第十七話:束の間の陽光、薔薇の素顔

四天王が一人、「世界を読むストラテジスト」高遠を破ったという事実は、俺、相馬海斗こと「KITE」の名を、「狼たちの牙」の参加者たちの間で伝説的なものへと押し上げていた。チャットウィンドウは俺への賞賛と、古参の猛者たちからの興味津々なコメントで埋め尽くされ、ランキングも一気にトップグループへと躍り出た。

高遠から託されたファンダメンタルズ分析のフレームワークは、まるで未知の宇宙への航海図のように複雑で、しかし刺激に満ちていた。高柳師匠は、その資料に目を通すと深く頷き、こう言った。

「テクニカルは、星の運行を読み解き、天候を予測する天文学のようなものじゃ。対してファンダメンタルズは、大地の声を聞き、種を蒔き、実りを待つ農学にも似ておる。どちらも自然の摂理、市場の理(ことわり)じゃ。海斗、お前のMAは、その天と地を繋ぐ地平線となるやもしれんな」

師匠の言葉を胸に、俺は新たな修行に没頭した。それは、MAが示すテクニカルなサインと、主要なファンダメンタルズ要因が市場に与える影響を複合的に分析し、より確度の高い未来を予測しようという試みだった。それはまるで、無数の星屑の中から、確かな星座を見つけ出すような、困難だがやりがいのある作業だった。

そんな修行の合間、バトルプラットフォームにログインすると、Solitary Roseからプライベートチャットが届いているのに気づいた。

『高遠にも勝ったそうね。あの石頭のファンダ親父を打ち負かすなんて…運も実力のうち、とは言うけれど、あなたのあの移動平均線、少しはマシになったのかしら?』

相変わらずの棘のある言い回し。だが、その文面には、以前のような嘲りではなく、ほんの少しの…いや、気のせいかもしれないが、好奇心のようなものが滲んでいるように感じられた。

「あなたのアドバイスのおかげでもあります。あの論文、すごく参考になりました。ありがとうございます」

俺は素直に感謝の言葉を返した。彼女のヒントがなければ、高遠のファンダメンタルズの壁を打ち破ることはできなかっただろう。

『べ、別にあなたのために送ったわけじゃないんだから! あれは一般論よ、一般論!』

慌てたような返信に、俺は思わず口元が緩む。

『…まぁ、いいわ。もし、あなたが自分のMAにまだ少しでも可能性があると思っているのなら…直接見てあげてもいいわよ。評価くらいは、してあげるから』

そのメッセージは、あまりにも意外で、俺は一瞬、自分の目を疑った。あのSolitary Roseが、俺に会ってくれる?

「それって…本当ですか?」

『気が変わらないうちに、さっさと決めなさいよ。時間は有限なの』

かくして俺たちは、週末の昼下がり、都心にある緑豊かな公園で会うことになった。バトルプラットフォームのアバターではなく、私服で顔を合わせるのは、あの書店での最悪な再会以来だ。

待ち合わせ場所に現れた彼女は、いつものバトルスーツのようなシャープな服装ではなく、白いブラウスに落ち着いた色合いのフレアスカートという、少しラフな、しかし洗練された出で立ちだった。陽光の下で見る彼女の艶やかな黒髪は、アバターの深紅の薔薇とはまた違う、自然な美しさを放っている。それでも、その凛とした佇まいと、どこか人を寄せ付けないオーラは健在だったが。

俺もまた、いつものTシャツにジーンズという格好で、少しばかり緊張しながら彼女の前に立った。

「…どうも」

「…ええ」

ぎこちない挨拶。最初は、やはりFXの話題ばかりだった。最近の市場の動向、注目している経済指標、そしてお互いのトレードスタイルについて。彼女の知識の深さと分析力の鋭さには改めて舌を巻いたが、俺もまた、師匠や二人の四天王から学んだことを元に、自分の意見を述べた。彼女は時折、鼻で笑ったり、鋭い指摘を入れたりしたが、以前のように一方的に論破しようとはしなかった。

公園のベンチに並んで座り、何気なく景色を眺めていると、彼女がふと、小さな声で呟いた。

「…たまには、こういうのも悪くないわね」

その横顔は、いつも画面越しに見ている「孤高の薔薇」とは違う、どこか柔らかく、年相応の女性のそれに見えた。俺は、ドキリと胸が高鳴るのを感じた。

「あの…Solitary Roseさんって、いつもあんな感じでトレードしてるんですか? その、すごく集中してて…」

「当たり前でしょう? FXは遊びじゃないのよ。一瞬の油断が命取りになる世界だもの。…あなたみたいに、のんびり移動平均線一本で勝てるほど甘くはないわ」

「でも、あなたは勝ってるじゃないですか。すごく…強い」

「…別に。当然のことをしているだけよ」

彼女はそう言ってそっぽを向いたが、その耳がほんのり赤いことに、俺は気づいてしまった。

その後、彼女が実は方向音痴で、この公園に来るのにも少し迷ったことや、意外にも甘いものが好きで、この後、近くにある有名なパティスリーに寄って新作のケーキを食べるのを楽しみにしている、といった他愛ない話を聞くうちに、俺は、彼女の鎧の下にある素顔に触れたような気がした。強く、孤高で、しかしどこか脆さも秘めているような…。

「あ、あのさ…もしよかったら、そのケーキ、俺にも一口…いや、なんでもないです!」

慌てて言葉を引っ込める俺を見て、彼女は呆れたようにため息をついたが、その口元には、ほんのわずかに笑みが浮かんでいたように見えた。

夕暮れが近づき、そろそろ別れの時間が迫ってきた。名残惜しさを感じていると、彼女がふいに言った。

「…まぁ、今日のあなたの話を聞く限り、少しはマシになったみたいね。でも、勘違いしないで。次の四天王は『アルゴリズムの魔術師』よ。あなたのその情緒的なMAが、あの完全無欠の機械の怪物にどこまで通用するか…少しは興味あるわ」

まただ。挑発的な言葉の中に、次の対戦相手の情報をポロリと漏らす。これは、彼女なりのエールなのだろうか。

「また…会えますか?」

夕焼けに照らされた彼女の顔を見つめながら、俺は思わずそう口にしていた。

彼女は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの調子でフンと鼻を鳴らした。

「…気が向いたら、考えてあげなくもないわ」

そう言い残し、彼女は夕陽に染まる公園を後にした。その小さな背中を見送りながら、俺の胸の中には、今まで感じたことのない温かい想いが確かに芽生えているのを感じていた。

彼女に認められたい。そして、いつか…彼女と肩を並べて、同じ景色を見てみたい。

次なる強敵、「アルゴリズムの魔術師」。そして、淡く色づき始めた恋の予感。その二つが、俺の心を強く満たし、新たな戦いへと駆り立てていた。


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