3話 - 時逆の調律師


 冥界市の鉱山事故記録を探すうち、私は「硯川」という姓に行き当たった。事故当日、祖父と同じチームに配属されていた硯川伊三次——そして、その孫娘という現役の音楽家がいた。


 彼女の名は硯川幽子。市内の廃工場で時折、夜中にヴァイオリンを弾いているという奇妙な噂が付きまとっていた。




 廃線路の跡は、街の北部を蛇のように這い、錆びたレールの上には月明かりが青白くたまっていた。線路脇の電柱には、無数の釘が打ち込まれ、それぞれに細い黒い糸が結びつけられている。まるで誰かが、この場所で何度も「何か」を縛り付けようとした痕跡のようだった。


「よく来てくれたわね」


 突然、頭上から声が降ってきた。廃線路の信号機の上に、黒いドレスの女性が座っていた。彼女の膝の上には、金属光沢を帯びた奇妙なヴァイオリンが横たえられている。


「幽子さん?」


「うん」


 彼女は軽やかに飛び降り、私の眼前に着地した。近づいて初めて気付いたのは、彼女のヴァイオリンの表面に刻まれた、無数の「傷」だった。それは単なる擦り傷ではなく、まるで金属内部から自然に浮かび上がったような、有機的な紋様だった。


「魂鉄で作られた楽器よ」


 幽子はヴァイオリンの弦に触れながら呟いた。


「祖父が事故の日に坑道から持ち帰った金属片で作ったの。弾くと、時々……『過去の音』が混じるのよ」


 彼女は突然、弓を引き始めた。


 演奏する曲は、明らかに「普通」ではない。最初の一音で、廃線路の空気が歪んだ。私の鼓膜が、演奏に反応しているのではない。皮膚の下の血液が、弦の振動に共鳴しているような感覚だった。


 そして——


 線路の先から、汽笛の音が聞こえた。


「……ありえない」


 錆びたレールの上を、黒い機関車が滑るように近づいてくる。煙突からは煙ではなく、黒い糸のようなものが無数に伸び、空を覆っていた。窓ガラスの向こうには、色あせた制服の人影がゆらめいている。


 幽霊列車。


「これが、事故の日の『最終便』よ」


 幽子の演奏が激しくなるにつれ、列車の輪郭がはっきりしてきた。車内の人影が、窓に手を押し当てている——助けを求めているのか、それとも……


「やめろ!」


 突然、銀色の糸が空中を切り裂き、幽子のヴァイオリンに絡みついた。演奏が止み、列車の動きが一瞬止まる。


「記憶の無断再生は許可していません」


 線路の脇から、枢が現れた。彼の指先から伸びた「量子糸」が、幽子の楽器を締め上げている。幽子の目が恐怖で見開かれた。


「……あなたね」


 彼女の声が急に冷たくなった。


「星蝕亭の主人。祖父たちが坑道で見つけた『あの子』の……」


 枢は無言で糸を引き、幽子の額に触れようとした。記憶を抽出するためだ。


 私は咄嗟に懐中電灯を点け、枢の顔に光を浴びせた。


「やめろ!」


 光が彼の銀河の瞳に反射した瞬間、異変が起きた——枢の影が、四方向に分裂したのだ。まるで光を屈折させたかのように、影が不自然に伸び、地面を這い始める。


「…………」


 枢はゆっくりと手を引っ込めた。彼の表情は変わらないが、初めて「何かを考え込んでいる」ような間が生まれた。


「面白い」


 彼は私をじっと見つめながら呟いた。


「あなたの光は、通常の電磁波ではない。魂鉄と共鳴する『調律光』だ」


 幽子はその隙に逃げ出していた。廃線路には、彼女の落とした楽譜の切れ端が舞っていた。そこには、「1945年3月17日 天照丸 輸血室」と走り書きされたメモが残されている。


 枢はそれを拾い上げ、月光にかざした。


「彼女は意図せず、私の『古い仕事場』を呼び出していた」


 私はまだ息が荒かった。懐中電灯を握った手が震えている。


「……お前、いったい何なんだ?」


 枢は楽譜をポケットにしまい、廃線路の向こうに消えかかる幽霊列車を見つめた。


「私の種族には、あなたの言語で発音できる名前はない。ただ……」


 彼は初めて、ためらいを含んだ声で続けた。


「かつてこの星で『医療用ナノマシン』と呼ばれたものと、私は近縁かもしれない」


 風が吹き抜け、幽霊列車の残像が完全に消えた。残ったのは、錆びた線路と、私たち二人だけだった。


 だが、ふと気付くと——


 線路の枕木の間に、新しい手形が幾つも付いていた。


 それは、幽子のものではなかった。

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