第15話
杏は目を伏せた。
ぼくはどうしていいのかわからなくなった。ぼくはまだ大学生で、華純を養う能力なんてない。でも、杏さんと一緒に住む方が幸せなら、ぼくはいなくなった方がいいのかもしれない。
「葵くんさえよければ、わたしが華純ちゃんを引き取るつもりです。わたし自身、華純ちゃんを守りたいと思っていますから。でも、わたしは海外にいることが多いので、葵くんも一緒に住んでほしいのです。華純ちゃんが望むのであれば、できるだけ生活のサポートをしてあげてほしいです」
杏さんは深く息をついてから、ゆっくりと言葉を噛みしめた。
ぼくは何とも言えない感情に包まれた。華純のために、何かできることはないかと思っていた。彼女が望むなら杏さんが一緒に住むのが一番だろう。
「今すぐ答えを出さなくてもいいです。どうか、わたしの話を聞いて、考えてみてくださいね」
ぼくの胸にしっかりと杏さんの言葉が響いた。
ぼくは、ようやく自分の気持ちが整理できた。杏さんの決意が伝わってきた。華純が幸せに暮らせる場所、それがどこなのか、考えなくてはならない。
「なるほど。話してくれてありがとうございます」
「じゃあ、わたしはこれで失礼します」
杏が帰った後も、ぼくの彼女の言葉が頭の中でぐるぐると回り続けていた。
華純にとって最適な環境は何なのか。ぼくの心の中に渦巻く黒い感情が消えなかった。
杏の言葉を頭の中で反芻していた。華純が望んでいるなら、ぼくはどうしても彼女を助けたい。あの子を支えるために、何かできることはないのだろうか。それはわかっている。いまはただ、華純と再会できることを心から願っていた。
しかし、同時に浮かぶ不安も消えなかった。
「たった一か月しか一緒に住んでいない関係で、何がわかるんだ?」
会いに行っても、ぼくに何ができるだろうか。
たかが大学生でぼくはモラトリアム人間だ。やりたいことも夢もない。両親のように芸術家としての才能もない。なぜなら中学生以降、一度も絵で賞を獲れたことがないからだ。そんな空虚で頼りない人間が華純に会いに行ったところで、一体何の助けになるのだろう?
過去を振り返ると、あのころ、ぼくはただただ華純に依存していただけで、彼女が求めているものに気づけなかった。いま、どうしても彼女に会いたいと思っている自分がいるけれど、何かを失ってしまう恐れもあった。
「もし再会して、また何もできなかったら……」
胸が締め付けられた。すぐにネガティブな思考を振り払って、ぼくは深呼吸をした。
「いや、そんなことを考えても仕方ないよな」
華純に会いたい。その気持ちは、ぼくの中でますます強くなった。彼女がどう過ごしているのか、ぼくのことを好きなのか、それを知れるならどんな困難でも乗り越えていく覚悟があった。
もし会えたなら、きっと何かが変わるはずだと信じたかった。
けれど、同時に不安も押し寄せてくる。再会して華純に拒絶されたらどうしよう。大学生のぼくには何もできないのではないか? その考えが頭をよぎるたびに、胸が苦しくなった。でも、ぼくには華純と会うことを諦めきれなかった。
ぼくは話を聞いた瞬間から、もう何もかもが耐えられなかった。
いつも通りの生活を送っていても、華純のことを考えずにはいられない。
居てもたってもいられず、大学のキャンパスから飛び出すと、冷たい夜風がぼくの顔を切り裂くように吹き抜けた。
街灯がポツポツと灯り、まるで夜そのものがぼくを包み込んでいるようだった。息が荒れ、今にも壊れそうなほど鼓動が暴れている。
それでも華純の笑顔を思い浮かべるたび、病院への足は止まらなかった。
「月岡華純さんは、いますか?」
ぼくは必死に、病院の窓口で叫ぶように尋ねた。息が切れ、身体が震えている。
胸の奥から込み上げる焦りが、足元まで伝わってくるようだ。全身が異常に熱くて、冷たい汗が流れ落ちる。冬の寒さで身体が凍えそうだったはずなのに、病院の中で汗まみれのぼくはまるで異常者のようだった。周りの人々が不安げにぼくを見ている気がして、ますます心臓が速く鼓動する。
「ご家族の方でしょうか?」
受付嬢が淡々と尋ねるが、あまりぼくの耳に入ってこない。華純の顔が頭をよぎり、今すぐにでも華純のいる場所に飛んで行きたかった。
「いえ、違います。でも、大事な人なので、顔だけでも見させてください」
言葉が震えて、思わず声が裏返った。彼女がどんな状況にあるのか、それだけでも知りたかった。ぼくの言葉は無力で、受付の女性はただ首を横に
振るだけだった。
「申し訳ありませんが、親族以外の方を通せません」
その一言が、ぼくの胸に鋭く突き刺さった。自分が完全に排除されたような感覚だった。
「華純が元気かどうかだけでも、教えてください」
声を張り上げたが、ぼくの声が届いていないかのように病院の待合室に虚しく響く。受付嬢の顔は曇っていた。
「大変申し訳ございませんが、情報もお伝えできません」
まるでぼくの心を締め付ける鉄の輪のように感じられた。どうしても華純の顔が見たかった。元気かどうか、それすら知りたかったのに。
「そ、そんなぁ……」
力なく頭を下げる受付嬢の姿に、やるせない思いが込み上げてくる。ぼくは無力だ。立っているだけで何もできない。華純がいま、どうしているのか、ただそれだけを知りたかったのに、会うことすら許されない。
突然、後ろから声がかけられた。
「久しぶり。どうしたの? 葵くん」
振り向くと、そこには見慣れた顔が立っていた。思わず息をのむ。
「お久しぶりです」
心臓が一瞬止まったかのような感覚を覚えた。華純の叔母さんである月岡杏さんだった。顔をよく見れば、いつもの穏やかな表情が浮かんでいたが、その顔がなぜかぼくの心を乱す。
「華純ちゃんなら、病室にいるよ。案内しようか?」
杏さんの言葉が、ぼくの胸を突き刺した。
華純の名前を聞いた瞬間、ぼくはもう何も考えられなくなった。身体が動くのを止められない。どれだけでも、早く会いたかった。あの無力さを感じたくなかった。
杏さんに促されるまま、ぼくはただ、後ろをついていった。病室に向かう足音が、まるで自分の心臓の音のように重く響いていた。
「華純は、無事なんですか?」
ぼくの心臓は、今にも飛び出してしまいそうだった。
「華純ちゃんは、昏睡状態に陥っています」
叔母さんの言葉が耳に入るも、ぼくの頭はその先を考えることすらできなかった。
華純の元気な姿を一刻でも早く見てみたかった。
叔母さんに頼み込み、少しでも近くにいさせてもらえた。華純が眠るように病室のベッドに横たわっている姿を目にした瞬間、ぼくは思わず足がすくんだ。
華純の手に触れられた気がした。いや、ただの錯覚かもしれない。一瞬で華純が消えたとしても、ぼくには手の感触を確実に覚えていた。
ぼくはすべてを捨ててでも、華純を守りたいという想いが胸を突き刺すように強くなった。
彼女に、もう一度会えたことが、どれだけ奇跡的なのか。その事実だけが、いまのぼくを支えてくれていた。
あの一瞬の手のひらの温もりだけでは足りなかった。まだ、ぼくは何もできていない。何も変わっていない。
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