第二十六話:帝のプレリュード、MAの慟哭
「修羅の頂」に、荘厳なるゴングの音が鳴り響いた。俺、相馬海斗こと「KITE」と、FX界の絶対王者エンペラー、「帝」との最終決戦の火蓋が、ついに切って落とされたのだ。対戦通貨ペアとして選ばれたのは、世界で最も取引量が多く、それ故に最も多くのトレーダーたちの思惑と欲望が交錯する「ドル円」。
帝は、フィールドの中央に静かに佇み、仮面の下の双眸だけが、無機質にチャートの動きを追っている。微動だにしないその姿からは、一切の感情も、戦略の意図すらも読み取れない。ただ、そこに存在するだけで放たれる圧倒的な威圧感が、俺の肌をピリピリと刺す。
観戦席では、Solitary Roseが祈るように手を組み、フィボルト、高遠、神崎、ドクター・マインドといった元四天王たちは、固唾を飲んで戦況の始まりを見守っている。自宅のモニターの前では、高柳師匠が静かに目を閉じ、ただ一点を見つめていた。
戦いが始まると、帝はまるで悠久の時を生きる巨岩のように、しばらくの間、一切の動きを見せなかった。市場は、重要な経済指標の発表もなく、比較的穏やかな値動きを続けている。俺は、師匠に叩き込まれたMA一本の戦略に全神経を集中させ、20SMAが示す微細な変化を捉えようと努めた。
(エンペラーは、どんな戦い方をしてくるんだ…? テクニカルか、ファンダメンタルズか、それとも…)
焦りが生まれそうになる心を抑え、俺はMAが示す小さな上昇のサインに従い、慎重に買いエントリーを入れた。ほんの数pipsの利益を狙う、地道なトレードだ。
その瞬間、まるで俺のエントリーを待っていたかのように、帝が動いた。
彼の最初の一手は、俺の想像を遥かに超えていた。それは、特定のテクニカル指標に従ったものでも、ファンダメンタルズに基づいたものでもない。まるで、市場全体の呼吸を読み切り、全ての参加者の心理を見透かしたかのような、神懸かり的なタイミングでの巨大な売り注文だった。
それは、俺がエントリーした直後の、ほんのわずかな上昇のピークを完璧に捉えていた。ドル円は、帝の売り注文を合図にしたかのように、一気に反転し、急落を始めた。
「なっ…!?」
俺の買いポジションは、あっという間に含み損へと転落する。慌てて損切りするも、既に小さくないダメージを受けていた。
帝のチャート画面は、バトルプラットフォームの機能で観戦者にも公開されていたが、それは驚くほどシンプルだった。ローソク足と、数本の水平線。そして、彼が独自に設定していると思われる、非常に長期の移動平均線が一本引かれているだけのように見えた。だが、そのシンプルな画面から繰り出されるトレードは、フィボルトの精密なチャートパターン分析も、高遠の先見的なファンダメンタルズ予測も、神崎の超高速アルゴリズムも、ドクター・マインドの心理操作すらも、全てを内包し、そして凌駕しているかのような、絶対的な精度と力強さに満ちていた。
「これが…エンペラーのトレード…」
俺は、これまでの戦いで得た全ての知識と経験をMA一本に注ぎ込み、必死に応戦しようと試みた。MAが示すトレンドの初動を捉え、小さな利益を積み重ねようとする。フィボルトから学んだパターン認識、高遠から教わった市場の大きな流れ、神崎のアルゴリズム思考の裏をかく発想、ドクター・マインドとの戦いで得た精神的な強靭さ…その全てを駆使した。
序盤は、何度か帝の仕掛けを回避し、MAのサインに従ったトレードで微益を上げることもできた。「いける…! エンペラー相手でも、俺のMAはまだ死んでいない!」そう思った瞬間もあった。
だが、それは帝の掌の上で踊らされているに過ぎなかった。
俺がMAを信じて買いでエントリーすれば、市場は不可解なまでに反転し下落する。MAが明確な売りサインを示し、俺が自信を持って売りポジションを建てれば、今度は突発的なニュースでもないのに価格が急騰し、俺の損切りラインを正確に刈り取っていく。まるで、帝が俺の思考を完全に読み切り、市場そのものを意図的に動かして、MAのサインをことごとく「ダマシ」に変えているかのようだった。
「なぜだ…!? MAが…MAの動きが、全く見えない…! 帝のトレードの前では、ただのノイズになってしまうのか…!」
俺のMAは、次第にその輝きを失い、ただの無力な線と化していく。これまでの戦いで揺るぎないものへと育ってきたはずのMAへの信頼が、根底からグラグラと揺さぶられるのを感じた。額から、冷たい汗がとめどなく流れ落ちる。
「その程度の光か、挑戦者よ」
初めて、帝のアバターから、嘲るような短いチャットメッセージが送られてきた。その言葉は、地響きのように俺の心に重くのしかかる。
「我が闇を照らすには、あまりにも儚く、そして取るに足りぬな」
俺の証拠金は、帝の容赦ない、そして的確すぎる攻撃の前に、みるみるうちに削られていく。精神的にも極限まで追い詰められ、思考が真っ白に停止しかけていた。
チャットウィンドウは、もはや絶望的なコメントで埋め尽くされている。
『これが…これがエンペラーの力なのか…桁が違いすぎる…』
『KITE、もはやなすすべなしか…MA一本の奇跡も、ここまでなのか…』
『まるで、神に戦いを挑んでいるようだ…』
Solitary Roseは、唇を強く噛み締め、画面を睨みつけていた。元四天王たちも、皆、沈痛な表情を浮かべている。
万策尽きたのか…? 俺のMAは、この絶対的な力の前に、本当に無力なのか…?
膝から崩れ落ちそうになるのを、俺は必死で堪えた。その時、ポケットの中で握りしめていた黒い「道しるべの石」が、まるで最後の力を振り絞るかのように、再び、熱く、強く脈打った。
(まだだ…まだ、終わっていない…!)
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