第18話
「そこ右ね!」
背中から嬉しそうな声で指示が飛んでくる。
穂積さんを背負って歩くこと十数分、俺の体力はごりごりと削られていた。
「仰せのままに」
彼女の指示に従って交差点を曲がる。ここから先は自分にとって未開の地だ。
家が遠ざかっていくのを感じながらも、一歩一歩足を踏み出していく。不安がないのは背中にぴったりと触れる感覚のおかげだろう。
「意外と遠いんだね、穂積さん家」
随分と歩いた気がする、超えた街灯の数を覚えていられないほどには。
彼女から返事はない。
「穂積さん?」
耳をすませば、規則正しい呼吸の音。少し頭を傾けると、彼女は穏やかな顔で目を閉じていた。
「まったく、ずるいよ」
そう口から言葉をこぼして歩くスピードを緩める。
静かで大人しい人かと思っていたらお茶目で悪戯好きで、楽しそうに笑うその顔や、やけに近い距離感、知性の宿る瞳に俺はやられっぱなしだ。
「よっと」
両手に力を入れて、彼女を背負いなおす。自分で掴まってくれないから、さっきよりも重さを感じる。
このまま彼女が起きなければ家までたどり着けないんだけど……。
「穂積さーん」
夜も深まってきた住宅街、声のボリュームは落としながら彼女の名前を口にした。
そういえばここ一週間で、これまでの学校生活通した回数以上に穂積さんを呼んでいる気がする。
「ん……」
返ってくるのは掠れた甘い声。
こんなの耳元で囁き続けられたらおかしくなってしまいそうだ。
これは起きてもらうため、他意なんてないと言い聞かせる。
「……あかりさん」
口にした瞬間押し寄せる羞恥心と後悔。人生で初めて、意識的に女性の下の名前を呼んだ気がする。
しかたない、起きないんだから。
「ぁい、ごめんね、寝ちゃってた」
俺の振り絞って出たごく僅かな勇気のおかげで、背中のお姫様は目を覚ます。良かった口付けが条件とかじゃなくって。
「いや、こちらこそ起こしちゃってごめん。家の場所わかんなくてさ」
彼女は辺りを見渡すと、右側を指差した。
「こっち真っ直ぐ行くとすぐ着く!ありがとね」
返事はせずに頷いて、俺は再び足を踏み出した。
◆ ◇ ◆ ◇
やがて柔らかな光を湛えた家に着く。表札には「穂積」の文字。
なんとか彼女を落とさずに連れ帰ることができた。ここ最近で一番体力をつかった気がする。
これは夏休み中筋トレするか?いや、こんなこともう二度とないだろうから必要ないか。
「ここまで送ってくれてありがとね、葉月くん」
「なんとか落とさずに来れて良かったよ」
「最後の方、腕プルプルしてたもんね」
すとんと片足を地面に落としながら、彼女はゆっくりと俺から降りる。
突如空気に晒された背中はじっとりと汗ばんでいて、夏の湿度が乗った風すらも涼しく感じた。
一抹の寂しさが肌を撫でる。
穂積さんが無事帰れたのはいいことのはずなのに、まだ話していたいなんてわがままが、ムクムクと心の中で大きくなってしまう。
「あの、」
今まであったものが無くなると、余計にその存在を感じる。
でも足を痛めた彼女を明日も散歩に誘うのは気が引けて。
俺の制止を振り切って勝手に飛び出した言葉は、行き着く先を失くし宙ぶらりんのままだ。
「葉月くん」
にっこりと笑みを浮かべて、なんでもお見通しだと言わんばかりの穂積さんは俺の名前を呼ぶ。
「明日はさ、電話しようよ」
彼女はいつだって欲しい言葉をくれる。
まるでテストの答えがわかるかのように、ドンピシャ真ん中100点満点の言葉を。
「いいの?」
「どこかの残念委員長が足を滑らせたせいで、クラスメイトに寂しそうな顔させちゃってるから……あ、勘違いしないでね。私だって葉月くんと喋りたいんだから」
頬に熱が上ってくるのを感じる。でもそれは俺だけじゃなくて。
早口で言い切った彼女は家へと振り返る。
その時、今までは静かだった穂積家のドアが開いた。
「あ、あかり。あんた遅いと思ってたら……あら、お邪魔だったかしら?」
奥から顔を覗かせたのはお母さんだろう。
状況を察するや否や、彼女とよく似た笑みを浮かべる。
「もうやめて!じゃ、また明日ね葉月くん!」
穂積さんは足を引きずりながらドアへと向かった。
「あなた足捻ったの?それで……あぁなるほど」
お母さんはサンダルを履くとこちらへ歩いてくる。
「はじめまして、私あかりの母です。葉月君で……間違いないかしら?きっと付き添ってくれたのよね。ありがとうございました」
穂積さんのお母さんは深々と頭を下げる。
突然の展開に動揺を隠せない。
「はい、はじめまして、葉月です。その、ほづみさ……あかりさんとはクラスメイトで」
そこまで言ったところで、彼女に抱いた気持ちがふっと頭を過ぎる。
俺と穂積さんはただのクラスメイトで、今まであまり話したことがなくて、でもこの夏休みで少しだけ距離が縮まって、俺はきっと。
「いえ、大切な友人なので。足、冷やしてあげてくださいね!では!」
気恥ずかしくなって、駆け足で家路を辿る。こんな顔誰にも見せられない。
でも不思議と嫌な気はしなくて。
胸の中に生まれたぬるくて柔らかくて、でも繊細で触れると壊れそうなこの気持ちを、大切に育てていきたいと、そう思った。
それに最後視界の端に映った彼女の顔は、当分忘れられそうにない。
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