第16話

 窓の外には、滲むような星明かりが見えていた。夜の闇はどこか湿っていて、重たく感じる。ここは富士見台の丘と違っていて、夜空は暗くて重くて静かすぎる。まるで、何かが通り過ぎた痕跡だけが残っているようだった。海の向こう、遠くの波音が微かに聞こえる。海辺に囲まれたこの病室からは、穏やかな夜の景色が広がっているが、どこか心が満たされなかった。

「……星って、どうしてあんなに儚くて美しいんでしょうか」

 ぼくはふと、声に出して呟いた。言葉がすぐにぼくの中で華純の存在が消えていく気がした。視線は窓の外へ向けられ、星の煌めきがぼくの心に深く響いた。それは、華純がふたご座流星群を見上げた夜の光跡が、まだ瞼の裏に焼きつけいているからだろうか。流れ星が消える瞬間の儚さ、その後に残る空虚感がいまも心の中でぼくを支配していた。

 そして、自然と手はタブレットに向かっていた。無意識に専用のペンシルを取ると、いま、感じているこの夜の静けさ、星々の煌めき、そして心の中に広がる重たさを描かずにはいられなかった。

「流れ星は、どうしてあんなに儚いんだろう」

 心の中で繰り返される。流れ星の儚さが、いまの自分の心情を映し出しているような気がした。華純と一緒に見上げた夜空。そのときの記憶が、どこか切なくて、ぼくを引き寄せる。あの一瞬を、忘れたくないと思う。

 流れ星の儚さが心にずっと残るのだろう。

 ぼくは不意に立ち止まった。目の前の絵には、荒れた海と、流れ星の跡が描かれていた。まるで、華純と離れ離れになったときの心情をそのまま映したような絵だ。それが華純の心情にも重なり、ぼくの中で何かが大きく動き出した気がした。

 タブレットペンシルを持つ手が震え、急に心が重くなる。ぼくは心象風景の絵を、ただ星月夜の風景を描くつもりだった。いまその絵を見ていると、どうしても華純のことが浮かぶ。彼女が見た夜空、心の奥に隠された暗闇。その暗闇に、彼女はずっと閉じ込められていたのだろう。

「……星月夜」

 ぼくは呟くと、筆をもう一度動かす。あの絵は、ただの風景画ではない。華純の心の中にある暗闇を、無意識に描いていたのだろう。夜空に閉じ込められた星々。一つ一つが、まるで華純の心情そのもののようだった。

 そして、タブレットペンシルを持つ手が止まった瞬間、ぼくはようやく気づく。

 自分の心に広がる空虚感、その重さを、ぼくは何も言わずに絵で表現していた。描くことで、少しでも心が楽になると信じていた。しかし、実際には、心の中の空白がますます大きくなるばかりだった。

 絵を見つめて、ぼくは深いため息をついた。

「……どうして、こんなにも心が重いんだろう」

 問いは答えを持たぬまま、夜の静けさの中で消えていった。


   *


 しばらくすると、いつの間にか眠ってしまっていたようで、目を開けたときには窓の外が真っ暗になっていた。病室内は静寂に包まれ、電気も消えて、寝静まった同室の患者たちの寝息だけが響き渡っている。

 ぼくは目をこすって、ふと隣のベッドを見た。だが、そこにはもう華純の姿はなかった。ハッと胸が締め付けられるような感覚に襲われ、慌ててシーツを引き剥がした。辺りを見渡しても、彼女はどこにもいなかった。

「華純……」

 ぼくは小さく嗚咽を漏らす。焦りと恐怖が胸を突き動かし、病室を飛び出した。夜勤で忙しそうに走っていた看護師を見つけ、何とか声をかけた。

「か、看護師さん、華純が……」

 言葉がうまく出てこない。指を震わせて病室を指さすことしかできなかった。看護師さんはすぐに動き出し、慌ただしくその場を離れた。華純の後ろ姿を見送って、心の中で何度も自分を責めた。

「こんなときに……どうしてもっと早く気づかなかったんだろう」

 華純と過ごして変わったと思っていた。彼女の明るさに引き寄せられ、自分の殻を破ってきたつもりだった。しかし、結局、ぼくはまだ自信が持てていないままだった。華純のために、もう少し強くなりたかったのに、いまも何もできない自分が恥ずかしい。

「教えてくれてありがとうございます。こちらでも探します」

 華純を探すために病院全体で動いてくれることになった。

 ぼくの心は一向に落ち着かない。病院中を駆け回り、呼びかけ続けたが、どこにも彼女の姿はなかった。

「……あの子だったら、どこに行くだろう」

 頭の中で何度も問いかける。華純がいまどこにいるのか、記憶が戻っていたとしても、彼女の好みは変わらないはずだ。過去の会話を必死に引き出し、何か手がかりがないか頭の中の記憶を探る。

 そのとき、ふと彼女が海が好きだと言っていたことを思い出した。あの言葉が、いまも胸に響いていた。

 ぼくはすぐに海へ向かうと決めた。病院の外に出ると、夜風が顔に当たる。海岸までの距離が短く感じ、全速力で走って心の中で祈った。

「どうか、彼女を見つけて……」

 遠くからでも、彼女がパジャマを着たままで歩いている姿を見つけられた。波打ち際に、月の光が煌めき、冷たい風が砂をさらっている。華純は海の真ん中で、まるで波に誘われるように歩き続けていた。彼女の背中には、ぼくの呼びかけを無視するかのような、どこか遠くを見つめる哀愁が漂っていた。

「華純! お願いだから、戻ってきて! ぼくを一人にしないで!」

 必死に叫んで、ぼくは華純に駆け寄った。胸が締め付けられて痛みが広がり、足元がふらつく。どれだけ焦ったことだろう。

 もう、彼女を失いたくない。

 ぼくの心の中で、彼女の存在がどれほど大きいのか、今さら気づかされた。

「お願い……!」

 もう一度、声を絞り出すと、ぼくの声に応えるかのように華純の瞳が微かに動いた。ぼくの目の前に彼女がいる。遠くの海の音が耳に届く中で、彼女はぼくを見つめていた。一瞬一瞬、胸の痛みが何倍にも強くなり、思わずその場で足を止めそうになった。しかし、次の瞬間にはすべてを投げ出して、華純のもとへ駆け寄っていた。

 彼女を失いたくない――華純への想いだけが、いまのぼくを動かしている。


「華純、華純」

 心の中で何度もその名を繰り返し、ぼくは彼女の手を握り続けていた。

 その手は、まだ暖かかった。それさえも、嘘みたいに頼りなかった。

 まるで広い空間にぼく独りだけが、取り残されているような錯覚に襲われた。時計の秒針がやけに大きく響いて、それがなおさら孤独を際立たせていた。


 ――彼女が生きている。

 その事実だけが、ぼくの心をかろうじて支えていた。

 華純という存在が、本当はこの世にいなかったんじゃないかと思うくらい、儚くて幻想的で美しい記憶だ。こうして手を握っていられるいまに、何度も自分の指先を疑っては、ようやく現実だと信じられた。


 たとえ彼女が家出少女だったとしても、そんな過去はどうでもよかった。ただ、華純が生きていてくれたことが、何よりも嬉しかった。

 気づけば、ぼくは何か月も病室に通い続けていた。

 季節は移ろい、梅雨の湿気が去った後、蝉の声が毎日のように響くようになった。

 ぼくは病室に行くに、窓の外の木々と蝉の声に目を向けて、病室で眠る華純を想い、タブレットにひたすら絵を描いていた。色を重ね、線を重ねた、その一枚一枚が、彼女への祈りのようでもあった。

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