公園デビュー(露出)②

 翌日、月が替わって5月のはじめ。今日は朝から五月晴れという言葉とはなんぞやとなる曇り空だった。俺の気分が晴れないとかそういう意味ではなく、普通に天気が曇っているだけだ。降水確率は40%なので雨が降ることはなさそうだったが、念のため洗濯物は室内干しにしておいた。


 この日の昼休みは、教室を出る前に「おい、メイカ! 今日のA定トンカツだってさ!」「じゃあ今日は食堂行こうか!」と、男子以上に男子らしいことを早川さんグループの肌の黒い2人が話し、そのまま残りの2人も連れていかれる姿が見えたので、いつもの旧校舎の図書室でいつもよりゆっくりとした時間の中、一人で食べることになった。


 普段は図書室なのにやけに日当たりがよくて室内灯をつけなくても十分明るい場所ではあるが、さすがに外が曇っていたら暗くどんよりとした様子になってしまう。本を読んだりスマホ見たりで暇を潰すにも不便だし、こういうときは明かりをつけても大丈夫か今度確認しておこう。


 その後も特に何も起きることはなく、普通に授業を受けて放課後になった。残る用事もないのでさっさと帰宅した俺は、すぐに着替えて再びマンションから外に出る。


 出てすぐにある公園に突き当たってから学校に向かうのとは反対に左へと曲がり、そのまま真っすぐしばらく歩くと、通りの向こうにある目的の大型スーパーの姿が見えてきた。横断歩道を渡ってそのスーパーの中に入って買い物――ではなく、バックヤードの方へと向かう。そこで会った人たちと挨拶を交わし、男子更衣室に入って再び着替えてから今日の仕事を始める。


 俺はこのスーパーで高校入学してからすぐにバイトを始めていた。生活費という面では十分すぎるほど養父母から頂いているが、自分のためのお金というのは持っておきたかったし、何もかも彼らに頼りながら生きていくのも申し訳なさがある。今住んでいるマンションも、優姫が一緒に住むことを想定してそれなりにいいところにしたのもあり、ちょっとでも負担を減らせればいいと思っていた。


 とはいえ、高校生のバイト代程度ではどうあがいても自己満足の域を出ないのも分かっている。更に言うならば、中学卒業後にバイトを探していた俺に対して養父がここを紹介してくれたので、結局は頼りきりという面では変わってないように感じていた。それでも、夕食が少し豪華になったり、着る服が1着増えたり、家電のグレードがちょっと良くなる程度の助けにはなっていると信じたい。


 さて、このスーパーでの仕事だが、俺はレジ打ちや品出しではなく清掃をやっていた。理由はちょうど欠員が出たところに話を持ち込まれたからであり、俺が希望したわけではない。わけではないが、とにかくバイトをすることが優先だった当時の俺は、特に仕事内容を気にせずその話を受けることにしたわけだ。


 実際始めてみると、分かっていたつもりでも舐めていた面が色々見えてきたわけだが……それでも、今のところはこの仕事自体には結構満足している。汚れているところが綺麗になっていくのは好きだし、職場の人間関係も良好に感じていた。人間関係の方は、俺より大人の人ばかりなのも影響あるだろうけど、1年間働いてみて少なくとも受験で忙しくなるまでは、ここでバイトをするのも悪くない程度には気に入っていた。


 そんなバイトを4時間ほどこなして、そろそろ上がりの時間だなと思っていたときだった。


「知季くーん。悪いけど、ちょっとこれ出してくれるー?」


 なんかよく飴玉をくれるおばちゃんが、着替えを終えた俺に声をかけてきた。そちらを見れば足元に大きな段ボール。軽く話を聞くと、閉店間際だが切れてしまった商品を補充するらしい。この辺りのスーパーではここが一番遅くまで開いているので、その手の客を逃したくはないとのことだ。


 一応、「俺、清掃のバイトなんですけど」とは言うものの、適当にあしらわれてしまい品出しをすることになってしまう。まあ、別に初めてのことではないし、こっちも頼み込んで働かせてもらっている立場だ。なあなあになりすぎないために言っただけで、最初からやる気ではあった。さすがに時間外労働なら断っていたが。


 そういうわけで最後に一仕事。『こんな時間に買う客いるのか?』と思いながら、しゃがみ込んで食玩の補充をしていると、


「すみません、ちょっといいですか? その、ジャムを探してるんですけど、いつもの場所になくて」


 若い女性に声をかけられる。そういえば、一昨日商品の陳列を弄る手伝いをしたな。ジャムはそのとき弄った記憶はないが、確認も手間ではないしさっさと対応した方がいいか。


「はい、ジャムですね。分かりました、少々お待ち……えっ」


 手に持っていた1個を棚に入れ、先に客の案内をしようとそちらを見上げると思わず声が出た。向こうも「あっ」と声を出して驚いていた。


「……牧田くん?」


 そこには、ベージュのパンツを履いてピンクのシャツの上に青のジャケットを羽織っている、ちゃんと服を着ている早川愛理沙がいた。


 *


 学外で知人に会った経験と学内の知人が少ない俺は、どうすればいいのかと固まっていると、「時間があるなら、ちょっと話がしたいんだけど」と早川さんに言われてしまった。あるともないとも言えないから「ちょっとだけなら」と返事をしてしまうと、「バイト終わるの待ってる」と返される。後始末を終えて店の前に行くと、早川さんはエコバックを持ってちゃんと待っててくれていた。


 優姫には帰りが少し遅れる旨を伝え、とりあえずどこか落ち着けるところで話そうと思ったら、「向こうに公園があるから、そこで話そっか」と先んじて言われてしまい、連れられるままにその場所――住んでいるマンション前にある小さな公園までやって来てしまった。もう夜も寒いとは言えない時期になってきたとはいえ、昼間ほど暖かくもないからどこか屋内の方がいいとは思うが、こっちの都合としてはいい場所なので彼女が問題ないなら文句はない。


 とはいえ、せめて何か暖かい飲み物くらいはあった方がいいと思い、近くの自販機で2つコーヒーを買ってきた俺は、街灯に照らされながらベンチに座って待っていた彼女に片方を渡す。


「ありがと。ちょっと待ってて」


 受け取った缶コーヒーを一旦ベンチに置き、カバンを取ろうとしていた早川さんを片手で制す。


「ああ、いいよ。別に奢りで」

「でも……」

「バイトしてるのも生活が苦しいとかじゃないから。どうしても気になるなら、今度はそっちが奢ってくれれば大丈夫」


 そう言うと少し困った感じで笑いながら「分かった」と納得してもらえた。

 立ったまま話すのもなんなので、俺も隣に腰を下ろす。隣と言っても早川さんの隣ではない、早川さんがバイト先で買った商品が入っているエコバックの隣だ。彼女は5人くらい並べるベンチの端の方に座っているため、傍から見た場合バランスが悪いように見えるかもしれないが、夜の10時を過ぎたこの時間に傍から見られないだろうから、別に気にしなくてもいいだろう。


 そうして俺が座るのを見て、早川さんは缶コーヒーのタブを開ける。それに合わせて、俺も自分の分のコーヒーを開けた。


「牧田くん、ブラックにしたんだ」

「ああ。俺はもう、ブラックでも美味しく飲める人間だからな」

「はいはい、かっこつけ。でも、本当に無理してない? わたしも得意じゃないけど、一応飲めるから変えても大丈夫だよ」

「大丈夫。あんまりこだわりないから、そっちがブラック苦手ならこのままでいいよ」


 そう言ってさっさと口を付けてしまう。さすがに飲み始めた物を交換してくれということはせず、早川さんも両手で持つようにしてフーフーしながら飲み始めた。買ったばかりのコーヒーは、苦みよりも熱さの方を強く感じた。


「……バイト、やってるんだね」


 熱いコーヒーを飲んで、ふぅ、と息を吐き、改めての確認を早川さんはしてきた。


「そうだな。一応言っておくと、校則違反じゃないことは確認してるから平気だよ」

「知ってる。わたしもバイトに興味なかったわけじゃないし」

「そうなのか?」

「うん。お母さんにバイトするより勉強をがんばってほしいって言われたから、だったらそっちをがんばろうかって程度の興味だけどね」


 全く後悔がない風に、というか本当にちょっと興味があっただけだったのだろう、軽い感じで早川さんは言う。さっきの反応を見るに、苦労しているのではないかという想像が働いたのは、どうにも彼女の方もなんらかの苦労があるからではないかと思った。が、所詮は想像に過ぎないし、合っていたところで同情にしかならないだろうから黙っておく。


「それで、話って何?」


 お互いにもう一口コーヒーを飲んでから、俺は早川さんに尋ねる。


 俺がバイトをやっていることくらい、あの場にいたなら気付いていたはずというか、気付いてなかったらヤバすぎる。何をやってると思われてたんだって話になるし、さっきまでの会話でそこは早川さんも分かってるのは確認できていた。その上で、改まって話があると言っていたのだから、何か別件があるはずだ。


 俺がそう考えていると早川さんは、


「……? バイトの話を聞きたいだけだけど」


 小首を傾げながら、なんか普通にそんなことを言われた。


「……は?」

「そんな怖い声出すほどのこと? ちょっと気になって聞いてみたかったんだから、しょうがないでしょ」

「いや……気になったのは別にいいんだけど」


 何も夜も遅い時間帯のバイト終わりに聞くほどのことかと思う。特に俺たちは昼休みに二人で過ごすことが多いのだから、そこで聞けばいいだけの話ではないのだろうか。


「気になったのはさっさと聞かないと忘れちゃうじゃない。ね、さっき生活のためにバイトしてるってわけじゃないって言ってたけど、じゃあなんでやってるの?」


 そう言ってこちらに身を乗り出しながら興味津々に尋ねてくる。意識的なのか無意識なのか分からないが、上目遣いになっていてドキリとしてしまう。間にエコバックがあるから、ぶつかってしまうような距離ではなかったのは幸いだ。


「なんでって言われても……生活を楽にするため?」

「いきなり矛盾してること言わないでよ。言いたくないなら別にいいんだけど……」

「いや、言いたくないわけじゃなくて……なんて言えばいいのかなぁ」


 素直に話してしまっていいものかちょっと迷ったが、どうせ早川さんには俺たち兄妹の事情をある程度知られている。それと比べれば、俺がバイトしている理由なんて大したことのないものなので、特に誤魔化すこともせずに話してしまうことにした。


「……そっか。偉いね、牧田くん」


 始めは笑顔で聞いていた早川さんだが、途中から姿勢を正して真剣な表情になり、聞き終わったらそんなことをポツリと零した。


「別に偉くはないよ。どう考えても自己満足だし、むしろ親切を断ってるみたいで感じ悪いところがあるくらいだ」

「わたしはそんなことないと思うけどね。甘えないで生きていこうとするなんて、わたしにはできないから。うん、かっこいいんじゃない?」


 昨日の今日でそんなことを言われると、男の子のかっこつけみたいに感じて恥ずかしくなる。……あんまり間違ってはいないか。


「でも、優姫ちゃんと二人暮らしだったんだね。その……施設暮らしじゃないなら育ての親みたいな人はいるだろうと思ってたし、その人たちと暮らしてるんだと思ってた」

「あー……爺ちゃ――養父母はいい人たちだったけどさ。いい人だから、逆にお世話になりっぱなしなのが申し訳ない、というか。まあ、早く自立したかったんだよ」


 早川さんの言葉に気まずさもあって目を逸らしながら返す。


 実際、二人はとてもいい人たちだった。引き取られた当時の俺たちと同じ年頃の兄妹を事故で亡くしたらしく、それもあってか大切に育てられてきたという実感は確かにある。優姫より大人に対する不信が強かったのもあって馴染むのに時間はかかったが、それ以降で愛されていないと思ったことなどない。


 そんな二人だからこそ、俺のような人間が近くにいてはダメなんじゃないか――という想いがどうしても消えない。多分、一生消えないだろう。


「お金のことだけ考えるなら、ここに通うにしても家から電車の方がよかったりするからね。だから、本当に俺のわがままなんだよ」

「そっか。わたしは親元離れて暮らしてないからなんとも言えないけど……あ、もしかして、結構いいところに住んでるの?」

「めちゃくちゃいいところではないとは思うけど、まあまあいい値段はするかな。ほら、そこだよ」


 そう言ってすぐ近くにあるマンションを指差す。「えっ」と驚いた声が隣から聞こえてきた。


「な、なんていうか、すごく近所に住んでたんだね……」

「実は早川さんがこの公園に連れてきたとき、ちょっとびっくりしてたよ」

「うん、わたしもびっくり……でも、そこは確かにいい値段がするね」

「優姫も高校に入ったら俺と暮らすって宣言してたからな。だったら、初めから防犯とかしっかりしてるとこがいいだろうってことでここにしたんだよ」


 実は公園の向かいにあるマンションの方が家賃は高かったりするのだが、そこまでしなくても大丈夫と優姫本人が言ったという話もある。兄としては少しでも安全な場所がいいが、養父母のことを考えると少しでも安い場所の方がいい。俺のバイトより遥かに悩んだ案件だ。


「……ふふっ」


 そんな苦労話はどうでもいいので特に何も言わなかったのだが、俺の思考を読んだかのように早川さんが笑う。


「牧田くん、本当に優姫ちゃんのこと大好きだね。いつも優姫ちゃんの話聞いてる気がする」

「え……俺、そんなに優姫のこと話してる?」

「そうだよ。自覚なかった?」


 自覚なかった。ここまで継続的に話す家族以外の人間も早川さんが初めてだから、そんな機会がなかったともいう。


「……まあ、趣味はあんまないし、友達はいないし、話題自体が優姫のことばかりになるのもしょうがないというか」


 誤魔化すようにそう言うと、早川さんは生暖かい笑顔を続けている。シスコンだろこいつと思われてるんだろうけど、こういうのって他人に指摘されるとかなり恥ずかしいものなんだな……


「えー……そういえば、早川さんってあのスーパーよく使ってるの?」


 あまりにも据わりが悪かったので、かなり強引に話題を変えた。「あ、逃げた」と言われたものの、深く追及することはせずに早川さんは答えてくれる。


「毎日ってわけじゃないけど、よく使う方かな。特に夜遅いときはそこしか開いてないこともあるから。コンビニはちょっと高いし」

「ああ、そうなんだ。1年働いてて見かけたことなかったから、そこまで頻繁に使ってないのかと思ってた」

「多分、牧田くんが思うほどじゃないと思うよ。お母さんが仕事帰りに買い物してくることもあるし。それに今年から同じクラスになったんだから、お互い知らないと気付きようがないしね」


 言われるとそれはそうだなとなる。今回早川さんだと気付けたのも俺が彼女の存在を認識しているからであって、それ以前の状況だったらただのお客様として扱っていただろう。

 あとはまあ、清掃の仕事だからそこまでお客さんと接する機会が多くないというのもあるか。早川さんくらいかわいい子だったら、さすがにちょっとは印象に残っていたはずだ。


「なんにせよ、常連さんだったなら尚更申し訳ない。せっかくいつも買ってくれていたのに」

「あー……まあ、しょうがないよ。分かりやすいところに置いてなかったり、全然減ってる様子がなかったから、人気がないんだってのはなんとなく察していたし。結構お気に入りだったから、ショックはショックだけどね」


 そう言って諦観のため息を吐かれる。本当に残念そうな様子なので、俺にはどうしようもないとはいえ、どうしても申し訳ない気持ちになってしまう。


 早川さんが遅い時間にわざわざ買い物に来ていた理由は、朝食のパンに付けるジャムが切れていたからということだった。少し変わり種のピーチジャムだったらしく、母親もお気に入りだったという話を聞いた。ただ、あまり宣伝されてなかったし、ちょっと味の癖もあったようで、うちでは人気のない商品だったようだ。俺も食べたことはないし、そもそも優姫が朝食はご飯派なのでパンを食べることが少ない。


 そんなわけなのでジャムのところになかったので在庫を確認したところ、もう入荷をやめたという話を聞かされてしまったわけだ。ガッカリした様子の早川さんを見て、俺もちょっと悲しい気分になった。


「こういう、あんまり人は知らないけど自分は気に入ってるものを見つけたときって、なんか嬉しくならない? ちょっと特別な気分になるっていうかさ」

「ああ、それは分かる。何の役に立つのか分からない機能が付いた掃除機が生きる機会が来たときとか、大手メーカーのじゃないスポンジが使いやすかったときとか、掃除しにくいところを綺麗にするコツを発見したときとか、めちゃくちゃテンション上がるからな」

「え、なんで全部掃除関連なの……? ちょっと怖いんだけど」


 分かる分かると同意したかっただけなのに、なぜかドン引きされてしまった。悲しい気分になった。


「牧田くん、もしかして綺麗好き? 清掃のバイトも趣味を兼ねてたりしない?」

「綺麗にするのは好きだけど、綺麗好きかどうかは微妙かな。自分の部屋とか散らかしっぱなしのときも結構あるし」


 他人と共用する場所はできる限り綺麗に使うように意識してるが、そうでない場所は割と適当だ。自室なんて掛け布団は適当に放り出しているし、脱いだ服が落ちていることもある。


「一度始めたらできる限り綺麗にするようにはしてるけど、それも俺が気になるラインまでいかないとやらないからなぁ」

「そういうのを綺麗好きって言うと思うんだけど……まあいいや」


 本当にどうでもよさそうな声音で言われる。なんで聞いてきたんだよ。


「とにかく、そうした誰も知らないものがあるとちょっと嬉しいって話。でも、みんな知らないからさ、結局あんまり売れなくてなくなっちゃうってことも多くて」

「ああ、それも分かる。このハタキちょうどいい感じの長さだしいいなと思ってたら、買い替えようと思ったときにもう売ってなくて、ちょっと泣きそうになったことがあるよ……」

「また掃除関連で言わないでくれる? それを思い出して今泣きそうになられても困るんだけど」


 9割くらい本気のことを言うと、またドン引きされてしまう。まあ、早川さんの気持ちはちゃんと理解しているから大丈夫だ。


「でもなぜか、あんまり人に知られたくないって思うんだよな。絶対売れた方が自分も助かるのに、他人に知られると冷めてくるというか」

「あっ、それ分かる! あれってなんでなんだろうね?」

「独占欲と似たようなものじゃない? 俺もこの掃除用品メーカーを知ってるのは俺だけだと思ってたら、クラスの子の親がそこで働いていると知ったときはちょっと冷めたことがあるからな……」

「だからなんでたとえが全部掃除関連なの!? しかもその気持ちはよく分からないよ!?」


 そんな、誰にだって自分しか知らない推し掃除用具があって、それに優越感を覚えているものじゃないのか……?


「牧田くん、いくらなんでも掃除好きすぎない? 掃除するためにわざと汚したりしてそうなんだけど」

「そこまではしたことないから大丈夫。とりあえず、自分だけがいい物だって知ってればいいって気持ちは、多分誰にだってあるんじゃないかな。けど、自分だけしか知らないからすぐに消えちゃうし、なくなっちゃうんだよな」

「そうそう、それ。誰か他の人に話して仲間を増やさないと、結局なくなっちゃうのも辛いんだよね。……初めからそういう話をしたかったのに、なんで掃除の話になってたんだか」


 俺にとっては繋がっている話だったのだが、早川さん的には掃除の話をされていたと思われていたらしい。まあ、今そこはどうでもいいか。


 とはいえ、この話題について俺たちが話していた以上の発展はないだろう。自分だけは知ってる特別なものというのは誰もが羨んで、そしてそれが違ってきたりなくなってしまうことを悲しむ。どうしてそんな感情を持つのかという理屈までは分からないが、誰もが持っていて普遍的な感情。


 それでも、そこに話をつけ足すとしたら、俺に思いつくのは一つだけだ。


「せいぜいやるとしても、親しい人にそんな秘密を教えるってくらいだよなぁ。俺も優姫にマイナーメーカーのコロコロの吸着力について語ったら、『へー、そうなんだー。すごいねー』って目を輝かせてくれたぜ……」

「もう掃除ネタとシスコンネタはいいから。しかも優姫ちゃんの目は死んでるからね、それ」


 天丼は3回までという掟を破ったら割とガチで軽蔑してる目で見られた。反省するけど、シスコンネタは1回も使ったつもりないです。


「まあ、言いたいこと自体は分かるけど。他の人は知らないけど、自分たちは知ってるってものがあると楽しいし。秘密の共有っていうのかな? そういうのがあると、話も弾むよね」

「話も弾むよねって言われても……俺、そういう話ができる相手優姫しかいないし。あ、これはシスコンネタじゃないからな、ってか今までもシスコンネタは使ったことない」


 俺がそう言うと、キョトンとした顔をされる。それが妙に子供っぽくてかわいかった。


「そういえば牧田くん、時々友達がいないみたいなこと言ってるけど、ホント? 今も昔も仲がいい子いないの?」

「いないよ。教室での様子は知ってるだろ? 基本誰とも話してない」

「知ってるけど、その上で言ってるの。自分から話はしないけど話を振られたら答えるし、別に会話を拒否ってるわけでもないのよね。今も話をするの自体は嫌いじゃないって感じに見えるし、友達いないのが違和感あるというか」

「話すこと自体はそんな嫌いじゃないとは思ってる。ただ、上手く話せるかは分からないし、大体話が合わないからな」

「そうなの? わたしは誰とでも普通に話せそうだと思ってるけど」


 思ってた以上に早川さんは俺のコミュ力を評価しているご様子。あと、クラスカースト最上位なのに、俺のことを割と観察しているのはちょっと驚いた。


「上辺だけ合わせるならそうだな、苦手じゃない。でも、仲良くなると男子同士だとどうしても下ネタが出てくるからさ……分からないんだよ」


 この話そのものが下ネタなので、ちょっと恥ずかしさもあって目を逸らしながらそう言う。「あー……」と、気まずそうに息を吐く音が聞こえた。


「一応これでも仲良くなれるなら仲良くなりたいと思ってるし、小3くらいの頃は割と積極的に話しかけてた気がする。でも、だんだんそういう話題が増えてくると、俺には分からない感覚の話をするからさ。自然と距離が空いてきちゃったんだ」

「……そっか。うん、ちょっと分かるかも。自分と違う中学の子たちが、そのときの話題をずっとしてるようなものだよね」

「多分そんな感じかな。その話を聞いてる感覚がいつまでも続いていると思ってくれれば、大体俺の気持ちが分かると思うよ」

「うわー、それは無理だなー。居心地悪すぎてホント無理」


 苦笑いをされながら分かられる。完全に同じ気持ちではないだろうが、自分の知らない話をされる居心地の悪さは誰しも抱くもののようだ。


 こんな情けない理由だから主義主張があって友達がいないわけではなく、ただ俺の都合でいないだけの俺が悪いという話だ。もしかしたら、ちゃんと話せばわかってくれる相手もいたかもしれない。別に俺のような経験がなくても下ネタの苦手な男子はいるだろうし、男子よりは下ネタ嫌いが多そうな女子と仲良くしてもよかっただろう。けれど結局、俺のせいで話題を制限されると思うとそこまでして友達を作らなくていいかと思ってしまう。俺自身、過去のことは積極的に話したい話題ではない。


 無理にそんな関係を築かなくてもいい。それは、今こうして話していても全く変わらない気持ちだった。


「ま、これもかっこつけの一環かもしれないけどな。男の子にはあるんだよ、孤独をかっこいいと思う時期がさ」

「なにそれ、そんなのもあるんだ。……でも、わたしにも少し分かるし、そういうのとはちょっと違うんじゃないかな」


 そう言ってどこか遠くを見るように前を向き、早川さんは両手で包み込んだ缶に口を付ける。俺も残り少なくなったブラックコーヒーを飲む。自然と会話が途切れてしまい、辺りが静寂に包まれた。


 遠くから聞こえてくる車の走る音、自販機の動くジーっという機械音、肌で感じられないくらいの風で起きる葉の擦れる音。普段意識しなければ聞こえない音色が耳に入ってくる。寂しくて気まずい、けれど嫌ではない沈黙。


 ふと公園の時計を見上げると、いつの間にか長針が真下を差そうとしていた。そこまで話し込んだ印象はないのに、そんなに時間が経ったのかと驚く。いい加減帰らないと優姫に迷惑がかかってしまいそうだ。そろそろ解散しようかと、声をかけるために早川さんの方に目を向けた。


 彼女はちょうど缶コーヒーに口付けようとしているところだった。特に何か考えてるわけでもなさそうな、力の抜けた横顔。その姿――その唇に、なぜか目を奪われる。


 瑞々しく赤いそれは、夜の闇を裂く人工的な明かりに照らされて、妙な艶やかさを持っていた。缶の縁に当たると柔らかそうに潰れ、離れていくときもまた柔らかな弾力を持って戻っていく。そしてそこから、ふぅっ、と魅惑的な吐息が漏れていた。暗く静かな環境が、その色と音をより際立たせ、目を離せない不思議な魔力を感じる。


「……? どうかした?」


 ぼーっと見過ぎていたせいで、こちらに気付いた早川さんから不審そうに声をかけられた。慌てて目を逸らし、すっかり冷えてしまったコーヒーを飲み干してから誤魔化すように言葉を紡ぐ。


「いや、なんか服を着てる早川さんって珍しいなと思って、つい……」

「は?」


 いきなり氷河期にまでタイムスリップしたかのような寒気のする声が聞こえて、思わずそちらの方を見てしまう。目線どころかオーラが凍り付いている早川さんがいた。


「牧田くん? わたし、牧田くんの秘密は直接的に言わないようにずっと気を付けてたのに、なんで牧田くんは何も隠すことなく言っちゃうの? それと、そのネタももういいからね? いい加減飽きなさい」

「ほんとごめん、前者については俺が悪い以外言うことない。ごめんなさい。でも、後者は飽きる飽きないの話じゃないだろ、認めちゃダメな話だ」

「今それはいいの」


 確かに今はその話題をするときではないが、振ってきたのはそっちだし服を着ることに飽きないでほしい。露出、ダメ、絶対。

 そんなことを考えていたら、早川さんはキョロキョロと辺りを確認し始める。誰もいないことが分かると、再び身を乗り出してこちらに向かって手招きをしだした。なんだ一体……と一瞬思ったが、多分顔を近づけろという意味ではないかと察したので、素直に従ってこちらも身を乗り出す。


「……そもそも教室ではずっと制服着てるし、そっちの方が見慣れてるでしょ。なんで脱いでるイメージしかないのよ」

「そ、そりゃそっちの方がインパクト強かったからだろ……あと俺、制服着てる早川さんとは昨日しか話してない」


 声を潜めて話しかけられているので、こちらも声を潜めざるを得ない。そうなるとできる限り顔を近づける必要があり、早川さんのかわいらしい顔をよく見ることになってしまう。なんだかむず痒い気持ちが沸き上がってきた。


 少し気の強そうな、だけどかわいらしくて大きな瞳。鼻をくすぐるのは薄い桃の香り。つい見つめてしまっていた綺麗な赤の唇。そしてそこから耳を刺激する、教室で聞くよりは低い、けれど女の子らしい高く甘い声音。


 普段図書室で話すときには距離があって意識しないことが、この近さではどうしても気になってしまう。


「そうだとしても着ている時間の方が長いじゃない。わたしがいつも脱いでるみたいに言うのは偏見よ、偏見」

「無茶言うな……というか、アレだ。私服を見るのが初めてだったから、それで珍しいと思ったのもあるんじゃないか?」

「……自分のことなのに、なんでこっちに聞いてるんだか」


 そう言って身を引いてから、はぁ、とため息を吐かれた。緊張が解けるやら、ちょっと名残惜しいやらで複雑な気持ちだ。


「あー……今更だけど、似合ってる。うん、新鮮でいいと思うよ」


 向こうが距離を離したのに俺がそのままなのはおかしいので、こちらも元の姿勢に戻しながら場を繋ぐためにとりあえずそう褒めておいた。一応、本音のつもりではあったが、シラっとした目を向けられてしまう。


「服の感想が新鮮って、意味分かんないんだけど。そもそも似合ってるなんて思ってもなさそうだし、本音だとしてもこんなラフな格好を褒められてもなぁ……」


 そりゃその感想になったのはいつも見てる格好が原因だからな……とはツッコまない。俺は反省のできる男だ。


 でも、そうか。優姫は大体どんな格好でも褒めておけば「もう、お兄様ったらシスコン~」とか言いながら喜ぶのだが、普通に考えたら適当に買い物へ出ただけの格好を褒められても嬉しくないか。俺も部屋着を褒められても嬉しくない。部屋着を褒めてくるのは優姫しかいないが。でも、優姫に褒められるのは嬉しい。……あれ、じゃあラフな格好でも褒められれば嬉しいのでは?


 この感情は一体どこから出てくるのか……などと考え込もうとしたとき、ふと一つの疑問が浮かんできた。


「そういえば……」


 そのまま話そうとしたもののあまり大きな声で言わない方がいいと気付き、今度は俺の側が身を乗り出して手招きをする。怪訝に思われながらも再び早川さんは顔を近づけてくれた。


「……外で露出とか、してないよね?」

「……したことないわよ」


 怒気やら呆れやらを含んだ声で返される。


「外でやるとか見つかったときヤバいでしょ。危ない目に遭いたいわけじゃないのよ」

「学校でも見つかったらヤバいんだけどね……まあ、リスクが違うのは分かる」


 辺りを確認するように目を逸らしながら言われ、俺も素直に納得する。この公園に変質者が現れているという事実がなくてよかった、登校するたびに嫌な気持ちになるところだった。


「そういうことならいいんだ。早川さんなら興味を持つんじゃないかと疑ってしまったけど偏見だった。ごめん」

「………………」

「ちょっと? なんで黙っちゃったの? もしかして、やったことはないけど興味はあるとか言うの?」


 不穏な沈黙に思わずそうツッコむと、再び距離をスッと離される。明後日の方向を向きながら。対人関係の経験が少ない俺でも分かる、これはめちゃくちゃ誤魔化している。おかげでさっき離れるときにはあった名残惜しさが全くなかった。


「ま、まあ……危なくないなら……や、やってみたいかな、とは思わなくも……」

「そんな照れた様子で言うことでは全くないからね? 『犯罪行為に興味がありますか?』って聞かれて『あります』って答えるの、恥ずべきことではあっても照れる要素は一切ないからね?」


 恥ずかしそうに前髪を弄る姿はかわいらしいのだが、言っていることが全くかわいらしくなかった。


「じゃあ、牧田くんはどうしても落ちない汚れを落とせるかもしれない洗剤があっても使わないっていうの!? そんなの我慢できる!?」

「我慢できるわけないだろ、すぐに買って使うわ。でも、それとこれとは――」


 話が別、と言おうとして、早川さんが何を言いたいのか察してしまう。


「断る」

「分かるなら、今度――断るの早くない!? 何か言う前に断られたの初めてなんだけど!」

「いや、俺の協力があれば安全に公園デビューができるんじゃないかって話だろ。ガチで嫌だよ、これ以上犯罪に巻き込まないでくれ」


 公園デビューとは言ったが、別にこの公園でやるわけではないだろうし、そもそも公園じゃなくてもいいのだろうが。とにかく、外で露出するために俺の協力があれば安全安心で行えるチャンスだと考えていそうだと思ったから、先回りして答えることができたというだけだ。これだと変質者の思考が読めるみたいに思えてしまうが、決してそんなことはなく論理的思考の行き着いた先だけだとは言っておきたい。


「分かってるなら、ちょっとは考えてくれてもいいじゃない。ねね、危ない目に遭わないためなんだから、ね?」

「考えない。秘密を話さない約束はしたけど、だからって露出に手を貸すとは言っていない。これ以上何か要求するなら、俺は恥を忍んで警察に通報するからな」


 両手を合わせながら懇願してきたのに対抗して、腕を固く組んで断固拒否の姿勢を見せると、むーっ、って感じでリスのように膨らまれる。


「……それに、俺がいたところで絶対に助けられるわけでもない。危ない目になんか遭ってほしくはないから、初めから危険なことはしないでくれ」


 さっさと警察のお世話にならないかな……とは思っているが、だからといって早川さんの言う『危ない目』には絶対に遭ってほしくはない。アレがどれだけおぞましい行為なのか、自分の身と心に刻まれているから、彼女がそんな傷を負うことを想像もしたくなかった。


「……分かった、ゴメン。……ありがと」


 ふいっ、と顔を逸らし前髪を弄りながら言ってくる。その声はどこか優しく、切な気な音をしていた。


「――さて、と。そろそろいい時間だし、帰ろっかな」


 少しの間が空き、再び静寂がこの場を包み込む前に、早川さんは立ち上がってそんなことを言う。言われて時計を見れば、いつの間にか長針はとっくに真下を過ぎてしまっていた。先ほど見たときにそろそろ帰ろうと思っていたのに、そこから予想以上に話し込んでしまっていたようだ。いい加減にしないと優姫に迷惑どころか心配をかけそうだなと思い、後を追うように立ち上がる。


「じゃあ、近くまで送っていくよ。ついでにゴミも捨てとくから」

「え、いいよ。すぐ近くだし、大丈夫だって」

「あんなこと言っちゃった手前、そういうわけにもいかないだろ。近くても万が一ってことがあるかもしれないし」


 身の安全を気にした後で、この時間に女の子を1人にするのは矛盾しすぎている。そうでなくても、人としてこれくらいはしないとダメだと思った。もっとも、それを分かった上で嫌がる相手もいるだろうから、もう一度遠慮されたら素直に言うことを聞くつもりではあった。


「んー……ホントに近くなんだけど……」


 早川さんは少し迷っていたが、そうして迷う時間がもったいないと気付いたのか、


「ま、いっか。牧田くんのお家も教えてもらったし、付いてきて」


 それ以上は特に反対もせずにエコバックを手に歩き出した。俺も空の缶を2つ持って付いていく。

 俺たち兄妹が住んでいるマンションがある方とは反対の出口から公園の外に出る。その途中にあったゴミ箱に空き缶を捨てていると、


「はい、ここがわたしの住んでるマンション」


 まだ1分も歩いていないのにいきなりそう言って、こちらに笑顔を向けてきた。


「……え、嘘でしょ? めちゃくちゃ近所じゃん」

「ホントホント。だからさっき、わたしも驚いてたんだよ」


 マンションの外見を見ただけでいい値段がすると分かったことにちょっと違和感があったが、実際綺麗な方なのでそんなものかと思っていた。が、単純に向かいのマンションという近所も近所なところに住んでいるため、大体の家賃が分かっていただけのようだ。種を明かされたら自分でもすぐにできる手品のようだ。


「どうする? ここから部屋まで送ってくれる?」

「……いや、いいだろ。この状況だと、一番危険に思われるのは俺だろうし。実際は何もできないんだけどな」

「だから返しにくいネタはやめる。ま、色んな意味で牧田くんの言う通りだからいいけどね」


 そう言って彼女はカードキーを取り出してエントランスのドアを開ける。住むことを検討したことがあるので知ってはいたが、結構広いスペースが見えてさすがうちより高いところだ……と謎の感動があった。


「じゃ、今日はありがと。また明日ね」

「ああ、また明日」


 早川さんが手を振ってきたのでそれを返すと同時に、エントランスのドアが自動で閉められた。ここに残り続ける意味もないので、俺もさっさと家路につくことにしよう。といっても、1分かかるかかからないかの距離しかないが。


 その僅かな時間、公園を通り抜けている途中でなんとなく夜空を見上げた。昼間、あれだけ空を覆っていた厚い雲はほとんどなくなっていて、何かを笑うように曲がった月が浮かんでいるのが見えた。

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