ドロドロとした甘さ

岬アイラさんの短編小説『いちごじゃむ』を拝読し、そのあまりに鮮烈で、甘ったるくも悍ましい読後感に強く突き動かれました。孤独な少女と、彼女に「お弁当」を差し出すお節介な少女との、微笑ましくも淡い「百合」的な交流を描いた物語のように見えます。しかし、読み進めるう読者の心を「いちごジャム」のようにどろどろに溶かし、最後には冷たい戦慄を残す本作について、私なりの感想を深く綴らせていただきます。
1. 「甘さ」と「不穏」の対比
冒頭から描かれるのは、無機質な購買のパン、そして主人公である「あたし」が口にする、脳をぶん殴られるような甘さのいちごジャムパンです。この「過剰な甘さ」は、本作全体を表しているのかのようです。
不健康な食生活を送る主人公の前に現れる、お弁当を差し出してくれる女子生徒。彼女の存在は、孤独な主人公にとって、最初は救いのように見えます。しかしその「善意」はあまりにも一方的で、どこか浮世離れしているところに、読者は最初の違和感を覚えます。
岬アイラさんの筆致は非常に巧みで、何気ない日常の描写の中に、少しずつ「違和感のトゲ」を混ぜ込んでいきます。なぜ彼女は、名前も知らない主人公にここまで執着するのか。なぜ「いちごジャム」をそれほどまでに否定し、自分の手料理を押し付けるのか。その献身性の裏に潜む、ある種の「狂気」や「支配欲」が、ジャムの粘り気のように読者の肌にまとわりついてくるのです。
2. 「百合」という皮膜に包まれたホラー
本作の特筆すべき点は、ジャンルとしての「百合(女の子同士の関係性)」と「ホラー」が融合している点です。
二人が昼休みを過ごす時間は、一見すれば青春の1ページのようです。しかし、その親密さが増せば増すほど、物語は「相互理解」ではなく「浸食」の様相を呈していきます。
相手のことをもっと知りたい、相手を自分色に染めたい。そんな恋慕に近い感情が、本作では「食事」という行為を通じて描かれています。主人公が食べていたいちごジャムパンを奪い取り、自作の弁当を差し出す行為。それは単なる親切ではなく、相手の体内に入るもの、すなわち相手の身体そのものをコントロールしようとする支配欲の表れでもあります。
タイトルの『いちごじゃむ』が、物語の終盤にかけてその意味を変容させていく過程は、まさにショートホラーの醍醐味です。赤い、甘い、ドロドロとしたもの。それは果実の煮込みなのか、それとももっと生々しい「何か」の隠喩なのか。終盤に明かされる(あるいは予感させられる)真実は、読者の想像力を最悪の方向へと加速させます。
「きみといると、ジャムに溺れるみたいな気持ちになる」という一文は、美しくも恐ろしい。溺れるということは、心地よさと苦しさが同居し、最後には呼吸ができなくなるということです。愛されることの多幸感と、個を奪われることの恐怖。その境界線が、どろどろに溶けて混ざり合っていく描写に、岬アイラさんの手腕を感じました。
それは、現実の世界における「善意」や「愛情」が、時として他者を破壊する凶器になり本作は、その「愛情という名の狂気」を、いちごジャムという日常的なモチーフに凝縮して見せつけてくれました。
さて、これほどまでに鋭利な「恐怖」と「甘美」を提示した岬アイラさんの手腕に、深い敬意を表します。素晴らしい(そして恐ろしい)読書体験を、本当にありがとうございました。

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