第五章「声なき声、第五チャクラの目覚め」

 午後の陽射しは廃校となった校舎を淡く照らし、薄汚れた窓ガラスを通して埃っぽい光が音楽室に差し込んでいた。古びたグランドピアノの上には、何年も調律されていない鍵盤が静かに並び、空気には朽ちた木と乾いた埃の匂いが混じっている。

 北田雅彬はその音楽室で、ひとり静かにピアノの前に座っていた。彼の細い指先が、ゆっくりと鍵盤に触れると、微かな音が静寂の中を揺らした。雅彬は周囲から「信用されにくい人間」と思われ続け、孤立することが多かった。だが音だけは、いつだって彼を裏切ることなく、真実を語ってくれた。

「誰も信じてくれなくても、音だけは嘘をつかない」

 彼の呟きは部屋の隅々まで染み込むように響いた。雅彬の奏でる音色は、心の奥底に秘められた孤独や切望をそのまま映し出していた。それは彼の真実――誰にも届かない本当の声だった。

 そんな彼の演奏を、音楽室の入口からじっと見つめる人物がいた。野崎千里奈だ。彼女は雅彬の即興演奏を聞き、涙を静かに流していた。その涙は彼女自身の胸に秘められた葛藤や迷いに共鳴して溢れ出てきたもので、何か言葉にしようとするが、うまく表現できないもどかしさで揺れていた。

 雅彬の指がピアノの鍵盤から離れると、音楽室には再び静かな沈黙が訪れた。彼はゆっくりと振り返り、静かな微笑みを千里奈に向けた。

「音が君にも届いたようだね」

 千里奈は涙を拭いながら、微かに頷いた。

「私、ずっと自分の本当の声を見つけられなくて……。雅彬くんの音は、私の心そのものみたいだった」

 雅彬は静かに視線を落とし、鍵盤を指で軽くなぞった。その指先には、音楽という形でしか表現できない感情が宿っている。

 その時、静かな足音が近づいてきた。隼だ。彼はゆっくりと二人に近づき、躊躇いながらも口を開いた。

「二人に聞いてほしいことがある。ずっと黙っていたけど……俺が弟を死なせてしまったのは、俺が助けようとしなかったせいなんだ」

 隼の言葉は震えており、悲痛な響きを持っていた。これまで誰にも明かせなかった罪悪感が、ようやくそのまま言葉になったのだ。しかし雅彬はじっと彼を見つめ、静かに言った。

「君が本当に伝えたいのは、そんなことじゃないだろう?」

 隼は驚きに瞳を見開き、雅彬を見つめ返した。

「本当に君が言いたいことは、『助けられなくてごめん』ってことじゃなくて、『弟を失って辛かった』っていう心の叫びだろ?」

 隼の胸が強く揺さぶられた。自分が本当に伝えたかった声が、今、初めて他人の口から告げられたからだ。言葉にできなかった本当の声が、雅彬の言葉を通して明確になった。

「俺は……辛かった……」

 隼の喉から、やっと本当の声が絞り出される。その瞬間、長い間固く閉ざされていた彼の心の奥底にある第五チャクラが静かに、だが確かに震え始めた。

 雅彬は再び鍵盤に指を置き、静かに音を奏で始めた。その音は、隼の心から溢れ出た言葉を受け止めるように優しく響き渡る。千里奈もまた、涙を拭いながら口を開いた。

「私も、ずっと怖かった。誰にも本音を言えなくて……でも、あなたたちに出会って、やっと自分の本当の声を聞けた気がする」

 その言葉を聞きながら、雅彬は穏やかに頷いた。音楽室には、三人がそれぞれ胸に抱え続けてきた「本当の声」が響き合い、言葉にできなかった感情が一つの旋律になって流れていった。

 古びたピアノの音色が、柔らかな光と共に廃校の音楽室を満たしていく。それはまさに言葉を超えた真実の響きだった。

 誰にも聞いてもらえなかった声、伝えられなかった真実が、音となり響き合い、ついに彼らの心に届いたのだ。

 終

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