第17話

 聞こえるのは自分の心臓の脈打つ音。これが過負荷によるものか、はたまた緊張によるものなのかはわからない。


 背中はじっとりと汗ばんでいて、しかしそんなことを気にする余裕もない。なんてったって、背中に一人女性を抱えているわけだし。


「穂積さん大丈夫?痛くないかな」


 足を前へ踏み出す度に身体が揺れるから、彼女に負担をかけていないか不安になる。


「ん、ありがとね。大丈夫……それよりその発言、場所が違えば危なくない?」


 彼女の表情が想像できる。きっとにやにやしているはずだ。


「さぁ、何の話だろ」


 とぼけてみるが、きっとお見通しだろう。


「わかんなかったらいいや、これ以上深入りするとせっかくの星月夜も曇っちゃいそうだし」


 いつもより近い場所で聞こえる穂積さんの声につられて、空を見上げる。

 そこには夏真っ盛り、数多の星が自己主張していた。明滅しては自分はここにいるんだと、何光年も先から赤や青、黄色に白と色とりどりの光を地球へと投げかけている。


 その中でも一際大きいのが月、自分で光を放っているわけではないのにこの存在感。


 見慣れない満天の星空にふと足を止める。

 そういえば誰かと一緒に星を見たことなんて、これまであっただろうか。


「ずっと見ていたくなるよね」


 無言で頷く。

 簡単な話、言葉が出ない。視界すべてを覆い尽くす光のシャワーに圧倒されて上手く舌が回らないのだ。


「あれがねー、夏の大三角」


 首に巻き付けられていた腕が片方解かれて、頭の横で三角を描く。

 彼女にとってはこの空くらいは日常らしい。痛みなんて少しも匂わせない澄んだ声が、俺の耳朶を揺らす。


 白くて細い指先を追っても、当の有名な三角形は現れない。小学校の理科の授業をちゃんと聞いていれば……。


「ど、どれ?全然わかんないんだけど」


 無知を晒すようで恥ずかしいが、そんなもの今更かと思い直す。

 それよりも彼女の話を聞く楽しさの方が上だ。


「もう……仕方ないなぁ」


 穂積さんは空へと掲げた手を引き戻し、俺の手を取った。

 重力に逆らって腕が上へと持ち上げられる。ピンッと立てた人差し指が空に浮かぶ光を1つずつ指していく。


「まず、これがベガ。こと座ね?」


 青白い光を放つ明るい星。


「次にこれがわし座のアルタイル」


 どこをどう見たら鷲になるんだ……。初めて星座を名付けた人、想像力の塊じゃねぇか。


「最後にあれがデネブ、はくちょう座」


 どうして三角形の頂点のうち2つが鳥なんだ。

 こんなことを考えてしまうから、きっとロマンチストにはなれないのだろう。


 それでも、彼女と同じ視点で見られているということが単純に嬉しくて。


「どでかい三角形だな」


「ね、別に空に三角があるからなんだって話なんだけど」


 そんな元も子もないことを言う穂積さん。

 さっと吹いた一陣の風が髪を揺らす。このまま心の中に溜まった想いすら運んでくれればいいのに。


「何を思ったらたった数個の星で鳥ができるんだろう」


 願い叶わず心に残された想いは、果たして疑問へと形を変えて口から飛びしていく。


「ふふっ確かに……鷲と白鳥の違いをつけるくらいだから何かあるのかもね」


 星々を繋いで星座を作るみたいに、穂積さんの言葉を連ねていけばいつか、いつか彼女の気持ちまでわかったりするんだろうか。


 さらさらの髪が頬を撫でる。


 坂を下るまで、俺たちが言葉を交わすことはなかった。

 どこか心地よくて、寂しい時間。


 夏の夜らしく背中に汗が伝う。


「ごめん、背中、汗……」


「んーん、私もだから」


 再び訪れる沈黙。

 さっきと違うのは、首に回された腕の力が、ほんの少し強まったことだけだった。

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