第二十五話:絶対王者エンペラー、漆黒の降臨
決戦当日の朝。俺、相馬海斗は、高柳師匠と無言で食卓を囲んだ。いつもと変わらない質素な朝食。だが、その一口一口が、まるで最後の晩餐であるかのような重みを伴っていた。食後、師匠と共に庭先で日の出を拝み、最後の精神統一を行う。
「海斗」
背後からかけられた師匠の声は、いつになく厳かで、そして温かかった。
「お前はお前らしく、お前が信じるMAと共に、ただひたすらに舞え。結果は、自ずとついてくる。ワシは、それをここで見届けよう」
「はい、師匠」
振り返ると、師匠は力強く頷いてくれた。その瞳の奥に、万感の想いが揺らめいているのを感じた。俺は、師匠から託された黒い「道しるべの石」を強く握りしめ、決戦の場へと向かうべくPCの前に座った。
「狼たちの牙」バトルプラットフォーム内に特設されたステージ、「修羅の頂」。ログインすると、そこはまるで天空に浮かぶ古代の闘技場のような、荘厳かつ異様な雰囲気に包まれていた。円形に配置された観戦席には、既にSolitary Rose、そしてフィボルト、高遠、神崎、ドクター・マインドといった元四天王たちの姿が見える。さらに、「ふわふわ♪わたあめ」のアバターも、ちょこんと片隅に座っているのが確認できた。彼らのアバターは皆、固唾を飲んで中央のフィールドを見つめており、チャットウィンドウも、この瞬間に限っては静寂を保っていた。
俺のアバター「KITE」がフィールドの中央に転送される。深呼吸を一つ。感じるのは、極度の緊張と、それを上回る武者震いにも似た高揚感だ。
そして、約束の時刻。
空間が陽炎のように揺らめき、フィールドの対面に、一体のアバターがゆっくりと姿を現した。
それが、エンペラーだった。
彼のアバターは、古代の皇帝を思わせる、漆黒の豪奢な礼装に身を包み、顔の上半分は精巧な細工が施された仮面で覆われていた。その仮面の下からのぞく瞳は、全てを見透かすかのように鋭く、そして底知れない深淵を湛えている。ハンドルネームは、ただ一文字――「帝」。
彼がフィールドに降り立った瞬間、観戦席全体が凍りついたかのような圧迫感に包まれた。チャットウィンドウも、まるで時間が止まったかのように静まり返っている。ただそこに存在するだけで、場の空気を支配する絶対的な威圧感。これが、エンペラー…。
バトル開始を前に、運営の解説者が、震える声でエンペラーの過去の「伝説」を語り始めた。
「皆様、ご存知の通り、エンペラー様は、過去十数年に渡り、“修羅の宴”の頂点に君臨し続ける絶対王者でございます! 数年前の世界同時株安の際には、その数ヶ月前から市場の変調を予見し、国家予算にも匹敵する天文学的な利益を叩き出したと記録されております! また、彼に挑み、そして敗れ去った数多の天才トレーダーたちが、その圧倒的な力の前に再起不能なまでに精神を打ち砕かれたという逸話は、枚挙に暇がございません! ある者は彼を『市場の化身』と呼び、またある者は『相場の摂理そのもの』と畏怖をもって称えました!」
観戦席の元四天王たちも、その解説を聞きながら、エンペラーと対峙した(あるいはその戦いを目撃した)過去の恐怖をまざまざと思い出しているのか、皆一様に表情を硬くしている。
フィボルトが、隣に座る高遠にだけ聞こえるような小さな声で呟いた。
「あの男は…市場の全てを、まるで自分の手駒のように動かしているかのように振る舞う…。我々のテクニカルもファンダメンタルズも、彼の前では児戯に等しいのかもしれん…」
その頃、高柳師匠は、自宅の薄暗い和室で、モニターに映し出される「修羅の頂」の光景を、静かに見つめていた。エンペラー――「帝」と名乗るあのアバターの姿を目にした瞬間、師匠の脳裏には、遠い昔の記憶が鮮やかに蘇っていた。
若き日、同じように市場の頂点を目指し、時には協力し、時には激しく火花を散らした、かけがえのない好敵手の姿。その男が、いつしか市場の力に魅入られ、他者を蹂躙し、歪んだ支配者「帝」へと変貌していくのを、なすすべもなく見ているしかなかった苦い記憶。そして、ある決定的な出来事――親友の破滅――をきっかけに、師匠は FXの表舞台から完全に身を引くことを決意したのだ…。
師匠は、モニターの中の「帝」のアバターを見据え、絞り出すように呟いた。
「お前は…何も変わってはおらぬのか…あの時のまま、孤独な玉座に座り続けているというのか…!」
「修羅の頂」では、エンペラーが、仮面の下から初めてその声を発した。それは、地底から響き渡るような、重く、そして冷え切った声だった。
「小僧…いや、新たなる挑戦者、KITEとやら。我が退屈を、少しは紛らわせてくれるのだろうな?」
その言葉は、絶対的な王者の余裕と、挑戦者への容赦ない宣告のようにも聞こえた。俺は、エンペラーの圧倒的な威圧感に一瞬息を呑んだが、すぐに左手で握りしめた「道しるべの石」の温かさを感じ、意識を集中させた。
「俺は、俺のやり方で、あんたに勝つ! あんたの支配を、終わらせるためにここに来た!」
MA一本。そのシンプルな武器を握りしめ、俺は真っ直ぐに「帝」を見据えた。彼の仮面の下の瞳が、ほんのわずかに細められたような気がした。
ついに、FXの歴史を揺るがすであろう、最後の戦いの火蓋が、今、切って落とされようとしていた。
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