第六章「第六チャクラ ― 見えないものを見る目」

 深い森の中、朝露に濡れた落ち葉が足音に反応してしっとりと鳴く。頭上には厚く茂った樹々の葉が空を覆い、差し込む光はまるで点描画のように細かく地面に散っていた。その静寂と湿り気の中を、森谷隼と浅田紗季子は慎重に歩いていた。ふたりの足元には、いつの間にか人為的に積み上げられた小石の塔がいくつも現れていた。それはまるで、この先にある“記憶の迷宮”へ導く道しるべのようだった。

「ここが……“見たくないもの”と向き合う場所?」

 紗季子が息を呑むように言った。彼女の声は普段の強さを失っていて、森の奥へ吸い込まれるように消えていった。彼女の中にもまた、直視せずにきた“真実”が眠っていた。それは正義と責任感に突き動かされてきた彼女自身が、ずっと避けてきたものでもあった。

 隼は黙って頷き、ふと森の奥に目をやる。そこにはうっすらと霧が漂っており、濃淡の差によっていくつもの道が現れては消えていく。どこへ進めばいいのか、判断がつかない。その迷宮は、彼らの記憶と意識を映す鏡でもあるのだ。

「一緒に行こう。怖いけど……ひとりじゃ見られない」

 紗季子の言葉に、隼はわずかに目を見開いた。それは彼女にとって滅多に見せない「弱さ」を認める言葉だった。隼は黙って手を差し出し、紗季子は迷いながらもその手を取った。ふたりは霧の中へ、そっと足を踏み入れた。

 ――最初に霧の奥から現れたのは、隼の過去だった。

 湖のほとり。夏の日の午後。弟の声が遠くから響いていた。

「兄ちゃん、見て見て!こんなに泳げるようになったんだ!」

 隼はスマートフォンに目を落とし、弟の方をろくに見もせず、ただ適当に相槌を打っていた。

(あの時、なぜ立ち上がらなかった……なぜ、目を向けなかった?)

 霧の中で再現された光景に、隼は思わず顔を覆いたくなった。しかしその映像は彼に容赦なく突きつけてくる。弟が水中に沈み、助けを求める声を上げていたとき、隼はその場に立ちすくんでいた。ただ、恐怖に縛られ、助けを呼ぶことも、飛び込むこともできなかった。

(本当は、俺は――助けるつもりなんてなかったんじゃないか?)

 その思考が心の底から浮かび上がった瞬間、隼は激しい頭痛に襲われ、膝をついた。体中を駆け巡る痛みと共に、視界が揺れた。だがそのとき、ふいに別の視点が重なって見えた。

 それは弟の目から見た隼の姿だった。

 恐怖に震えながらも、今にも飛び出そうとする兄の姿。弟は水中でそれを見て、微かに微笑んだ――そう、隼が思っていたほど、自分は見捨てられていたのではなかった。

「……ちがう」

 隼は、呟いた。過去を否定するのではなく、その一部をようやく理解できた瞬間だった。自分の中にずっとあった「本当の記憶」――弟を見捨てたという思い込みは、恐怖が生み出した幻だったのだ。

 一方、紗季子もまた、自分の“真実”に向き合っていた。

 彼女の記憶の中、かつて支援活動で出会った被災者の少女が浮かび上がる。あのとき、少女は助けを求めていた。しかし、支援の枠組みや規則に則ることを優先した紗季子は、彼女の個人的な訴えを聞き入れなかった。

(私は“正しさ”という名のもとに、人を切り捨てた……)

 その思いが胸に突き刺さった。自分の信じていた白黒の正義が、人を救うどころか追い詰めてしまったかもしれないという痛烈な後悔。霧の中で、その少女が紗季子に背を向けて歩き去る姿を見たとき、彼女は膝を抱えてうずくまった。

「私は……間違ってたの?」

 その問いに答えはなかった。ただ霧が淡く揺れ、やがて誰かの手がそっと肩に触れた。振り返ると、そこには隼がいた。彼もまた、涙を流していた。

「間違ってたかどうかなんて……今はまだわからない。でも、俺は……紗季子があの時、俺に向き合ってくれたこと、救いだったよ」

 その言葉に、紗季子は肩を震わせて泣き出した。自分が与えていたのは責める言葉ではなく、寄り添うことだったのだと、初めて実感した。

 霧の中でふたりが肩を寄せ合った瞬間、空間が微かに震えた。霧が晴れていくとともに、周囲の森は深い静けさと透明な光に包まれていた。

 その光は、彼らの内面に眠る第六チャクラ――「アージュナー」の活性を象徴していた。それは直感、洞察、そして理屈を超えた“真実の知覚”を司るチャクラ。ふたりは今、その扉を静かに開けたのだった。

 言葉にならない共鳴が、ふたりの間に流れていた。

 終

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