第二話:移動平均線との出会い

昨夜の土砂降りが嘘のように、空はからりと晴れ渡っていた。俺、相馬海斗は、濡れた服を着替え、ぼんやりと窓の外を眺めていた。手の中には、あの謎の老人からもらった黒い石が握られている。ひんやりとしているのに、なぜかじんわりとした温かみが掌に伝わってくる不思議な石だ。

「大きなものを背負い込んでいる顔…か」

老人の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。そして、「その目、まだ死んではおらんようじゃ」という言葉も。絶望の淵にいた俺にとって、それは微かだが確かな光のように感じられた。

気づけば、俺はアパートを飛び出し、昨日老人を助けた公園へと向かっていた。もう一度会いたい。あの老人に。そして、もっと話を聞いてみたい。そんな衝動に駆られていた。

公園のベンチには、猫が数匹丸くなって日向ぼっこをしているだけだった。手がかりは少ない。それでも、諦めきれずに公園の周りをうろついていると、公園の清掃をしていた作業員のおじさんに声をかけられた。昨日の老人の特徴を話すと、おじさんは少し考えてから、「ああ、時々この先の古民家に野菜を届けに来るじいさんかもしれんなぁ。確か、高柳さんとか言ったかな…」と教えてくれた。

礼を言い、教えられた古民家へと足を運ぶ。古びてはいるが、手入れの行き届いた立派な門構えの家だった。表札には確かに「高柳」と書かれている。深呼吸をして、意を決して呼び鈴を押した。

「…はい」

少し間をおいて、中から聞こえてきたのは、紛れもなくあの老人の声だった。

「あ、あの…昨日、公園でお世話になった…」

「おお、あんたか。まあ、入れや」

老人は、俺の訪問をまるで予期していたかのように、穏やかな表情で招き入れてくれた。

通されたのは、六畳ほどのこざっぱりとした和室だった。質素だが、隅々まで掃除が行き届いており、凛とした空気が漂っている。壁には古い掛け軸。部屋の隅には、使い込まれた座卓と座布団。そして、俺の目はある一点に釘付けになった。

座卓の横に、無造作に重ねられた数枚の大きな紙。それは、手書きで描かれたとおぼしき為替チャートだった。ドル円、ユーロドル…通貨ペアは様々だが、その全てのチャートに、赤インクで引かれた一本のシンプルな曲線だけが、まるで生き物のようにうねっていた。

「これは…」

思わず呟くと、茶を淹れて戻ってきた老人が、俺の視線に気づいて静かに言った。

「ああ、これか。ワシの…戦友みたいなもんじゃ」

戦友、という言葉の響きに、俺は息を呑んだ。その傍らには、日に焼けた分厚いFXの専門書や、英語で書かれた経済新聞の束も見える。

「じいちゃん…いや、高柳さんも、FXを?」

「まあ、嗜む程度にはな」

老人はそう言って茶を啜るが、その佇まいや言葉の端々から、ただの「嗜む程度」ではないことが窺えた。俺は、堰を切ったように自分のことを話し始めていた。FXで失敗続きなこと、借金を抱えていること、もう後がないこと…。老人は黙って俺の話に耳を傾け、時折、鋭い質問を投げかけてきた。

「お前さん、エントリーする時、何を根拠にしておる?」

「それは…なんとなく上がりそうだとか、この前の高値を抜けたからとか…」

「ふむ。で、損切りは?」

「…なかなか、できなくて。戻るんじゃないかと思って見てると、結局大きな損失に…」

俺が答えるたびに、老人は深く頷き、そして、核心を突くような言葉を続けた。

「お前さん、相場の何を見ておる? 単なる数字の上がり下がりか? それとも、その向こうにある、人間の欲望や恐怖のうねりか?」

その言葉は、まるで俺の心を見透かしているかのようだった。この人は、ただのFX好きの老人ではない。俺が今まで出会ってきた、どんなトレーダーとも違う。圧倒的な経験と、相場の本質を見抜く眼を持っている。

「もし…もし本気でこのFXという化け物みたいな世界で生き残り、勝ち続けたいと願うなら…」

老人は茶碗を置き、真っ直ぐに俺の目を見据えた。その瞳の奥には、昨日公園で見た時よりもさらに強い、射抜くような光が宿っていた。

「ワシが少しばかり、道を示してやらんでもない」

その言葉は、絶望の淵から 一筋の蜘蛛の糸のように、俺の心に強烈に響いた。

「本当…ですか?」

震える声で尋ねる俺に、老人はただ静かに頷いた。

俺の目の前に、新たな扉がゆっくりと開かれようとしていた。


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