僕と×××。と香織の物語

なお。

第一章 僕と…

闇にしのび寄りしナニカ 1

 これは私がまだ小学生だった頃のことだ。

 当時の私は耳の病気にかかり聴力が弱まり、人との会話でさえも言葉を聞き取りにくいことがよくあった。

 しかし、その日常生活は友達とよく遊び、勉学に励む、どこにでもいる普通の小学生男子だった。

 ある一点を除いては…。


 ◇


「怖い…、何か後ろにおるんよ…。夜は怖いんよ…」


「何を言ってんのや。はよぉ、トイレに行ってきぃ!」


「いや、何かおるんやって! わからんの?」


「わしの目には何も見えん。お前が言うような非科学的なもんはこの世にはおらん。しょうもないこと言うてんとさっさと行き!」


 僕はそう父に怒られ、しぶしぶ一人でトイレに向かう。家の中は電気の灯りが眩しく、何の不安もない。

 問題は、勝手口を出るところからだった。

 この家のトイレは外にあった。庭に灯りは一つもない。夜の庭は一面が漆黒の闇に包まれている。

 その真っ暗闇の庭の中にトイレがあった。もちろん、トイレまで行ってスイッチを押せば灯りはつく。だが、そこまで行くのだけでもとてつもない勇気が必要だった。

 勝手口の引き戸に手をかけ横に引く。引き戸はガラガラと音を立てながら外界と屋内を隔てていた境界を無くした。

 目の前には闇が広がる。この晩は空が雲に覆われており月の光すらもない。屋内の光に慣れていた瞳はすぐには対応出来ず、数メートル先すらよく見えない。

 後ろでは仁王立ちした父が怒りの形相で僕の背中を睨みつけている。

 僕は諦めると同時に覚悟を決めて一歩を踏み出す。一歩、また一歩と前へ進むにつれて身体が闇の中へと吸い込まれていくようだ。十歩も進むと僕の周りは完全な真っ暗闇だ。

 しんと静まり返った夜の庭。ときおり、虫の声が聞こえる。そんなはずもないのだが、闇の中には何かの息遣いを感じる。

 全身の肌には鳥肌が立ち、背筋にはじっとりと汗が浮かぶ。

 勇気を出してどんどん前へ進む。進めば進むほど振り返ることは出来ない。闇に包まれた頃から、すでに背後にナニカの気配があったからだ。

 何もいないかもしれない。でも、いるかもしれない。そう思うと、どうしても振り返ることは出来なかった。

 そして、僕はなんとかトイレへと辿り着く。それは僅か三十秒程度のことなのだが、何分にも感じた。

 トイレには天井と横壁があるだけで扉はない作りになっている。用をたすときに後ろからは丸見えだ。

 トイレのスイッチを押すと、チカチカと音をたてて点滅した電球に灯りがともる。しかし、その光は儚げでとても頼りないものだった。

 薄暗いトイレの中でズボンを下ろす。電球がジィーーーーと音を立てている。

 首筋につるりと汗が流れ落ちる。背筋にゾクゾクっと寒気が走る。

 ………、いる。暗闇から何かがこちらを見ている気配がする。背中をじーっと凝視している。

 鼓動が早まる。急いで小便を済ませ家の中へと戻ろうとする。

 しかし、ここで僕に重大な問題が発生する。

 そう…。家に戻るためには、後ろを振り返らなければならないのだ…。


 ドクン…、ドクン…、ドクン…。


 恐怖と早く家の中に戻りたい気持ちがせめぎあう。


 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ…。


 何かが庭をゆっくりと移動する音が聞こえる。父の足音はこんなに遅くないし軽くもない。では、何が動いているというのか?

 僕の鼓動はさらに早まり自分でもその音が聞こえるかのようだ。


 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ…。


 その足音は確実に私の元へと近づいてくる。僕は恐怖で動けなくなった。息を吸ったまま吐くこともできない。

 僕には後ろを振り返ってそのナニカを確認する勇気はない。目を閉じるのは視界が闇になるのでもっと怖かった。

 ただそこに固まり立ち尽くすのみだった。


 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。


 足音がとまる。私の後ろにいる。振り返らなくてもわかる。背中には玉汗が浮かび、シャツを濡らし張りつく。

 背後の何かは動かない。僕も動けない。

 どれくらいの時が経ったかはわからない。

 僕が意を決して後ろを振り返ろうとしたその時、後ろから父の声がした。


「どうしたんや? 終わったか?」


「う、うん。いつからいたん?」


「今来たとこやで。戻ってこんで見に来たんや。どうしたんや?」


「そっか…。なんでもない」


 僕は父と一緒にトイレの電気を消して家の中へと戻った。


 ◇

 

 夕飯を食べ、家族でテレビを観て笑う。どこにでもある普通の小学生の日常。僕は飼い猫のチビと一緒にテレビを見ながらゴロゴロしていた。


「お風呂あいたでー! さっさと入りやー」


 母の大きな声が土間から響く。食器を洗いながら叫んだようだ。

 僕は「わかったー」と母と同じように大きな声で返し、お風呂へ場と向かった。


 お風呂はトイレとは違い家の中にある。しかし、脱衣所は薄暗くトイレの雰囲気に似ている。だから、急いでお風呂の電気をつけて光量を上げるのだ。

 僕は服を脱ぎ洗濯カゴへ投げ込む。脱いだ服は見事にカゴへ吸い込まれていく。「絶好調!」とガッツポーズをする。

 そして、僕は身体を拭くタオルを脱衣所に準備し、お風呂場の扉を開けた。

 お風呂は一面タイル張りで、風呂釜は昔ながらの五右衛門風呂だ。五右衛門風呂と聞くと、薪でお湯を沸かすのをイメージするが、残念ながら薪でお湯を沸かすことはなく、ガスのボイラーに頼っている。

 僕は湯船に浸かる前に必ず身体を洗う。頭から順番に顔、首、上半身、下半身と上から下へ向かって洗うのだが、ここで最初の関門が待ち受けている。

 そう、頭、髪の毛を洗う為には目を閉じなければならないのだ。当たり前だが目を閉じると視界は真っ暗闇となり、周囲の気配が敏感に感じ取れるようになる。

 そうすると、ヤツがやってきているのがわかってしまうのだ…。

 僕は何とか目を閉じずに髪の毛を洗おうと工夫を凝らす。しっかり泡立てれば洗っている間は顔に泡が垂れてくることはない。問題は泡を流す瞬間である。

 僕は立ったまま後ろに身体をそらした状態で顔に水がかからないように泡を流したり、顔の角度を調整して顔に水が流れてこないようにして、毎日のそれをやり過ごしていた。

 今日は顔の角度を調整するパターンでいく。僕は顔の角度を変えながらシャワーのお湯を髪の毛にあてて泡を流す。

 今日も順調に泡を流していく。最後まで顔に垂れてくることなくやりきった。

 僕は「絶好調!」とガッツポーズをする。

 そして、顔はそそくさと急ぎ気味に洗い、済ませてしまう。その後、身体も洗い終わることで今日も何とか暗闇の恐怖と闘わずに済んだと胸を撫でおろす。


「ふぅー、なんとかなったぁ。さぁ、お湯につかってゆっくりしよ」


 うちの湯船のお湯はいつも熱い、それはもうとんでもなく熱い。釜茹でになるんじゃないかと思うほどだ。

 僕は恐る恐るつま先からゆっくりとお湯に足を入れていく。「くっ」と声が漏れる。そして、息を止め熱さに堪える。

 両足が入ったところでそのままゆっくりと腰をおろしていく。この時も、もちろん息を止めてだ。

 僕は何とか肩までお湯に浸かると息をゆっくりと吐き出した。


「はあぁぁぁ」


 全身にお湯の温度が染み渡っていくのがわかる。芯からぽかぽかと温まるようだ。

 そのまま、ぼぉーっと湯船に浸かって過ごす。

 数分経った頃、辺りがやけに静かな事に気づく。


 あれ? いつもより静かやな。

 土間には母もいるはずやし、居間には家族もいる。

 トイレに行く人も誰もおらへんのか?

 物音が全然してへん。


 そう思っていると…。


 チカチカ…、チカチカ…。


 突然、点滅をはじめるお風呂場の電球。

 その瞬間、熱いお湯に浸かっているにもかかわらず背筋が一気に寒くなる。全身に鳥肌が立ち、冷や汗が浮かんでいるのがわかる。


「誰や! やめろや!」


 僕は恐怖のあまり、誤魔化すかのようにナニカに対して怒鳴ったその瞬間…。


 ブチッ…。


 お風呂場の中は一瞬にして漆黒の闇と化した。


「むふぅぅぅぅぅぅ」


 僕は恐怖のあまり言葉にならない呻き声をあげ、反射的に目を閉じてしまう。


 あかん…、閉じてしもうた…。

 もう、目を開けらへん…。

 だって、絶対そこにおるやん…。


 僕は心の中で泣いた。

 目を開けていても闇の中にソイツはいるだろうし、もちろんそれを直視などできようはずもない。かと言って、目を閉じればその気配を肌で敏感に感じることになる。

 気配は湯船の前で止まっている。こちらをずっと凝視しているのをはっきりと感じる。

 どっちに転んでも僕が助かる道は耐える以外になかった。早く電気がつくことだけを祈り湯船につかる。震えながらただただ念じる。


 頼む、早く電気ついてくれ!

 何で誰も来ぇへんのや。電気消えてるんやから、様子見に来てくれてもえぇやん。


 その後、何分経ったかはわからないが電気は唐突にその光を取り戻した。

 僕はすぐに目を開けてお風呂場から出ようとする。一刻も早く誰かのいるところへ行きたかった。湯船から飛び出し、急いで浴槽の蓋をしめると、お風呂場の扉を勢いよくあける。

 しかし、僕はお風呂場から出る前にその足を止めた。止めざるを得なかった。一瞬にして息が止まり、全身に再び鳥肌が立つ。

 僕の目の前の床板には、誰かの濡れた足跡が一つだけ、くっきりとついていたのだから…。



 その頃、庭の暗闇には白い顔が一つ浮かんでいた。身体は闇と同化しているのかそこにあるのかもわからない。

 顔だけが闇の中にぼぉっと浮かび上がっている。その顔は満面の笑みだったがどこか不気味なものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る