自然な態度をしていたところよりも、割と自然な話の方が怪しいのではないか。他に何も思いつかないし、そういったところから考えると――
「……本当はちゃんとカレシがいたりした?」
俺たちの間で交わした会話の中で、一番事前準備をしっかりしていたのはこの偽恋人の話だ。しっかりしていた割には付き合い始めた時期すら決めていなかったが、元々偽カレシの件は早川さん一人で考えていた話でもある。色々と都合が変わったので俺と協力するようになっただけで、別に単独でも事に当たるつもりだったはずだ。
適当過ぎる推理だが、現状だとこれが一番正解に近い気がする。そう思いながら言ってみたのだが。
「ハズレ。なに、わたしにカレシいてほしかったの?」
ふふっ、と上品に笑われて、なんだか恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「別にどうでもいいよ。早川さんが嘘を吐けそうなことを考えたら、それしか思いつかなかったんだ」
「ふーん? ま、そういうことにしておいてあげる。ちなみに、前に言ったように一度も付き合ったことはないからね?」
そんなことを聞かされてどうしろというのか。ため息を吐くことしかできない。
「とりあえず、答えたからヒントをくれ。いくらなんでも難しすぎる」
両手を上げて降参のポーズをする。正直この問題、たまに優姫がやってくる「私がなんで怒ってるのか分かる?」ゲームに似ていてまともに付き合っていられない。なお、そっちの答えは大体の場合が優姫の分の料理も食べたからだ。お皿は人数分用意してるんだから、めんどくさがって大皿にまとめずにちゃんと取り分けておいてほしい。
「しょうがないなぁ。じゃあ、ヒントね」
早川さんは後ろ手を組んで、優しく微笑みながら言う。
「……わたしが露出をするようになった理由だよ」
冷え切った眼差しが、今までの時間が幻想だったことを知らせてきた。
「……理由」
その話は聞いている。忘れていない。その理由を知ったから、彼女の力になろうと思ったんだ。
服を脱がされて裸にされるというイジメ。詳細は聞いていない。たとえ今は自分から進んで脱ぐようになったと言っても、人から脱がされるのでは訳が違う。彼女自身が言っていたことだし、俺もその考えに異論はない。
しかし、彼女はその理由に嘘があると言った。脱ぐようになった理由はイジメではないということは、本当はただ単に趣味で脱ぎだした――わけがないことくらいは、さすがに理解してなきゃダメだろう。そんなことをお遊びとはいえ、こんな空気の中で出すわけがない。
けれど、他に理由になるようなことの心当たりなんて……いや、一つ思いついたことがある。
「……もしかして、俺と同じで親からの虐待だったりする、のか?」
俺の答えを聞いて、早川さんは目を丸くする。
「どうしてそう思ったの?」
「えっと……前に早川さん、両親が離婚してて今は母親と一緒に暮らしてるって言ってたから。父親がその、体罰か何かで服を脱がせてたりしてた、とか……」
自分で言ってて気分が悪くなってきて、言葉尻を濁してしまう。想像が当たっていても外れていても、嫌なことを言っていることには変わりない。
だが、決してあり得ない話ではないだろう。大人が、親が必ずまともな人間だなんて思うのは間違いだ。親が自分の子供を傷つけることなんて、世界のどこかで必ず起きていることであり、自分自身が痛いほど経験したことでもある。
彼らは自分が子供に対して絶対的な優位者である自覚があるから、こちらのことを決して見ようとしない。長く生きているのだから、大人の言うことの方が正しいと思い込んで目を閉ざしてしまう。どんな人間だって間違えることがあるんだと自覚しながら、でも子供よりは間違えないと考えて、それを大人は正しいにすり替えてしまう。
……そんな大人にも例外がいることを知っていなければ、もしかしたら今も決めつけてかかっていたかもしれない。早川さんの両親がどんな人かも知らずに推測でものを言うだけでも失礼なのに、勝手に悪人に仕立てあげるなんて真似は一生恨まれてもおかしくない。
ただ、知らないということは本当に悪い人の可能性もあるわけで……言ったことを取り消すべきか迷っていると、
「あははっ」
堪えきれないという風に、早川さんがかわいらしく笑った。
「牧田くん、想像力が豊か過ぎるよ。ただの離婚だって言ったのに、どうしてそうなるの?」
「これに関しては仕方ないだろ……あの話は嘘でもなんでもないんだから、どうしても可能性は考えちゃうんだ」
「……うん、そうだね。ゴメン、悪かったよ」
そう言って謝ってくるが、楽しそうな笑みは消えないままだ。冷静になると確かに発想を飛躍しすぎたところもある気がするけど、そこまで笑わなくてもいいんじゃないか。
「とりあえず、わたしが裸になる理由にお父さんもお母さんも関係ないよ。だから安心して、ね?」
「ああ、そう……杞憂だったんなら、それが一番だ。親御さんに悪いこと言っちまったな、すまん」
「いいよ。クイズを出したのはわたしだし、牧田くんはちゃんと考えて答えてくれただけ」
早川さんは、なんでもないことかのように言う。
「それに、二人が離婚した原因はわたしだからね」
彼女の言葉に、今度は俺が目を丸くする。
瞬時に浮かんだのは一つの想像。だが原因が彼女にあると言っただけで、離婚自体は普通のものだったと語っているのだから、そういうことではないとすぐに気付く。そもそも想像通りだったとしたら、母親と一緒に暮らすという選択肢を選ぶことがないはずだ。たった今、裸になる理由と両親は無関係だと言っていたのに、すぐそんな想像が出てしまうことが嫌になる。
……では、どうして彼女の両親は離婚することになったのか。
「……答え、分かった?」
それが最後のヒントだったようで、彼女は改めて問いかけてくる。
けれど、問われたところで何も答えが浮かんでこない。想像もできない最悪の答えの可能性は、これまでの彼女の言動を見てきてほぼないものだと思わざるを得ない。想像できる範囲の最悪の答えなら、もうすでに間違っていると言われてしまった。だとすると発想そのものが間違っているのかもしれないが、露出行為に目覚める理由なんて性的刺激以外に存在するのだろうか?
もはや勘や閃きにすら頼れない中、それでもなんとか答えを捻り出そうと考えてみる。考えている間は歪んで捻くれて間違っていて、けれども心地のいいこの時間をどこまでも引き延ばすことができたから。答えが出ないと分かっていても、考え続けていたかった。
「……やっぱり、分からないみたいだね」
だけど、そんな時間を彼女は許してくれない。
小さく吐かれたため息とともに、アディショナルタイムは終わった。
「……そうだな、さっぱり分からない。なんかもう、実はくだらない理由が答えなんじゃないかって思ってるくらいだ」
案外、本当にそんなものが答えなのかもしれない、などと思いながら素直に降参する。
この1ヶ月で早川さんとはかなり話したつもりでいたが、まだまだ彼女について知らないことは多いのだと痛感した。15年以上の付き合いになる優姫の考えもさっぱり分からないときがあるのだから、その程度の付き合いで全てを知った気になるのは思い上がりというものだろう。そんな思い上がりはしていないつもりだったが、今割とショックを受けているのでどうにも俺は結構な勘違い野郎だったらしい。
だから、もっと彼女と話をしたい。彼女をみていたい。
自然と湧き上がってきたその気持ちは、しかし再び俯いてしまった彼女の言葉に抑えつけられる。
「そうだよね。牧田くん、いつもわたしに対して優しくて甘いから」
呆れと諦めが混じったため息の後、彼女は言う。
「わたしが悪い人だなんて発想、絶対にしないよね」
――脳を無理矢理取り出された感覚に襲われる。
思考と身体が止まる。目も鼻も口も耳も手も足も指先も、五感全てを失ったのに、心臓の鼓動だけはやたらと大きく速く動いているのが分かる。
発想がなかったわけではない。気が付かなかったわけでも、見落としていたわけでもない。
そんなもの、存在しないと、想っていた。
「……最初は犯罪者扱いだったのにね。ホント、なんで優しくしてくれるんだか」
今でも犯罪者だとは思ってるぞ、なんて軽口は出てこなかった。
触れれば壊れるんじゃないかと恐怖して、踏み込むのが怖いと躊躇して、歪んで捻くれて間違っている関係だと特別視して。
目を、逸らしていた。
「わたしが露出しようと思った理由、イジメなのは嘘じゃないんだ」
彼女が嘲り笑う。顔を俯かせて前髪で隠れているのに、酷く歪な笑顔があることが見えてしまう。
彼女は告げる。
「でもね」
『キミが近づくことすら躊躇っていた、大切だと信じていたモノは、
「わたしがイジメられていたわけじゃないの」
始めから、歪んで捻くれて間違っていて、壊れていたよ』
後ろ手を組んだまま、目を逸らさずに、彼女が見上げてくる。
夜の闇より暗い闇と、夕陽よりも赤く醜い曲がった三日月が見えた。
「わたしが、イジメてたんだ」
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