第三話:師匠の試念と最初の教え
高柳と名乗る老人の「ワシが少しばかり、道を示してやらんでもない」という言葉は、暗闇の中で見つけた一条の光だった。俺、相馬海斗は、その光を掴むため、衝動的に畳に両手をついていた。
「お願いします! 俺に…俺に、FXで勝つ方法を、教えてください!」
声が震える。土下座せんばかりの勢いで頭を下げる俺を、高柳さんは静かに見下ろしていた。しばらくの沈黙の後、落ち着いた、しかし有無を言わせぬ力強さを秘めた声が降ってきた。
「FXは遊びじゃない。一時の気の迷いで首を突っ込んでいい世界でもない。全財産を失うどころか、人生そのものを狂わせる魔物にもなり得る。それでもお前は、本気でこの道を進むと言うのか?」
その問いは、俺の覚悟の深さを測っているようだった。脳裏に、強制ロスカットの赤い警告、消費者金融からの督促状、そして何より、何もできない自分への絶望感がよぎる。もう、あんな思いはしたくない。
「はい! どんな厳しい道でも構いません。俺は、本気です!」
顔を上げ、高柳さんの目を真っ直ぐに見つめて言い切った。俺の目には、もう迷いの色はなかった。
高柳さんは、俺の瞳の奥を見定めるように数秒間黙っていたが、やがて小さく、しかし確かに頷いた。
「よかろう。そこまでの覚悟があるなら、ワシも出し惜しみはせん」
その言葉に、全身の力が抜けそうになるほどの安堵と、新たな緊張感が同時に湧き上がってくる。
「ただし、いくつか条件がある。第一に、お前が今までかじってきた中途半端な知識や手法は、今日この場で全て捨てろ。第二に、ワシの教えに疑念を抱いたとしても、まずは黙って実践すること。そして最後に…決して焦るな。相場も、お前自身の成長も、一朝一夕に成るものではない」
一つ一つの言葉が、重く胸に響く。俺は力強く頷いた。
「分かりました。全て、お約束します」
「うむ」高柳さんは満足げに頷くと、少し意外なことを口にした。「では、最初の修行じゃ。お前が今まで見てきたチャートも、経済ニュースも、トレーダー仲間(もしいればだが)のSNSも、ありとあらゆるFXに関する情報を、今日から一週間、完全に断ちなさい」
「え…?」
予想外の指示に、俺は間の抜けた声を上げた。FXの修行なのに、FXから離れろと?
「そして、毎日朝昼晩、決まった時間にこの部屋に来て、ただ黙って蝋燭の炎を半刻(はんとき=約1時間)ほど見つめること。それが最初の課題じゃ」
座卓の上に、いつの間にか置かれていた一本の和蝋燭と火打石を指差しながら、高柳さんはこともなげに言った。
「ろ、蝋燭の炎…ですか? それが、FXと何の関係が…?」
戸惑いを隠せない俺に、高柳さんは静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「疑問は後じゃ。まずは言われた通りにやってみるがいい。できぬか?」
「い、いえ! やります!」
師匠の真剣な眼差しに、俺は反射的にそう答えていた。
その日から、俺の奇妙な修行が始まった。FXの情報から完全に遮断されるのは、想像以上の不安を伴った。常にチャートの値動きをチェックし、経済ニュースに一喜一憂していた日々。それがなくなった途端、まるで世界から取り残されたような感覚に陥った。
そして、蝋燭の炎を見つめるという修行。最初は集中できず、雑念ばかりが頭をよぎった。借金のこと、将来のこと、そして何より、「こんなことで本当に強くなれるのか?」という疑念。だが、三日、四日と続けるうちに、不思議と心が落ち着いてくるのを感じた。ゆらゆらと揺れる炎の奥に、何かが見えるような、見えないような…。焦りや欲望といった感情の波が、少しずつ凪いでいくのが分かった。今までいかに自分がノイズに振り回され、本質を見失っていたかを、朧げながら感じ始めていた。
高柳さんは、俺が蝋燭を見つめている間、時折部屋の隅で静かにお茶を飲んでいることもあったが、決して修行の邪魔をしたり、何かを教えたりすることはなかった。ただ、その存在が、俺に不思議な安心感と集中力を与えてくれていた。
そして一週間後。いつものように蝋燭の炎を見つめ終えた俺に、高柳さんが声をかけた。
「どうじゃったかな、この一週間は」
俺は、正直な感想を口にした。
「最初は、意味が分かりませんでした。でも…ここ数日は、少しだけ頭の中がスッキリしたような気がします。今まで、いかに自分が情報に振り回されて、肝心なことを見ようとしていなかったか…そんなことを感じました」
高柳さんは、その言葉に深く頷き、満足そうな表情を浮かべた。
「うむ。心の曇りが少しは晴れたようじゃな。それでこそ、次の段階に進めるというものじゃ」
そう言うと、高柳さんは部屋の隅に置かれていた、あの日見た手書きのチャートの束を座卓の上に広げた。どのチャートにも、やはり一本の赤い線だけが引かれている。
「さて、ここからが本番じゃ。お前には、この一本の線だけを頼りに、相場の本質を読み解いてもらう」
高柳さんは、その赤い線を指差しながら、厳かな口調で言った。
「世のトレーダーたちは、様々な道具(インジケレーター)を使い、複雑な分析を試みる。じゃがな、海斗。複雑なものほど、その本質は単純な一点に収斂されるものじゃ。ワシの言う『一本の線』…移動平均線は、その最たるものよ」
移動平均線。FXをかじった者なら誰でも知っている、最も基本的なテクニカル指標の一つだ。だが、高柳さんの口から語られるそれは、俺が知っているものとはまるで別次元の深遠さを秘めているように感じられた。
「この線はな、市場参加者全ての心理の平均であり、買いと売りの力の均衡点でもある。そして何より、欲望と恐怖という、人間が古来より抱える感情の揺らぎそのものを映し出す鏡なんじゃ…」
高柳さんの言葉は、静かに、しかし力強く俺の心に染み込んでいく。
「お前の新しいFXが、ここから始まる。心して聞け」
俺はゴクリと唾を飲み込み、師匠の次の言葉を待った。目の前に広がるチャートと、そこに引かれた一本の赤い線が、まるで未知の世界への入り口のように見えていた。
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