2話 - 骨鳴浜の量子足跡


 枢からの連絡は、星蝕亭を出て三時間後に届いた。スマートフォンの画面に浮かんだのは、骨の形をした浜辺の座標と、たった一行の文章だった。


「午後4時17分に潮が引く。その時に見えるものを記録してほしい」


 メッセージの直後、知らない番号から画像ファイルが送られてきた。写っているのは、白衣の男が病院のベッドで痙攣している様子だった。男の左手首には、時計の針が反時計回りに回転する奇妙な時計が巻かれている。添えられたテキストには「潮崎豪・量子記憶汚染第3段階」とある。


 約束の時間の30分前、私は潮の引いた浜辺に立っていた。この場所が「骨鳴浜」と呼ばれる理由がすぐに理解できた。波打ち際に打ち上げられた貝殻が、すべて白骨のような白色で、踏みしめるたびに軋む音が人間の歯ぎしりのようだった。海風の中に混ざるホルマリン臭が、解剖室の記憶を呼び起こす。


「来てくれたんだ」


 振り返ると、写真の男――潮崎豪が波止場の廃材に凭れていた。白衣は現地調達したのか、サイズが合っておらず、右袖からは逆回転する腕時計がのぞいている。彼の目の下には、二晩もろくに眠れなかったような青黒いクマが刻まれていた。


「枢さんの依頼でしょ? あの男、人を使い捨てにするタイプだと思ってたけど」潮崎は干潮線を指さした。「今日は特別な日なんです。1945年3月17日、病院船天照丸が撃沈された時刻と潮位が、量子もつれで再現される」


「量子もつれで…幽霊が見えると?」


 潮崎の笑みがこわばった。「幽霊なんて非科学的なものじゃない。『量子記憶』です。強い感情が時空に刻まれた傷痕が、特定の条件で再生される現象だ」


 彼の説明は、まるで講義のようだった。骨鳴浜一帯の砂には、宇宙から飛来した「魂鉄」の微粒子が含まれている。その特殊な性質が、この場所で起きた悲劇を記録し続けているという。潮崎は逆回転する時計を見ながら続けた。


「問題は、記憶が能動的に『捕食』し始めたことです。最初は夢の中に現れるだけだったのが、今では…ほら、あそこにいる」


 潮崎の指先を追って目を凝らすと、波間にかすかに人形のような影が見えた。白い看護帽を被った少女が、砂浜を歩き回っている。距離が縮まるにつれ、不自然な点に気付いた。少女の足元に波紋が立たないこと。そして、彼女の周囲の砂が、無数の手形で埋め尽くされていることだ。


「あれは…」


「輸血用の瓶を探している」潮崎の声が震えた。「天照丸沈没時、看護婦が必死で運ぼうとした血液の瓶です。その記憶が79年間、毎日繰り返されている」


 少女の幽霊が私たちの眼前を通り過ぎた瞬間、異変が起きた。潮崎の時計が狂ったように速く逆回転し始め、同時に砂浜の手形が生々しい肉色に変化した。潮崎は突然膝をつき、耳から血を流しながら叫んだ。


「離れて! こいつは新しい宿主を…!」


 砂の中から無数の手が浮かび上がり、潮崎の手足を掴んだ。最も恐ろしかったのは、その手のひら一つ一つに、ちゃんと指紋らしきものが刻まれていたことだ。これは単なる幻覚ではない。過去の「実体」が、量子レベルで現在に侵入してきている。


 私は潮崎を引き剥がそうとしたが、逆に自分まで手形に引きずり込まれそうになった。その時、背後で潮騒とは明らかに異なる「音」が聞こえた。銀の糸が風に鳴るような高音だ。


「観測を中断します」


 枢の声とともに、青白い光の糸が空中を駆け巡った。それは生きたようにうねりながら、潮崎の体に絡みついていく。細い光が皮膚を貫く瞬間、潮崎の眼球が不自然に白濁し、喉から機械仕掛けのようなうめき声が漏れた。


「量子汚染レベル4。隔離が必要です」


 枢は冷静に宣告すると、光の糸で潮崎の体を包み込んだ。糸が収縮するにつれ、潮崎の体が驚くほど小さく「折りたたまれ」ていく様は、まるで四次元折り紙のようだった。最後に残ったのは、掌サイズの立方体――中で潮崎の姿が微かにうごめいている。


「彼は72時間で安定します。それまで星蝕亭の記憶保管庫で」


「待って! いったい何が…」


 私の問いかけを遮るように、砂浜の手形が一斉に握り拳になった。看護少女の幽霊が、血の涙を流しながら私たちを見つめている。枢はその少女に向かって、何か古代語のような言葉を投げかけた。少女の形が歪み、代わりに錆びた輸血瓶が砂の上に転がり落ちた。


「これで1945年のループは解けます。ただし…」


 枢が拾い上げた瓶の中には、黒い液体ではなく、銀色に光るナノマシンの集塊が封じられていた。彼はそれを懐に収めると、潮崎の入った立方体を軽々と持ち上げた。


「潮崎さんの研究は正しかった。ただ、彼は知るべきでない真実に触れてしまった」


 夕日が水平線に沈む瞬間、骨鳴浜の砂は再び白骨色に戻った。だが、私のブーツの底には、生温かい人間の手の感触がこびりついたままだった。枢が遠ざかる背中を見ながら、一つの疑問が頭を支配していた。


 あの看護少女は、本当に「幽霊」だったのか? それとも、枢と同じ「何か」だったのか?

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